「ブックオフせどり」が生きる希望だった…元ひきこもり・無職の男性(41)が“年商36億円の古書店”を作るまで

2024年12月9日(月)7時15分 プレジデント社

バリューブックスの創業者、中村大樹さん - 筆者撮影

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ネットで古本の買い取り・販売をするバリューブックス(長野県上田市)を立ち上げた中村大樹(なかむらたいき)さんは、大学卒業後に仕事に就かず引きこもりになった。転売ヤーという言葉すらなかった時、古本の「せどり」を始めて人生を大きく変えた。フリーライター・ざこうじるいさんが、中村さんの半生を描く——。
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バリューブックスの創業者、中村大樹さん - 筆者撮影

■創業17年で売り上げ70倍を達成した古書ビジネス


「実は僕、躁うつ病なんですよ」


そう切り出したのは、長野県上田市で古書ビジネスを営むバリューブックスの創業者、中村大樹さん。躁うつ病は気分が高揚する「躁状態」と気分が落ち込む「うつ状態」が繰り返される精神疾患で、双極性障害とも呼ばれる。


中村さんが2005年に一冊の本を転売したところから始まった古書ビジネスは、Amazonや楽天を通じて成長を続け、2024年6月度の決算で売上高36億300万円を記録した。2007年に法人化してから17年間で約70倍に売り上げを伸ばしたことになる。


移動型書店「ブックバス」や人気ポッドキャスト番組への書籍提供、「本だったノート」の販売など、遊びの延長のようにユニークな事業を次々に打ち出しながら、企業規模を大きくしてきたバリューブックス。


「うつっぽいときは、人を沢山巻き込んで売り上げをあげて収拾がつかないのにどうするんだ、という気持ちになるし、躁状態のときは、もっとやってやろう、もっとできるはずっていう感じになります」


同社が驚くべき成長と幅広い取り組みを実現してきた背景には、中村さんの躁うつ病が影響していた——。


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実店舗NABOの中庭 - 筆者撮影

■周りに流されて生きた少年時代


1983年、長野県千曲市で生まれた中村さんの幼少期は、意外にも読書や本との関わりが薄い。サッカーは楽しくて高校まで続けたが、進学も遊びも、周りをみて「そういうもの」と疑わず、「ずっと周りに流されるように生きて」きたという。


高校時代、人生で唯一のアルバイト経験をしたのも、サッカー部の先輩に「給料がいいから」と誘われたから。清掃の仕事はやりかたを工夫するのが面白かったが、効率的な方法を進言しても上司には「いいから決められた通りやれよ」とバッサリ。組織で働くということが高圧的で理不尽なものだと思い込み、ほどなくしてやめた。この時の感覚が、後に中村さんの進路決定に影響する。


上京し、夜間の機械工学部に通い始めてからも、周りに流される生き方は変わらず、同郷の仲間たちと送る怠惰な毎日。バイトもせず、早々に授業を離脱した中村さんの学生生活は、刺激的ではあったがどこか荒んでいた。


人生を変える転機があったのは、大学1年の夏休み。実家に戻っていた中村さんはその日、たまたま見ていたテレビで信じられない光景を目にする。アメリカ同時多発テロ事件「9.11」だ。


「ニューヨークが大変なことになっている……」


流されるように生き、平穏な毎日を送っていた中村青年はその日、生まれて初めて心をかき乱される。


幼い頃かわいがってもらった地元の先輩がニューヨークに住んでいることは知っていた。国際電話で連絡を取ると、先輩は無事だった。


写真提供=バリューブックス
高校サッカー時代の中村さん(7番) - 写真提供=バリューブックス

■本との出会い…ニューヨークでの1カ月半で起きた変化


2002年2月、19歳の中村青年はニューヨークにいた。9.11後、厳戒態勢が敷かれたニューヨークまでの航空チケットは1万円台と格安。事件後に連絡をとった先輩のアパートに1カ月半ほど滞在することにしたのだ。


中村さんは出発前にニューヨーク特集をしていた雑誌『BRUTUS』を読んで現地に思いを馳せた。その『BRUTUS』の写真を撮影したカメラマンが、先輩とルームシェアをしていた人物だと知ったのは、現地に到着してからのこと。雑誌の向こう側だと思っていた世界が、自分と地続きに感じられた瞬間だった。


先輩は他にも、ライターや画家など、現地でクリエイティブな仕事をする日本人を何人も紹介してくれた。確かに自分と同じ世界に生きていた彼らはしかし、同時に自分とはまったく違って見えた。


「周りに流されてふわふわと生きてきた自分と違って、その人達は自分で考えて自分で人生をつくっていたんです。強い憧れのような気持ちが生まれました」


彼らと生活を共にした中村青年は、ふとあることに気がつく。


「みんな本を読んで興味関心を広げたり深堀りしたりしながら、自分の人生を切り開いていたんです。今考えると不思議なんですが、本を読み出す前の自分は物心がついていないような感覚なんです。それまでの価値観がガラガラと崩れ落ちました」


■NYのクリエイターたちのように生きたい


滞在していた先輩のアパートの本棚には、小説、ノンフィクション、物理やアート、哲学など、幅広い分野の本が並んでいた。


本を読んでこなかった自分が強烈に恥ずかしくなった中村青年が「自分も読んでみよう」と借りたのは、村上龍の小説。それまで「自分とは関係ない」と思い込んでいた本の中には、自分と重なるストーリーが広がっていた。


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バリューブックスの実店舗NABOの本棚 - 筆者撮影

東京に戻ってからも、中村さんはニューヨークから帰国したカメラマンやその仲間との交流を続ける。彼らからの声掛けで、個展やクラブイベントの手伝いをするようになり、それまで受け身だった学生生活が一変した。


当時流行っていた『ウイニングイレブン』というサッカーゲームをみんなでプレイすると、活躍するクリエイターたちと対等でいられるような気がした。「ウイイレ」だけではなく思考も彼らに追いつきたくて、中村さんは貪るように本を読む。常に背伸びをしているような高揚感が心地よかった。


ニューヨーク訪問から1年後の春休み、中村さんはある決心を携えて実家に帰省する。


卒業に必要な単位がまったく足りなかったため、大学を辞めようと考えたのだ。辞めたあとのことは考えてはいなかったが、憧れるクリエイターたちのように生きたいという思いだけがあった。


■「学生」という身分を手放したら…


意を決して口火を切ろうとしたその瞬間、それまで何も言わずに仕送りを続けてくれた母が、何かを察したかのようにポツリ。「卒業だけはしてね」。


ハッとした。


自分が若い時に出来なかった分、息子には思う存分やりたいことをやってほしいと仕送りを続けてくれた母。すべて見透かされているような気がして急激に申し訳なさが込み上げる。中村さんは「裏切ってはいけない」と大学中退の決意をあっさり翻した。


そこからは、心を入れ替えて真面目に大学に通い始める。この頃には読書が習慣になっていた中村さんは、意外にも授業に面白さを感じた。それまで取りこぼしていた単位は、「単位の取り方」をハックするかのように先輩から学んで攻略。ギリギリの状態だったが、4年生の冬の試験を終えると、無事「卒業」の二文字が見えた。


ところがその途端、「学生」という身分を手放したあとの生き方が突きつけられる。


「あれ、卒業したら俺はどうするんだっけ……」


頭には、理不尽な思いをした高校時代のアルバイト経験がこびりついている。中村さんには、最初から就職の選択肢はなかった。


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当時について話をする中村さん - 筆者撮影

■活躍する友人たちがまぶしかった


実は在学中、憧れるクリエイターたちを真似て、いくつかの事業を試みていた中村さん。


最初はTシャツの手売り。白Tシャツにペンキローラーで色付けし、フリーマーケットで手売りしたが、食べていけるほどの収入にはならず、遊びで終わる。次にトライしたのは若者向けフリーペーパー。同世代のクリエイター志望たちと共に高円寺周辺を取材したが、結局発刊に至らなかった。フリーペーパーの延長線上に立ち上げたのがデザイン会社だ。先輩起業家と共同経営で事務所を借りたが、結局「これをやりきろう」とは思えずやめてしまった。


「何ができて何ができないかすらわからないから、世にあるできそうなことをやってみたんです。デザイン会社をやってみたけど、自分にはデザインの経験もないし、能力もないし、実はやりたくもなかったんですよ」


活躍する友人のクリエイターたちがまぶしかった。自分は何をしたら「これだ」と思えるんだろう……。焦りと強い劣等感が中村さんを襲い、卒業できるとわかった大学4年生の冬ごろから、鬱々と家に引きこもるようになる。


■「お前、ヤバイよ…」そして、引きこもりに…


交流が続いていたクリエイター仲間たちにも自分から連絡をとることはなくなった。一度だけ断りきれずに飲み会に参加したときに言われた言葉は、「お前、ヤバイよ……」。太陽の光を浴びない生活を送っていた中村さんの顔色は真っ白で、髪も髭も伸び放題だった。


「お前大丈夫か」「仕事を紹介しようか」などと善意でかけてくれる言葉がすべて「バカにされている」ように聞こえた中村さんは、以来、ますます他人を遠ざけていく。


2005年3月に卒業すると、「学生」という身分が否応なくとっぱらわれて「ニート」になった。周りが当たり前のようにスーツを着て自立していく中で、中村さんは「ヤバい」まま。他人の目に常に「苛立ち」を感じ、まったく人と会えない状態になっていた。


「親御さんは心配しなかったんですか」と尋ねると、意外な答えが返ってきた。


「卒業後に何かを言われることはなかったです。今考えると偉いと思うんですが、干渉しないって決めてたんでしょうね。ただただ仕送りを続けてくれていました」


親への申し訳なさと自分への惨めな思いが募り、なにかをやろうとすればするほど、蜘蛛の巣に囚われた獲物のように絡まって身動きが取れなくなった。


そんな中村さんを少しずつ蜘蛛の巣から解き放っていくきっかけが、読書だった。


写真提供=バリューブックス
バリューブックス・ラボの書籍 - 写真提供=バリューブックス

■「唯一の居場所」がジュンク堂だった


引きこもり生活の中で、唯一続いていた日課がある。当時住んでいた新高円寺駅から丸の内線に乗って、新宿の大型書店・ジュンク堂に行くことだ。


毎日のように店内で気になる本を手にって、ソファで読む。5時間ほど読み続けても、誰にも何も言われなかった。中村さんにとって「唯一の居場所」がジュンク堂だった。


読んでいたのは本田宗一郎や井深大など、技術者として独自の哲学を展開しながら社会に貢献した偉大な創業者の著書。華やかな王道経営者のストーリーとは違い、技術者として人生を切り開いた彼らの言葉は中村さんの心に響く。


他にもヘンリー・デイヴィッド・ソローやチクセント・ミハイなどといった思想家の本を通じて「働くとはなにか」「幸福とはなにか」を深く考えた。ひきこもり期間が長引くと、「とにかく自分の生活費を稼がなくては」という思いから、アフィリエイトや情報商材など小遣い稼ぎのノウハウ本を読む時間も増えていった。


とはいえ中村さんにとって、偉大な創業者の本も小遣い稼ぎのノウハウ本もひと続きなのだという。


「要は、どちらも自分の足で生きるっていうことなんです。自分にできる範囲で、自分の足で生きるために何ができるかっていうことを、リアルに受け止めるしかないんですよね。自分の場合はできることがたまたま何もなかった。何もないやつが、なんかやるにはどうするかっていう順で進んで行ったんだと思います」


■「僕にとっては“さなぎ”みたいな時期だったんですよね」


このとき身体的に「うつ」の状態に陥っていた中村さんは、思考能力も低下し、体も動かなくなっていた。ベッドから起き上がれない日もあったが、それでも「根本的に信頼していた」自分を活かす方法を「蜘蛛の糸を掴むように」読書を通じて模索する。


「この時期は僕にとっては“さなぎ”みたいな時期だったんですよね。ぐちゃぐちゃなんだけど、その中で作り変わって変態していく。死を意識するほどに最もつらかった時期であると当時に、最も創造的な時期でもあったんです」


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実店舗NABOにて本に囲まれる中村さん - 筆者撮影

■どん底で掴み取った「生きるためのパスポート」


引きこもり生活を続けていた9月のある日のこと。いつものジュンク堂で本を読んでいると、「カッコ悪いことで、みんながやりたがらないことをやろう」という一文が目に留まる。藁をも掴む思いで読んでいたのは、転売で小遣い稼ぎをするノウハウ本。


「転売は憧れるような仕事ではないし、なんならバカにされる仕事だと思ったけど、誰もやりたがらない仕事は素人でも難易度が低い。一度そこを切り替えないといけないと思ったんです」


さっそく自宅にあった大学時代の教科書をAmazonで出品すると、翌日すぐに買い手がついた。この時、それまで感じたことのない喜びに襲われたという。


「出品した本が売れたあとにAmazonから送られてきた自動メールが、『これから先も生きていいですよ』っていうパスポートみたいに感じたんです。自分が社会の中でやっていいことが見つかって、嬉しかったですね」


中村さんの頭には、引きこもりながら読んでいたジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』があった。仕入れたものを出品して売るというごくシンプルなサイクルは、自分の力で結果をもたらしたことを実感するために、当時の中村さんにとってとても重要なことだったという。


■せどりに出会って「これしかない」と思えた


そこからは、水を得た魚のように古本を売った。古物商許可をとり、手持ちの本がなくなるとブックオフで売れそうな本を買い付けた。10時の開店と同時にブックオフに入店し、本棚の端から端まで舐め回すように査定をしながら、閉店まで居座る毎日。買い付けの後は出品と購入者への発送作業を深夜に行い、朝になったら再びブックオフへ……。自分がやっている転売行為に「せどり」という名前がついていたことを知ったのも、ブックオフのせどり仲間からだ。


「社会に入り込めない辛さがあって死の淵を彷徨っている状態だったからこそ、せどりに出会って『これしかない』って思えたのかもしれません。そこまで落ち込む前のタイミングだったら、もしかしたら家にあった本を何冊か売って終わってたかも……」


当時は日本にAmazonが入ってきたばかりで、ユーザー数に対して供給が追いつかず、出したものがぽんぽん売れていった。1カ月目は10万円程度だった売り上げが2カ月目には60万円になり、手元に30万円が残ると、母に電話をした。


「もう仕送りはいらないよ」


それは、中村さんがずっと言いたかった一言だった。


経済的に自立できていないうしろめたさを感じていた中村さんにとって、同年代の初任給を超える30万円という額は重要な意味を持っていた。


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バリューブックス・ラボに並ぶ本 - 筆者撮影

■周りの目は気にならなくなった


せどりの売り上げは伸び続けた。一番の理由は「とにかく時間をかけたこと」だと中村さんは振り返る。


「みんな効率よくやろうとする中で、僕は人より長い時間を使ったんです。ずっとやっているうちに、本のタイトルや売れ筋なんかも頭に入って、スピードも上がりました。他の人が1日に1時間使って5万円稼ぐなら、僕は10時間使って50万円稼ごう、という発想です」


ようやく社会とつながれたことが楽しくて仕方がなかった中村さんは、毎日18時間働いた。


「自分の実感として何が楽しくて何が嫌かっていうのは、点を打つように実際にひとつずつやってみないと分からなかった。いろいろやってみた結果、自分にやれることは、とにかくしつこくやるってことくらいだったんです。自分が持ってる能力の中でこれだったら勝てるって思ったんですよね」


とはいえ、当初思い描いていたクリエイターのような仕事とはかけ離れた「せどり」を仕事にすることに、葛藤はなかったのだろうか。


「その頃には、周りの目は気にならなくなっていました。仲間も高円寺周辺にいたから、黄色いブックオフの袋を持って自転車で駆け回っていたら、『お前なにやってんの』って声をかけられるんですよ。『いや、ブックオフで本買ってきて売ってるんだよね』って普通に答えてました。いろんな反応があったけど、その時は恥ずかしいとかまったくなかったです」


■せどり仲間ができ、旧友たちが合流


せどりを開始して半年ほど経ったころ、当時ルームシェアをしていた友人が一緒にせどりをする仲間になった。その後も、一度就職した友人たちが「会社がつらい」「サラリーマン生活になじめない」などといった理由で合流。中村さんは蓄積したせどりのノウハウを仲間に共有し、みんなで夢中になって働いた。


「一緒にやっている仲間は気心が知れた人たちだし、みんなでゲームをやっているような感覚でした」


せどりで仕入れた本を東京の借家に置ききれなくなり、2006年には賃料の安い地元、長野に倉庫を借りる。翌2007年には、高校のサッカー仲間でもある当時の5人で会社を設立。中村さんが一人でせどりを始めてからわずか1年半たらずで、売り上げは5000万円ほどになっていた。


写真提供=バリューブックス
2007年当時の倉庫とスタッフ - 写真提供=バリューブックス

■大きくなった会社に生まれたひずみ


中村さんは会社設立と同時に、ブックオフからの仕入れをやめる。本を売りたい人から直接買い取ったほうが早いと考えたのだ。買い取りサイトの運営を開始し、それまでせどりに割いてきた時間や労力を、今度はマーケティングに注いだ。ここでも「しつこさ」を発揮し、会社設立初年度の売り上げは8000万円に成長。


売り上げを伸ばす一方で、中村さんにとってバリューブックスは「社会に適応できなかった自分の居場所」であることに変わりなかった。求人を出すようになってからも、集まってくる人たちは何かしらの事情を抱えた人がほとんど。心の病気を抱えている人、若くして子を持ったシングルマザー、どこも雇ってくれないというギャルのような見た目の人。


「社会に参加しにくい人が、それでも食べていかなきゃいけないっていう時に、経験や知識なんかが障壁になって、社会の真ん中は歩けないんです。アウトサイダー的なゾーンを攻めるしかないんですよ。当時の倉庫はあまりオシャレでもないし、時給が高いわけでもない。それでもここで働きたいって思う人には、みんな働いてもらいたいと思ったんです」


ところが組織が大きくなってくると、その居場所に変化が起きる。


写真提供=バリューブックス
倉庫内で働くスタッフ - 写真提供=バリューブックス

会社設立から2年ほどたったある日のこと。東京で電車に乗っていた中村さんは、急に息ができなくなって電車を降りた。「おかしいな」と思いながらもう一度電車に乗るが、再び息苦しくなって電車を降りてしまう。


各駅停車で10駅分を1駅ごとに降りながら、なんとか自宅に帰り着いた。家に帰ってもじっとしていることができず、走り回ったり自転車に乗ったりして肉体を限界まで疲れさせないと眠れない。何が起きているかわからなかった。


■社会から逃げたはずの場所で“社会”ができた


当時は会社の規模が大きくなり、関わる人や会議とともに経営のストレスが増えていた頃。社長として挨拶をしなければいけない全社会議の直前にもパニックになった。同じような症状が起きるたび、仲間には「お腹が痛くなった」などと言って誤魔化した。


中村さんによると、躁うつ病では、躁とうつの間の混合期や、躁が行き過ぎたときなどにパニック症状が出ることがあるという。そんなことなど知らない当時の中村さんは、「パニック障害なのかな」とも考えたが、周りには言えなかったし、言ってはいけないような気がした。


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創業まもない頃の合宿メンバー - 写真提供=バリューブックス

同じ頃、長野の倉庫スタッフの一人が会社を辞めることになる。それまでもやむを得ない事情で離れていくメンバーはいたけれど、その人は「自分が会社のなかで活躍できているかわからない」と悩んだ末に辞めていった。


元々友達同士で始めた会社ということもあり、最初は組織らしいルールや序列はなかった。ところが次第に人数が増えていくと、どこからともなくマネジメント体制や評価制度が持ち込まれ、自分自身も含め、居心地の悪さを感じる人がでてきてしまっていた。


社会から逃げて自分たちの居場所をつくったつもりが、いつのまにか自分たちの会社自体が社会性を持つようになっていたのだ。


■「やりがい」のために「捨てられる本」と向き合う


倉庫スタッフの離職がショックだった中村さんは、「働く人のやりがい」について考えるようになる。答えを求めて読んだ本には「褒めて育てる」というアドバイスがあったが、働いてほしいからと無理に褒めることには躊躇があった。


「働く人にとって大事な人に褒められたら、その人はこの会社でやりがいを感じるんじゃないか」そう考えて2009年に発案したのが、「ブックギフト」プロジェクトだ。


実は、古本の買い取りを始めて以来、じわじわと中村さんの中で大きくなっていた課題があった。それは、破棄せざるを得ない本の存在。状態がよくても需要に対して出品数が多すぎると値段がつかない。そういった「捨てる本」は当初から半数ほどあったが、買い取り数が増えるとその絶対数は大きくなる。2009年当時、買い取り希望の本は1日約1000冊。このうち半数の500冊が「捨てる本」となり、中村さんの中で罪悪感が膨れ上がっていた。


「例えばハリー・ポッターもそういう状態だったんですけど、小学校に寄付したら喜んで読まれるんですよ。捨てなきゃいけないっていうことが、ある意味で説明がつかない状態になっているんです」


写真提供=バリューブックス
日々たくさんの買取希望本が送られてくる倉庫 - 写真提供=バリューブックス

■「儲かるためにいいことをしよう」


「ブックギフト」は、このようないわば「捨てる本」を、地域の老人ホームや保育園に寄付することで、働く人のやりがいにつなげようというプロジェクト。


地域にもスタッフにも好評だったが、すぐに次なる課題にぶち当たる。本業で忙しくなると、売り上げに繋がらないブックギフトの優先度が下がってしまうのだ。当時の従業員はまだ20名程度。小さな企業の中で、売り上げにつながらない事業を続けることは難しかった。


「社会的にいいことでも、本業に組み込んでいかないと、自分たちみたいに小さい会社はあっという間にできなくなっていくと思ったんです」


こうして2010年、自分が応援したい団体に買い取り額を寄付できる仕組み「キフボン」をスタート。売り上げにつながる買い取り業務に社会的価値を加えたことで安定して社会貢献事業を継続できるようになった。現在は「チャリボン」として約200の団体が支援先として登録され、2024年6月までの累計寄付額はおよそ7億4000万円にのぼる。


「今の社会は『社会貢献性を無視すればするほどもうかる』みたいになっているでしょ。社会貢献性のある事業で資本主義のプレーヤーとして無視できないぐらいの存在になれば、『もうかるためにいいことをしよう』ってなっていくんじゃないかと思うし、そうならないと社会は変えられないと思うんですよ」


その後も再販率の高い本を出す出版社に売り上げの3割を還元する「エコシステム」や、捨てられてしまう本を集めて作った実店舗「バリューブックスラボ」など、事業に組み込む形で捨てる本を減らし、同時に社員のやりがいにつなげる様々な取り組みを手掛けていく。


しかしそれでも、中村さんの違和感は拭えない。


■会社が居心地のいい場所であるために


2021年、中村さんは社長の座を離れた。後を引き継いだのは、立ち上げメンバーの一人である清水健介さん。社長交代には様々な背景があるが、理由の一つは、肩書にとらわれない働き方や関係性をつくりたいということだ。2016年に視察したアメリカの企業で、創業者が社長という役割を別の人にバトンタッチしていたことも頭にあった。


「一番重要だと思うのは、会社が多軸的でありたいっていうことなんです。どうしても創業者が社長でずっと居座ると、1個の価値観に偏って権力的になってしまう。社長をやめて他の人にやってもらうっていうのは、その状態を抜けるための最初のステップでした」


さらに今年7月、3年間社長を務めた清水さんにかわって、今度は鳥居希さんが社長となった。鳥居さんは中村さんの少し年上の幼馴染で、親同士の仲がよく、幼い頃から中村さんと家族ぐるみで交流があった人物。大学卒業後に勤めた大手外資系証券会社でリストラを経験し、新たな道を模索するなかで中村さんと再会。2015年にバリューブックスに入社した。


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中村さん(右)と現代表の鳥居希さん(左) - 筆者撮影

「問題はたくさんあるんですが、女性が多い会社なのに、給与水準の低い仕事に女性が多く従事してるっていう状況をまずはなんとかしたいと思ったんです。その象徴として鳥居さんが代表についてくれたっていうのはありますね」


■会社のミッションは積極的に表に出さない


中村さんのユニークな経営方針はこれだけではない。


バリューブックスには「人々が本を自由に読み、学び、楽しむ環境を整える」というミッションがあるが、中村さんは敢えてそれを積極的に表に出さない。価値観の違う人を排除することを懸念しているのだ。


「ミッションは会社の向かう先を明示するために作ったんですけど、僕もスタッフも本が好きだからここで働いてるっていう人なんてほとんどいなくて、ここなら働けるから、なんですよ。本が好きじゃないと入れないってしたら、今ここで働いている多くの人が一緒に働けなくなってしまうんです」


そこには、たった1人で始めたときと同じように、バリューブックスが生きるための居場所であり続けてほしいという中村さんの思いがある。


「僕の1番のモチベーションは、自分がずっと躁うつで生きにくい状況だったから、自分自身を生きやすくするっていうことなんですよ。それをちょっと拡張して、他の人も生きやすい場所になるといいなって思うんです」


■古書ビジネスの矛盾をなくしたい


2024年6月、中村さんは初めて医療機関を受診し、躁うつ病の確定診断を受けた。ネットの簡易診断でそうだろうと思ってからは仲間にも説明してきたが、家族が増え、周囲により理解や協力を得ようと考えての受診だった。


社会から逃れてきたはずなのに意図しない社会性がうまれてしまったり、本を大切に扱いたいのに捨てる本をなくすことができなかったり……ビジネスを進めていくうえで起こる様々な矛盾に、中村さんは常に嫌悪感を抱いている。ひとつずつ矛盾の解消をはかってきたが、うつ状態になるとその嫌悪感は一層強まるという。


「自分の手が届く範囲で嫌なことが発生しないように丁寧にやれば、多分矛盾はないんだと思うんですけど、自分自身にも両面性があって、やりたくなってしまうんですよ」


躁うつの両面性とシンクロするように、事業の両極を振り子のように行き来しながら、中村さんは矛盾を統合する方法を模索する。


2024年現在、バリューブックスには1日に買取希望の本が約3万冊送られてくる。そのおよそ半数が値段がつかない「捨てる本」だ。


「捨てる本をなくすために、僕らが下流でできることはやってきました。でもこれからは、もっと上流の部分でなんとかしたい。出版業界は本を作りすぎているんです。その時だけ売れればいいというような、ファストファッション的な本の作り方をやめたいんですよ」


■自分を救ってくれた“本”の力を信じている


中村さんは今、本を丁寧につくり読み継いでいく仕組みを構想し、「スローブック」をスローガンに掲げようとしている。


参考元であるスローフードは、食をとりまくシステムの見直しをはかるイタリア発祥の草の根運動。それを本になぞらえて、つくり手が生み出した本を最後まで見守れる仕組みをつくったり、買い手が本を大切に読む環境を整備したりと、本の社会運動にしたいと語る。


写真提供=バリューブックス
店舗NABOで開催される「読書室」の様子 - 写真提供=バリューブックス

2024年9月から、バリューブックスの実店舗NABOでは、「読書室」という取り組みがスタートした。夜の店舗スペースを提供し、みんなで本を読む時間をつくろう、というものだ。中村さんはこれを「スローブックの一環の動き」として自らも足を運ぶ。


「情報が加速的になって本が読みにくくなっている現代において、読書室は、少しの緊張関係がある場所で本を読める自分に戻っていくっていう、リハビリ的な役割を担えると思うんです」


本を読むことの効果を自らの体験を持って実感してきた中村さん。本との出会いや関わりが人間を豊かにすると信じ、今日も矛盾と向き合っている。


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ざこうじ るい
フリーライター
1984年長野県生まれ。東京大学医学部健康科学看護学科卒業後、約10年間専業主婦。地方スタートアップ企業にて取材ディレクション・広報に携わった後、2023年よりフリーライター。WEBメディアでの企画執筆の他、広報・レポート記事や企業哲学を表現するフィクションも定期的に執筆。数字やデータだけでは語りきれない人間の生き様や豊かさを描くことで、誰もが社会的に健康でいられる社会を目指す。タイ・インド移住を経て、現在は長野県在住。重度心身障害児含む4児の母。
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(フリーライター ざこうじ るい)

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