ノストラダムス五島勉の遺言「終末を思え、道は開かれる」

1月1日(月)11時0分 文春オンライン

大ベストセラー『ノストラダムスの大予言』を書いた五島勉さんとは、一体どんな人生を歩んできた人なのか? インタビュー後半では今から60年前、週刊誌ライターとして活躍していた時代のこと、そして戦争経験者として語る「日本への遺言」をお話しいただきました。( 前編 より続く)



五島勉さん。昨年88歳になった



ライター歴60年以上 『女性自身』に創刊号から書いてるんです


—— 『ノストラダムスの大予言』を書くまで、五島さんは週刊誌のライターとして長くご活躍だったんですよね。


五島 上京後しばらくしてから、出版社が次々と週刊誌を創刊する時代になりました。私は、光文社の『女性自身』に創刊号から書いてるんです。


—— 『女性自身』は、立ち上げから2ヵ月という短期間で創刊されたとか。


五島 もうゴチャゴチャ。しかも美智子さまブームの直前で、皇太子妃候補をピックアップして、何人もの人を追っかけたり張り込んだりと、こっちも必死でしたね。


—— その頃の記事で、今でも覚えているものはありますか?


五島 創刊してすぐにスチュワーデス殺人事件がありました。後に松本清張さんが、それを題材に小説を書いてますね。





—— 『黒い福音』ですね。あの事件を担当されたんですか!


五島 はい。BOAC航空のスチュワーデスが、杉並区の善福寺川で殺されてたんですが、どういうわけだか発見直後に私たちのところへ情報が入ったんです。川に行けばまだ死体があるというから、みんなですっ飛んで行った。たしかに川の中で死んでました。もう警察が来てましたけどね。


—— すごい現場に立ち会われたんですね。


五島 カトリックの外国人の神父さんが疑われたんですけど、よく分からない。事件の背後関係が極めて奇怪で、今でも怖いです。たぶん麻薬がらみだったと思うんだけど、BOACの中に外国とすごい取引をしていたグループがあったらしく、のち関係者が100人近く処分されるということもありました。だけど、事件は結局うやむやになりました。



草柳大蔵、竹中労、種村季弘……週刊誌時代の仲間たち


—— 『女性自身』には、いわゆる「トップ屋」として名を馳せた方がたくさん参加されていたんですよね。週刊誌ジャーナリズムの草分け的な存在の草柳大蔵さん、ルポライターとして今なおファンの多い竹中労さん。


五島 大蔵さんは私よりずっと偉い人で、彼がでーんと構えて芸術的なトップ記事を書いてましたね。とてもセンスのある人で、私はずいぶん勉強させてもらいました。草柳グループというのがあって、その人たちは威張ってる感じだったけど、大蔵さん自身はとても私に好意を持ってくれて、取材で行きづまった時など、子分を何人か貸してくれたこともありました。





—— 竹中労さんは、いかがでしたか?


五島 彼は野人でね。女性週刊誌なんかに何しに来たんだって思いましたよ。わりとハニカミ屋なところもあって、取材が上手くできないことがあるんです。そんなに記事を書くのも上手くないしね。ものすごく主観が多いんですよ。だけど、乗ってくるとすごいことをやる。スクープを連発したり、ある種の芸能記事を書くのなんかは上手かった。


—— あと、意外なところでは、後にドイツ文学者として幅広く活躍する種村季弘さんも、当時は光文社ですよね。


五島 タネちゃんは、当時れっきとした光文社の編集者ですよ。私と組んで、いろんな取材によく行きました。





—— 五島さんにとっては「タネちゃん」なんですね(笑)。どんな取材に行かれましたか?


五島 お妃取材とか。


—— あれ、種村さんもやってたんですか。


五島 もちろん。美智子さまの取材も終盤になってくると、全社を挙げて取り組みましたから。


「淋しき越山会の女王」児玉隆也との最後の会話


—— 五島さんが『大予言』を出されてから、かつての週刊誌のメンバーに何か言われたことってありますか?


五島 ないですね。ただね、池袋の東口に『女性自身』のグループが集まる喫茶店がありまして、そこには光文社を辞めてからもよく行きました。そこで、いろんな人に会って話をしたことがあって、今覚えているのが、児玉隆也さん。





—— 児玉隆也さんがいたんですか。田中角栄内閣を倒すきっかけの一つとなった「淋しき越山会の女王」を書いたジャーナリストですよね。


五島 彼とは『女性自身』で一緒だったんです。しばらくぶりに会ったんだけど、彼はそのとき癌なんですよ。どこかの病院にいたんだけど、一時出てきててね。彼の顔を見たら、ゴムみたいな色をしてるんですよ。「大丈夫か?」と言ったら、「大丈夫じゃないみたいだ」と。しばらく話をして、私に対しても「単行本というのは大変だよな」とか言ってくれてね。別れるときには、「ダマさん、頑張れよ」と言ったら、「ゴッちゃんも頑張れよ」と言われたのを覚えています。亡くなったのは、それから間もなくでした。


—— 年齢は一緒ぐらいですか?


五島 いや、彼のほうがずっと若いです。たくさんの編集次長がいましたけど、その中でも別格のデスクでした。






池田大作にインタビューした


—— 五島さんのライター時代のお仕事の中では、1970年頃に池田大作氏に関する本を書かれてますよね。これはどういったご関心からですか?


五島 最初の取っ掛かりは、別に大したことはなくて、周りに大作さんにインタビューした人がいなかったからです。それで、私がやってみたいと思ったんです。交渉してみたら、会ってくれるというんで、信濃町まで行きました。バラックと言うと怒られるかもしれないけど、粗末な板葺きの二階建てで、そこに創価学会本部もありました。





 大作さんに会った印象は、非常に精力的な人で、偉ぶったところが全くなかった。反権力みたいなものを感じましたね。それ以前に既成政党の幹部と会うこともあったけど、彼らは国民から金をかすめ取ってる官僚みたいな感じがしたんですよ。それに比べると、清新な感じを受けました。私は、「雑誌としてはどうだか分からないけれども、ライターとしてあなた方のことは好意的に見てます」と伝えて、それから付き合いが始まりました。でも、だんだん彼らが偉くなって、権力を持つにつれて、接し方が少しずつね。


—— だんだん壁ができた感じですか?


五島 そうですね。ただ、しばらくの間、創価学会というのを一つの新しい光みたいにこっちが見ていた時期がたしかにあるんです。でも、今の、自民党の言うことは何でも賛成で、アメリカと一緒になって軍備を増やすことにまで賛成する政党にどうしてなったんだろうというのはあります。


朝鮮戦争時のアメリカ軍を見て「こいつらはなんだ」って


—— 週刊誌時代から『大予言』シリーズまでの全体を通してみると、五島さんのお仕事から何か反米的な印象を受けるんですが。


五島 たしかにある部分で反米的です。


—— それは、戦時中や占領下の体験によるものですか?


五島 戦争そのものは、お互いに敵意を持っているんだから仕方ない。占領時代になると、アメリカ兵がたくさん入ってきて、みんな不愉快な思いをしましたけど、そのときも自分はそれほどひどい思いをしたことはないんです。むしろ、占領初期に来たアメリカ軍は、悪いやつもいたけど、いい青年が多いんですよ。日本人に対して自分たちが保護するんだという気持ちがありました。





 だけど、しばらくして彼らが引き上げ始めた後、朝鮮戦争が始まるんです。そしたら、各都市に別のアメリカ軍があふれるようになって、ひどいことになりました。ちゃんとした国の兵隊としての自覚のない兵士が多かった。町の中では騒ぐし、各都市に売春宿みたいなものもできてね、私は取材というわけじゃないけど見にいったんです。そこで、道で会った普通の女の人に暴行する姿とかも見たんです。そのとき、「こいつらはなんだ」と思って、いっぺんに嫌いになりました。


 その頃は、出版界でも反米的な本を書かせてくれたんです。反米で売ってる人にも、左翼の極端な人もいれば右翼の極端な人もいた。私は両方に書けましたから、両方から出してもらいました。そのときから抜けてないですね。もちろん、アメリカ人が全部悪いというんじゃない。いろんなアメリカ人がいて、一律には言えないですが。





—— やはりそういった圧倒的な体験があったんですね。


五島 ありました。それは、戦争中にしても、末期になったらずいぶんひどいことをやられるなというのは思いましたし。私たちは勤労動員でしたから。



8月15日、すぐにジャガイモを買い付けに来た商人に学んだこと


—— 終戦の時はどちらにいらっしゃったんですか? 


五島 北海道の十勝の新得の近くで農作業をやってました。アメリカ軍が入ってくれば中学生も戦わなきゃいけないというので、日曜日には戦闘訓練です。古臭い木箱を背負わされて、その中に大砲の弾を1発ずつ入れられるんです。20キロくらいあってすごい重い。



「ノストラダムスの生地を訪ねて行ったら、怪訝な顔をされましてね。あの辺ではファーブルの方が有名だから」


—— それは、要するに特攻のようなことですか?


五島 何かのときにはこれで戦車にぶつかれと。でも、できるわけないですよね。すごい重たいし、ヨタヨタ歩きですから。それをやらされたときに、日本の権力や軍隊というのは、なんてひどいことを強制するんだろうと思いましたよ。


—— 終戦の放送はどんな気持ちで聞かれたんですか? 


五島 聞きませんでした。新得というのは十勝の山の中ですから。道で出会った同級生から「日本は負けた」と知らされました。すぐそこにみんなで座り込んじゃって、どうしたらいいかというようなことを相談しました。ただ、いろんな日本人がいるものだと思ったのは、すぐにジャガイモを買い付けに来た商人がいたんですよ。


—— 8月15日の当日にですか?


五島 当日です。他に食料がないわけですから、もちろん儲かりますよね。だから、日本全体がどうすべきとか、みんな一緒になって行動しようとか、よく言うじゃないですか。だけど、やはり一人一人が終末的な状況と向き合って、各自それぞれのやり方で、そこから脱出することを考えておいたほうがいいな、と。


—— それは、終戦の日の光景を見て思われたんですか?


五島 そのとき思いましたし、今も思います。



「ノストラダムスの予言書は何冊も持っています。全部ボロボロになるまで読んでしまいましたけど」



いま挑戦しているテーマは……


—— 今日は、個人的なこともたくさんお話しいただき、ありがとうございました。五島さんのお仕事の根っこの部分を感じられたように思います。今も何かお書きになってるんですか?


五島 黙示録をテーマにしたものです。まだ書いてませんけど。



400字詰め原稿用紙に、鉛筆で書く


—— とてもシンプルな仕事場なんですね。今でも手書きですか?


五島 ええ、私はずっと手書きです。


—— 最後になりますが、これからの日本に言い残しておきたいことがあるとすれば、どんなことですか?


五島 そうですね……。「終末を思う」というのは、自分の家族とか一番大事な人たちをどうやって守るかということなんですよ。この時代、​誰も守ってくれないわけですから。​さっきのジャガイモの話じゃないけど、この前の戦争の時も、戦後に立ち直った人というのは自分で考えていた人です。だから社会がおかしくなったとき、それに立ち向かっていく力を持つ人なら​、未来を切り開いていける​と思う。​私も長く生きてきましたけど、言い残しておけるとすればそういうことですね。「終末を思え、終末の先を切り開け、道は開かれる」





写真=佐藤亘/文藝春秋



ごとう・べん/作家。1929年北海道函館市生まれ。東北大学法学部卒。ライターとして『女性自身』創刊時から活躍。1973年に『ノストラダムスの大予言』を刊行、大ベストセラーとなりシリーズ化される。ほかの著書に『アメリカへの離縁状』『幻の超古代帝国アスカ』など。




(笹山 敬輔)

文春オンライン

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