「いいことだけ考える」難病に“自由”を奪われた市原悦子さんが最期に教えてくれたこと

1月3日(金)11時0分 文春オンライン

「自分も周りも楽しくしたい」闘病生活の中でも市原悦子さんは“役者魂”を失わなかった から続く



 2019年1月に惜しまれつつも亡くなった市原悦子さん。ドラマ『家政婦は見た!』やアニメ『まんが日本昔ばなし』などで知られる名女優は、折に触れて人々の心に響く魅力溢れる「ことば」を遺していました。それらをまとめた書籍『 いいことだけ考える 』が刊行。珠玉の「ことば」が詰まった同書より、最終章のエピソードを公開します。



◆◆◆


 2018年の春、市原さんはNHKの『おやすみ日本 眠いいね!』の朗読を再開したり、宮沢賢治の『よだかの星』の朗読を引き受けたりと、仕事への復帰に意欲を燃やしていた。


 最後の1年間、自宅でのリハビリを見守った理学療法士の大沼晋太郎さんは、市原さんの頑張りに驚いたという。


「最初は左足の踝が固まってしまっていて、歩くのは無理だと思いました。でも、なるべく足の裏を床につけて、地面に触る感触を取り戻すようにしてもらったら、少しずつ足首が動くようになったんです。手すりにつかまって立つ練習をしているときに、おどけてお尻をフリフリしたり、おちゃめな方でした」


 しかし、体調は秋を境に下降していった。



市原悦子さん(平成6年) ©︎文藝春秋


 自分がいちばんそのことをよくわかっていたのだろう。11月半ば、街路樹が紅葉した葉を落としていく頃、自身を流れに浮かぶ枯れ葉に喩え、「まだ水底に沈んではいないし、少しはきれいな枯れ葉だけど、若いころはあんなに身体が動いて活躍もしたのに、どうにもならないものね」とこぼしたこともあった。


 盲腸炎を起こして入院したのはその10日後である。


 体力が持たないという判断で手術はできず、飲食禁止となった。それなのに、血管が細くて注射針が入りにくく、点滴を嫌った。ようやく飲食の許可が下りたときには、食欲もなくなり、薬も受け付けなくなっていた。


 それでも、年末年始は自宅で過ごすことができた。大晦日には、中学時代の恩師、岩上廣志先生の妻の康子さんが、手料理を持って自宅を訪ねた。市原さんはたいそう喜んで、さかんに懐かしい思い出話をした。



 しかし、年が明けて1月5日に症状が悪化して再入院。7日には、友人のミッキー吉野さんが病室に見舞いに訪れた。ミッキーさんが、今週テレビの音楽番組に出演するんです、と伝えると、市原さんは、少し呂律はまわらなくなっていたが、しっかりとした声で、「心臓に突き刺さるような演奏してね」と言った。


 市原さんの心臓が、ついにその鼓動を止めたのは、その5日後の2019年1月12日午後1時31分のことである。


 亡くなる前の4日間、市原さんの心臓は、普通の人の2倍近い130から140もの心拍を打ち続け、実に強靭な心臓だと、医師を驚かせた。まるでマラソン選手のような持久力だった。


 マラソンを観るのが好きだった市原さんは、以前こんなことを話している。



「私は、マラソンで言ったら、トップじゃなくて、中間あたりを走っているタイプ。でも心底好きだったら、常に真ん中くらいの順位でも、ひたすら、どこまでも走っていけるのよ」


 走り続けたまま、市原さんは向こうの世界に行ってしまった、と思った。市原さんの顔は、両手にすっぽりおさまってしまうくらい、小さく見えた。


空中を自由に舞い踊る天女


 1月18日は朝からよく晴れ、とても寒い日だった。


 青山葬儀所の祭壇は森の中のように緑があふれ、中央の白い胡蝶蘭の上で、市原さんが柔らかくほほえんでいた。無宗教なので、読経の声も流れず、線香の匂いもない。両側の大きなパネルには『家政婦は見た!』の名場面が映され、生涯、戦争をくり返してはならないと強く願っていた市原さんが、反戦の祈りをこめて朗読した『ちいちゃんのかげおくり』の録音の声が会場に響いていた。


 市原さんはきれいにお化粧され、棺の中で静かに眠っていた。中学時代の恩師、岩上先生も車椅子で参列した。献花のとき、岩上先生は、花に埋もれた市原さんの顔をさすりながら、「悦ちゃん、もうすぐ僕もそっちに行くからね、ちょっと待っててね」と話しかけていた。



 出棺のとき、青山葬儀所の建物の外に出ると、青空の下、沿道を埋める人々の群れが目に入った。平日の昼間だというのに、どこからこんなにたくさん集まってくれたのだろうか。500人は下らない。おそらくファンの人たちだろう。市原さんが好きだというその想いだけで集まってくれたのだ。


 市原さんを乗せた黒い車が門を出て行くとき、彼らはいっせいに手を振って見送ってくれた。その姿に思わず胸が熱くなった。


 斎場で、係員が市原さんのお骨の立派さを称え、喉仏と顎の骨は特に大きいと言ったとき、悲しみが込み上げた。あの色とりどりの声は、もう聴けない。


 すべてが終わり斎場をあとにするとき、ふと誰かに呼び止められたような気がして振り返った。



 背後の壁に平山郁夫画伯の「飛天」の陶板画があった。幅3メートルもあるその絵には、100人ほどの飛天が描かれている。中央には二人の天女がこちらに微笑みかけ、その周りで祈る者、笛を吹く者、踊る者が、黄金の領巾をまといながら浮遊している。


 わたしは胸がドクンと鳴るのを感じた。市原さんは宇治平等院の天女が好きだった。羽衣を風になびかせ、空中を自由に舞い踊る天女は、市原さんそのものだった。


 晩年、地上の市原さんは身体の自由を奪われた。陶板画の前で茫然と立ち尽くすわたしの耳に、市原さんの、あの懐かしい声が聞こえてくる。


「昔、死を前にしたお友達に『今、どんなことを考えているの?』と聞いたことがあるの。彼女の答えは『いいことだけ』って。病床にあっても、あんなことしようとか、こんなことしようとか。何かを創り上げていく想像は心を穏やかに、豊かにしてくれる。〈いいことだけ考える〉——。今の私も同じね」


 市原さんは、どんなときも、魂の自由は失わなかった。彼女の好きだった『梁塵秘抄』の一節、「遊びをせんとや生まれけむ」が、思わず口をついて出た。


 肉体から抜けた市原さんは、今、天女となって、再び大空を縦横に走り、自由に飛び回っているのだろう、そんな気がした。




(沢部 ひとみ)

文春オンライン

「市原悦子」をもっと詳しく

「市原悦子」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ