ルーズベルトが無視した真珠湾攻撃の正確な予測

12月12日(木)6時0分 JBpress

1938年にハワイ・ホノルルを訪れた米海軍空母(レンジャー、レキシントン、サラトガ)

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(北村 淳:軍事社会学者)

 アメリカ海軍関係者で第2次世界大戦史に精通する人たちは、1940年12月8日(米国時間12月7日)の真珠湾攻撃を、アメリカ海軍としても多々教訓とすべき点が多い「戦術」的成功事例として高く評価している。ただし、日本軍首脳が策定した真珠湾攻撃における「戦略」目的は、全く達成することができなかったどころか、逆の結果を生ぜしめてしまったため完全なる失敗であった、と考えるのが通説となっている。


1940年が大統領選の年でなければ

 真珠湾攻撃に関して、ある戦略家は次のような興味深い指摘をしている。

 1940年が大統領選挙の年でなかったならば、日米戦は避けられたかもしれない、というものだ(当時の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは2期目であり、1940年は1941年1月後半からの3期目再選へ向けての選挙戦の年であった)。

 その事情を説明するにあたって、ルーズベルトとともに注目すべき人物がいる。1940年当時の太平洋艦隊司令長官、ジェームス・オットー・リチャードソン海軍大将である(当時のアメリカ海軍太平洋艦隊はアメリカ海軍戦闘艦隊であった)。リチャードソン大将は、太平洋艦隊司令長官と共に大西洋方面の艦隊である哨戒艦隊司令長官を兼務した。

 対日慎重派であったリチャードソン大将は、ルーズベルト大統領と対日戦略で鋭く対立していた。ルーズベルトは大統領選の年であったため、とりわけ国内世論動向を気にしており、リチャードソン大将の対日慎重論を許せなかった。結果的に、リチャードソンたちの対日慎重策が退けられて、真珠湾攻撃を招来することになった、というのだ。

 リチャードソンは日本の真珠湾攻撃を予見し、日本に攻撃を踏みとどまらせる対応と、ハワイ防衛体制の強化を訴えていた。しかしルーズベルトは第2次世界大戦に米国が正式に参戦する口実を造り上げるために、あえて日本に先制攻撃を実施させ、真珠湾の将兵を見殺しにしたという説がある。


人事を巡ってルーズベルト大統領と対立

 リチャードソン大将の名は日本では一般的にはあまり知られていないが、海軍戦略ないし海軍情報分析の観点から、彼の対日分析は特筆されるべきであろう。以下では、当時、リチャードソン大将がいかに冷静に情勢を把握し、日本軍の行動を正確に見通していたかを紹介しよう。

 1902年に海軍兵学校を卒業したリチャードソンは、水上戦闘艦畑を歩み1931年にアジア艦隊旗艦重巡洋艦オーガスタの艦長になる、その後、海軍大学校を卒業し1937年には海軍作戦部次長に就任。この時期、リチャードソン海軍少将は、次期海軍作戦部長(アメリカ海軍軍人の最高位)の人事を巡ってルーズベルト大統領と対立した。

 1938年には日本を仮想敵とした戦争計画「オレンジ計画」の改訂版を編纂した。そして1939年6月からは、海軍少将から海軍大将に特進してアメリカ艦隊司令長官(太平洋方面の「戦闘艦隊」と大西洋方面の「哨戒艦隊」の司令長官を兼務し、海軍大将のポストであった)として日本海軍と対峙する最前線に立つこととなった。


戦闘艦隊のハワイ常駐に強く反対

 日本との緊張が高まっていた1940年5月、ルーズベルトはハワイで大規模演習を実施していた戦闘艦隊(1941年2月以降は太平洋艦隊とよばれる、サンディエゴに司令部が位置していた)をハワイに常駐させよとの大統領命令を発した。

 その命令に対して、海軍軍人としてのキャリアをスタートさせた初期から日本海軍の研究をライフワークとしており日本海軍の戦略や戦術に造詣の深かったリチャードソン大将は、下記の理由により強く反対した。

・日本がアメリカとの開戦に踏み切った場合には、パールハーバーに本拠地を置く戦闘艦隊を攻撃することは最も論理的な行動であり、ほぼ確実である。

・日本海軍の攻撃は、航空母艦を中心とした艦隊をハワイの北西方面から接近し、開戦通告なしに奇襲するという作戦を実施するに違いない。

・航空攻撃にパールハーバーが脆弱であることは、アメリカ海軍自身の演習でも証明されており、日本海軍が見逃すはずはない。

・パールハーバーの軍事施設は防御しづらく、ハワイというアメリカ西海岸から2000海里以上も離れた遠隔地への補給は極めて困難である。

・サンディエゴからハワイに戦闘艦隊の本拠地を前進させるということは、日本側を露骨に挑発することになり、日本を対米戦争に踏み切らせることになる。

 要するにリチャードソン大将は、

(1)日本を挑発すると日本海軍は必ずパールハーバーを攻撃する
(2)日本海軍はハワイの西北方面から航空奇襲攻撃を仕掛ける
(3)パールハーバーは航空攻撃に対する十分な備えができていない

と主張し、戦闘艦隊のハワイ常駐に強く反対したのである。

 しかしこれに対してアメリカ軍首脳の多くは、日本が対米戦に踏み切った場合には、

(1)まず日本軍はフィリピンを攻撃し、次にグアムを攻撃する
(2)ハワイ攻撃はフィリピンやグアムを占領してからのステップとなる
(3)南太平洋を拠点にする日本海軍はハワイに西南方向から進撃してくる
(4)ハワイ防衛で最も危険な要素は、日系人によるサボタージュ(妨害)である

と考えており、リチャードソン大将の警告に耳を貸そうとはしなかった。

 パールハーバーの軍事的脆弱性を強く危惧したリチャードソン大将は、直接ルーズベルト大統領と面会して、極めて強硬に戦闘艦隊のハワイ常駐に反対し続けた。

 だが、何らかの口実を見つけて第2次世界大戦にアメリカを参戦させられないものかと考えていたルーズベルトは、1941年2月1日、リチャードソン大将を太平洋艦隊司令長官と大西洋艦隊司令長官から解任するとともに海軍少将に降格してしまった(同2月1日付で、戦闘艦隊は太平洋艦隊となり、哨戒艦隊は大西洋艦隊となった)。

 また、リチャードソン大将と共同歩調をとりハワイ防衛の強化(ハワイ防衛を陸軍と海軍が共同で実施)を訴えていたアメリカ陸軍ハワイ軍管区司令長官、ヘロン陸軍中将も2月7日に司令官職を去り、4月1日には退役した(ただし日米開戦後、陸軍に復帰し、1948年に退役)。


真珠湾攻撃を予測・警告していた報告書

 リチャードソン大将(少将)が解任されて間もない2月27日、米陸軍ハワイ軍管区航空部隊司令官であったフレデリック・L・マーチン陸軍少将と、パールハーバー海軍基地防衛部隊司令官であったパトリック・N・L・ベリンジャー海軍少将が、リチャードソン海軍大将とハロン陸軍中将の下命により実施していた研究レポート「マーチン・ベリンジャー報告書」が軍首脳に提出された。

 このレポートの要旨は下記のようなものであった。

(1)日本は宣戦布告に先立ってパールハーバー攻撃を開始する。
(2)この奇襲は、西北方面から接近してきた最大6隻の空母からなる機動部隊は、オアフ島300海里程度から、夜明けに、艦載機を発進させて、航空攻撃を実施する。
(3)航空攻撃に先行して、あるいは並行して、潜水艦による攻撃も実施する。
(4)日本海軍の奇襲により、オアフ島の軍艦と軍事施設は壊滅し、米軍は長期にわたり効果的な反撃ができなくなる。
(5)日本の潜水艦ならびに機動部隊は、米軍情報網にキャッチされることなしに、オアフ島への接近を果たす。


リチャードソンの警告を無視した新司令長官たち

 リチャードソン大将(少将)の後任として太平洋艦隊司令長官に任命されたのは、ルーズベルトが海軍次官の時に副官だった、ルーズベルトお気に入りのハズバンド・エドワード・キンメル海軍大将(少将から昇任し、序列30人以上を飛び越しての任命となった)であった。またウォルター・キャンベル・ショート陸軍中将が新任のハワイ軍管区司令長官に任命された。

 キンメル新司令長官もショート新司令長官も、ともにリチャードソン前司令長官とヘロン前司令長官からパールハーバー基地に対する北西からの航空攻撃の危険性や防空態勢の脆弱性についての資料を手渡されていた。また、当然のことながらマーチン・ベリンジャー報告書も手にしていた。

 しかし、「日本軍はフィリピンなど南方を占領した後に、南西方面からハワイに進撃してくる。ハワイ最大の危険は日系人によるサボタージュである」といったアメリカ軍首脳の通説に固執していた両司令長官は、前任者からの申し送りには耳を傾けようとせず、手渡された資料には目を通すこともなかった。

 そしてリチャードソンの警告どおりに、12月7日の早朝、5隻の日本海軍特殊潜航艇(甲標的)がパールハーバーに接近しつつあった。また、ハワイ時間午前6時30分、西北方面から接近しオアフ島北方220海里付近海上に到達した6隻の日本海軍航空母艦からは、第一波攻撃隊として183機(189機説あり)の航空機が発進したのだった。

筆者:北村 淳

JBpress

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