常に寡黙で不器用な健さんはどう怒ったか

12月8日(金)15時15分 プレジデント社

高倉健さんは黙って、じっと見る。それが怒りの表現だ。

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2014年鬼籍に入った「日本最後の映画俳優」高倉健。3回忌を迎えた今年、高倉健の貴重な取材音源が『高倉健ラストインタヴューズ』として書籍化された。紙幅の都合で収録できなかった「秘話」を、ノンフィクション作家の野地秩嘉氏がお届けする。第2回は「怒り」。高倉健は怒鳴ることはしない。では映画以外の場所で、どのように怒りを表現したのか——。(第2回、全3回)

■誰も知らなかった高倉健の真実


映画のなかでは怒りを腹にため、最後の最後まで決して表情に出さないのが高倉健だ。だが、現実の世界で、彼が怒った時、その怒りをどう表現するのだろうか。




高倉健さんは黙って、じっと見る。それが怒りの表現だ。

わたしは1995年に初めて高倉さんの取材をしてから、2012年の遺作『あなたへ』の現場で会うまで、その18年間に、100日以上の撮影所見学、30回くらいの喫茶(コーヒー)、10回の取材インタビュー、2回の食事をした。


前作『高倉健インタヴューズ』には膨大な記録のなかから、雑誌に発表した分だけを載せた。一方、今回の著作『高倉健ラストインタヴューズ』はどこにも発表したことのないものだ。高倉さん本人の携帯電話の番号まで知っていた熟練編集者、桂木栄一とわたしが録音したもの、そして、メモから起こして書いたものである。


なかにはさまざまなエピソードや、これまで誰も知らなかった事実がある。


たとえば、彼が1976年に東映を退社した後、わずかな作品にしか出ていなのは古巣、東映が自社のスタッフに「高倉を使うな」と言明したからだという。他の大手も東映に遠慮して、新作に彼を起用しなかった。わずかな間だったけれど、高倉健は干されていた。これは本人がある親友だけに語っている。確かに、東映退社後、彼が出たのは大映作品『君よ憤怒の河を渉れ』、独立プロの作品『八甲田山』、山田洋次監督が熱望した松竹作品『幸せの黄色いハンカチ』の3作だ。東映ももちろん、東宝もない。


ただし、3つの作品が大ヒットしたために、その後は「干された」状況ではなくなった。


高倉さんが『鉄道員』に出るまで19年間、東映作品の出演依頼を断ったのは独立した当初、「干された」ことに対して、東映幹部に怒りを覚えていたからだろう。



■撮影中にかけた催眠術


もうひとつ、誰も知らない高倉健エピソードがある。むろん、単行本には載っている。




『高倉健ラストインタヴューズ』(野地秩嘉著・プレジデント社刊)

東映時代のことだ。撮影所で催眠術が流行ったという。丹波哲郎さん俳優たちに伝授したところ、高倉さんがいちばん上手になった。高倉さんは習い覚えた催眠術を駆使して、撮影助手にこう言った。


「いいか、監督がよーい、スタートと言ったら人生劇場を歌うんだ」


そして撮影が始まった。


監督がメガホンを口に当て、「よーい」、「スタート!」と叫ぶ。すると……。どこからともなく「やーると思えば、どこまでやるさー」と人生劇場の歌詞が撮影所内に流れてきたのである。


「カーット?! 誰だ、歌なんか歌っとるのは」監督は激怒して、撮影助手の胸ぐらをつかんで外に出ろという。主演の高倉健は「まあまあ、監督」とそれをいさめる。


以後も高倉さんは催眠術を自分になりに進化させたようで、共演者が上手な演技ができるように、新人俳優には「がんばれ」と術をかけていた。


■高倉健の「怒り」の表現方法


では、高倉健がいったん怒ると、どういった具合になるのか。


わたしが見たのは数回しかない。一例を挙げればそれは『鉄道員』の記者会見をやっていた時だった。同作品のロケ地は富良野の近く、根室本線の幾寅駅である。期間は3週間ほどで、一日の撮影が終わると、時々、高倉さんや降旗康男監督が記者、ジャーナリストの質問に答える機会があった。


大勢を前にして座った高倉さんはひとつひとつの質問に真面目に答える。ベテラン記者よりも、「初めて映画のロケを見ました」といった新人記者に対して、より丁寧に、よりやさしく答えるのが彼の流儀だった。


彼は質問に対して、反射的に答えることはしない。じっくり考えてから答える。そのため彼の記者会見では質疑応答の間に、誰も何もしゃべらない、沈黙の時間がある。


思えば記者会見だけでなく、取材していても、うむと考えてから答えが来るまでに時間がかかるので、取材者としてはやりにくい人ではある。


「何かいけないことでも言ったのかな」と気になってしまうからだ。しかし、そうではなく、彼は誰よりもひとつの問いを真剣に考えてから答えを出す人なのである。



さて、そんな風にぽつりぽつりと質疑応答が続き、女性の新人記者が高倉さんに相対していた時、いかにも軽薄といった感じの中年オヤジが部下を引き連れて突然、部屋に入ってきた。そして、いきなり、「健さん、先日はお世話になりました」と大声でしゃべりかけたのである。おそらくどこかのテレビ局の人間だった。彼はそのまま高倉さんのそばに寄っていこうとしたが、記者会見中だったことにあらためて気づき、入り口で足を止め、ニコニコ笑っていたのである。そして、こりもせず、「健さん、さあ」と部屋の中央にいる高倉さんにふたたび話しかけたのである。


誰もが「バカだなあ」と思って成り行きを見守っていた。高倉さんはその男を見た。あいさつでもするのかなと思ったら、そうではなかった。男の方を振り向いて、一言も発することなく、頭のてっぺんからつま先までじっと視線を這わせた。それだけだ。しかし、目は合わせていない。全身を見ただけだ。


「高倉さんは、相当、怒っている」


誰もが感じた。軽薄オヤジもさすがに空気を読んだようで、こそこそと部屋から出ていった。


部屋から男が出ていったのを確認すると、高倉さんは女子新人記者に顔を戻し、微笑しながら「先ほど、なたがお尋ねになった件ですが……」と話を始めた。


彼は怒鳴ったりしない。怒りを表明することもない。黙って、じっと見る。それが怒りの表現だ。


実際、わたしがある人から聞いたエピソードもこのことを裏付ける。


「あのね、野地ちゃん、高倉さんを怒らすとそれは怖いよ」

「どうしてですか?」

「とにかくしゃべらないんだ。ある男に怒ったことがあった。身近な仲間と言ってもいい。高倉さんについて、余計なことを言ったらしい。これまたある仲間に対して、そいつは『健さんがお前のことをほめてたから感謝するんだぞ』と居丈高に言ったらしい。それで、高倉さんは怒った。だが、文句を言ったりはしないんだ。何もしゃべらないだけだ。余計なことを言ったやつとは顔は合わせる。たまに食事もする。しかし、一言も口を利かない。顔を見ながら一言もしゃべってもらえない。これはきついよ」


聞いてみたところ、高倉さんが怒った相手に口を利かなかった期間は1年以上も続いたらしい。



■「寒青」と「辛抱ばい」


高倉健は決して怒りんぼではない。それどころか怒りをコントロールする人だ。ナチュラルな人で、作り笑いはしないけれど、いつも相手をにらんでいるわけではない。


だいたい軽薄オヤジのような業界人はまずいない。高倉さんの前で出しゃばったり、人の話に割り込むなんてことはできないのである。実際、彼の前に出ると、たいていの人は緊張で声が出なくなるし、冗談を言うなんてことも実際にはなかなかできない。


そして、彼は辛抱強い。苦労があっても、不運なことがあっても、嘆き悲しむことはない。不作法な人間がいて、怒りはしても、そのことを他人に話したりはしないし、嫌みを言うこともない。


高倉さん本人は座右の銘みたいなものを「寒青」としている。


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「最近好きな言葉があって、

腕時計の裏蓋に、その言葉を彫ってもらいました。

「寒青」……。「かんせい」と読む。

中国語で何と発音するのか知りませんが、

漢詩の中の言葉で「冬の松」を表すそうです。

凍てつく風雪の中で、

木も草も枯れ果てているのに松だけは青々と生きている。

一生のうち、どんな厳しい中にあっても、

自分は、この松のように、

青々と、

そして活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、

楽しませるようにありたい」


(『旅の途中で』高倉健 新潮文庫)

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でも、わたしは違うんじゃないかと考えている。彼と親しかった札幌「すし善」の主人、嶋宮勤は「ことあるごとに『辛抱ばい』と言われた」と語る。


「健さんが子どものころ、お母さんから何かあると、剛(たけ)ちゃん、辛抱ばいと言われたそうなんです。僕も健さんと話をしていて、つい、苦労が口をついて出てしまう。すると、言われたんです。嶋宮、辛抱ばい。辛抱するしかないんだ、と」


高倉さんは怒ると怖いけれど、でも、辛抱の人だった。



(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

プレジデント社

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