久米宏 「電信柱の実況中継」など駆け出し時代を振り返る

1月4日(木)11時0分 NEWSポストセブン

久米宏が駆け出し時代を振り返る(撮影/二石友希)

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 テレビが政治を動かし、時代を動かす──そんな番組は、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)以降ない。なぜそれほどの影響力を持ち得たのか、今のテレビとは何が違うのか。初の自伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』を刊行した久米宏氏が、自身の半生を振り返りながら、「テレビ論」を語った。


 * * *

 アナウンサーになるなんて、全然考えていませんでした。大学(早稲田大学政治経済学部)では、勉強そっちのけで演劇ばかり。主にフランスの翻訳劇を、長塚京三さんや田中真紀子さんと一緒にやっていたんです。


 卒業後は演劇プロデューサーを目指そう、それがダメなら得意の英語を生かして外国人相手の観光ガイドをやろうと思っていました。ところが、4年の夏になると、友達が就職活動に忙しくなって、急に家に遊びにこなくなった。


 母親が「おまえの就職はどうなの?」って心配するから、アリバイづくりのために仕方なくTBSのアナウンサー試験を受けたら、たまたま受かっちゃった。


 深夜放送がブームになり、これまでのように高校では放送部、大学では放送研究会に入るような人間ではなく、ちょっと風変わりなヤツを放送局が求めていた、ということでしょう。


 ところがTBSに入ってしばらくすると、僕は重い胃腸炎を患ってしまった。狭いブースに入り、マイクロフォンの前で生放送で話すことに異常に緊張してしまったんです。ようやく復帰したと思ったら、今度は健康診断で肺に影があると言われた。肺結核です。青天の霹靂でした。


 病気が治るまでは、アナウンス室の電話番をしながら、ラジオやテレビの番組についてレポートを書くのが仕事でした。新人なのに、いきなり窓際族です。アナウンサーをクビにならなかったことが不思議です。いい会社だったし、いい時代でもあったんです。


 一般のサラリーマンでも、他人の仕事ぶりをじっくりと観察する機会はあまりないでしょう。みんな自己流でやっているはず。アナウンサーも同じです。


 ところが僕は、病気になったことで、異常なほど先輩の仕事をチェックするようになった。人の仕事を客観的に観察する時期が2年もあったのは、今にして思えばとても幸運でした。


 転機になったのは永六輔さんの『土曜ワイドラジオTOKYO』の「なんでも中継」。15分くらいのコーナーですが、横断歩道の中継や歩道橋の中継、蟻塚の中継など、とにかく中継できないようなくだらない中継を、ディレクターの岩澤敏くん(後に演出家)と一緒に毎週必死に考えました。


 たとえば電信柱の中継はこんな感じです。駅前の雑踏からちょっと横道に入ると坂道がある。ラジオだから、全部音でやらないといけません。いい音のする靴を履いて、コツコツ足音を立てながら登っていくんです。すると、ぽつんと電信柱が立っていて、質屋の看板が貼ってある。


 電信柱を叩いたり触ったりしながらいろいろ中継するんですけど、途中からは、電信柱が自らの半生を回顧するんです。


「俺が生まれたのは栃木の工場だったよ。もう20年も前のことさ。セメントと砂と石を混ぜてね、中味が全部つまっていたら重すぎるだろ? だから中を中空に、筒状に作るんだよ。鉄筋を入れてね。だから俺は筋金入りなんだよ」って(笑)。


 電信柱には全部ナンバーが振られていて、いつ、どこの工場で作られた電柱なのかが全部わかるから、あらかじめ東京電力に電話して調べておくんです。外に出てしゃべるのはとても楽しくて、身体の調子もすっかり良くなりました。


■聞き手/柳澤健(ノンフィクションライター)


※週刊ポスト2018年1月12・19日号

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