1月4日に思い出す、元南海ホークス・久保寺雄二のこと

1月4日(木)11時0分 文春オンライン

 毎朝、飼い犬の散歩で家の裏山を歩く。寒い時期は開けた場所から富士山がクリアに望めるのだが、毎年1月4日はその麓の方を眺めながら心の中で手を合わせる。今から33年前、1985年の今日は南海ホークスの久保寺雄二選手が亡くなった日だ。


 久保寺は1958年生まれ。静岡商時代は後のオリックス監督、大石大二郎と三遊間を組み、甲子園に2回出場して共にベスト8進出。76年ドラフト2位で南海に入団している。2年目に104試合出場と早くから一軍入りし、80年には初の規定打席到達で打率.292。リーグ最多の29二塁打を放っている。その後も外野、三塁、遊撃と毎年のようにコンバートされながら主力として活躍し、亡くなる前年の84年は藤原満から背番号7を受け継いで112試合出場。打率.272、9本塁打、49打点をマークした。



85年の1月4日に亡くなった元南海ホークスの久保寺雄二 ©共同通信社


南海・久保寺との出会いはカードゲームだった


 84年、小学4年生の時にクラスで『タカラプロ野球ゲーム』のブームが起こった。2個のサイコロを使うカードゲームで、各球団30人の実在する選手カードが封入されており、それぞれ前年の成績をもとに出目ごとの打撃結果が記載されている。強打者ほど出目による安打の確率は高く、落合博満掛布雅之あたりは全21の出目中8〜9本がヒット、うち3〜4本がホームランとなる。ゲームは攻撃側がサイコロを振り、1−1はホームラン、3−6はレフトフライといった具合に出目の結果によって進行する。カードとはいえ実在の選手を使って試合できるのが面白く、みんなで12球団総当たりのリーグ戦をやろうという話になったのだ。


 問題はチーム分けである。80年代半ばの神奈川・横須賀の小学生ゆえ、巨人に阪神、西武などの人気球団と地元の大洋は争奪戦だ。大洋ファンの筆者はジャンケンに負け続けた結果、最後に残った南海ホークスを担当することになった。興味のないチームのカードを大枚600円もはたいて買い、長いリーグ戦を戦わないといけない。ため息をつきつつおもちゃ屋で南海版を購入したが、カードを1枚1枚並べてみると次第に愛着が湧いてきた。それまでせいぜいドカベン香川、門田博光ぐらいしか知らなかったけど、河埜敬幸に新井宏昌、そして久保寺雄二と結構シブい選手がいるじゃないか。新聞のオーダー表を参考に自己流の南海打線を組み、リーグ戦に挑んだ。


 久保寺雄二の打撃力は21の出目中ヒットが確か6〜7本、うちホームラン1本と平凡だった。しかし、いざサイコロを転がすとなぜかヒットやホームランがよく出る。下手すると門田や香川よりも打ってくれるのだ。新聞で目にする実在の久保寺は7番か8番を打っていたが、こっちでは立派な3番打者である。リーグ戦は白熱し、休み時間を利用して1日2試合、3試合と対戦した。南海vs巨人なんて現実ではオープン戦でしか見られない試合はとても新鮮だった。ぼくらは田舎の小学校の片隅で、交流戦を20年先取りして行っていた。



プロ野球オールスター大運動会で活躍した久保寺


 いつの間にか南海ホークスと久保寺雄二が好きになった。その年の12月には横浜スタジアムで行われていたプロ野球オールスター大運動会を観に行き、そこで初めて久保寺の姿を目にする。一番のお目当ては毎年運動会になると俊足を武器に他を圧倒する大洋の遠藤一彦や屋鋪要なのだが、ポジション別80m走か何かで久保寺が優勝したのだ。「あんなに脚が速いなら、次のリーグ戦は1番久保寺でもいいな」。少し前まで何の興味もなかったのに、すっかり翌年も南海を担当する気満々である。運動会は85年元日のゴールデンタイムにテレビ東京で放送され、普段画面で見ることの少ない久保寺の勇姿を録画したビデオで何度も繰り返し見た。


 そのわずか4日後の朝、何の気なしに新聞のスポーツ欄を開くと思いもよらない文字が飛び込んできた。


【南海・久保寺雄二選手が急死】


 意味がわからなかった。記事によると久保寺は静岡・函南の実家に帰省しており、就寝中に急性心不全で突然亡くなったらしい。「だってこないだ運動会で活躍したばっかじゃん……」。俊足でカッコよく、カードゲームで打ちまくってくれた26歳の現役プロ野球選手が突然この世から姿を消す。このことが幼い小学生の頭ではうまく理解できなかった。


 でも、これは現実だ。翌月発売された週刊ベースボールの選手名鑑号に久保寺雄二の名前はなく、他の選手の意気込みには「今年は久保寺の弔い合戦の年」なんて書いてある。その頃少し背伸びして読み始めた漫画『あぶさん』にも久保寺を追悼する回が掲載された。そして春に発売された『タカラプロ野球ゲーム』の85年南海版には、やはり背番号7は封入されていなかった。久保寺のいない南海ホークスのカードで、筆者は85年のシーズンを戦った。


 ほんの数か月前まで活躍してくれた背番号7をスタメンに並べられないことで、日に日に喪失感が大きくなっていく。それは今にして思えば、まだ身内や身近な人が亡くなる経験をしていない10歳の子供にとって初めて人の死を実感する出来事だった。その3年後、南海がダイエーに球団を譲渡することになった時も、まず頭に浮かんだのは久保寺のことだった。


 裏山から眺める富士山の麓。そこは久保寺選手が静かに眠っている静岡県三島市の方角である。1月4日、南海ホークスの背番号7、久保寺雄二に思いを馳せる日々はこれからも毎年続く。


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(黒田 創)

文春オンライン

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