「え、そのキスシーン必要?」「血縁主義」に回帰してしまった『スター・ウォーズ』最新作への違和感

1月5日(日)11時0分 文春オンライン

*以下の記事では、現在公開中の『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。


 突然であるが、フェミニズムの目的は何だろうか?


 それは、フェミニズム自体を終わらせることだ。性による不平等をなくすことがフェミニズムの目的であるなら、その目的が達せられることとは、フェミニズムが不必要な社会が訪れることに等しい。


 一部には、そのような社会はもう訪れた、という感性も存在する。現代は「フェミニズム以後=ポストフェミニズム時代」だ、という感覚である。



『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』主演のデイジー・リドリー(左)とジョン・ボイエガ(右)©Getty Images


 確かに部分的にはそう見えなくもない。とりわけ、ポピュラーなフィクション、特に映画や漫画やアニメを見ると、ここ3〜40年はパワフルな女性を主人公とする物語にあふれている。それに現実の上で対応するのが、例えばフェイスブックのCOOであり、『リーン・イン』の著者であるシェリル・サンドバーグだろうか。「ガラスの天井」を打ち破ってグローバルに活躍し輝く女性。輝くと言えば日本政府が女性活躍を口にする際に想定されているのはそのような女性なのだろうか。


 もちろん、そのような認識は間違っている。例えば世界経済フォーラムの最新のジェンダー・ギャップ指数において、一昨年の110位から153カ国中121位に甘んじた日本では、フェミニズムは必要の一言である。確かに女性の就労率は上がってきている。だがその大部分は非正規雇用だ。きらきらと輝くどころか、現在の経済において雇用の便利な調整弁として女性は労働市場にかり出されている。


 この「輝く女性」のイメージと現実との落差は何なのだろう。私は、ポストフェミニズム状況というのは、フェミニズム以後ではなく、そのような落差が存在し、存在するのにそれが隠された、そのような状況の全体のことだと思う。


続三部作の主人公・レイをフェミニズムの観点から分析すると……


 さて、この度、『スター・ウォーズ』の続三部作(シークエルと呼ばれる)の完結作となる『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が公開されたが、そのスター・ウォーズシリーズ、とりわけディズニーに製作が移った後のエピソード7から9の三部作は、まさにそのようなポストフェミニズム的な問題を考えざるをえない作品だった。


 それはまずなんといっても、レイという女性が三部作の新たな主人公となったからである。私は こちらの記事 で、『アナと雪の女王2』と『風の谷のナウシカ』との類似性を指摘したが、それに先行して拙著 『戦う姫、働く少女』 で、『スター・ウォーズ』のレイとナウシカの類似性を指摘した。この二人については、両者の登場シーンを比較すれば明らかである。腐海の毒を吸わないためのマスクをし、長いライフルをかつぐナウシカと、同じくマスクをして、彼女の象徴ともいうべき棍棒を肩にかついだレイの類似性は、あからさまと言っていい。





 服装だけではない。二人は、なみいる男性キャラクターたちに、その能力において勝るだけではなく、物語の「真実」により近いところにいる。ナウシカの場合は腐海の真実を知ることで、そしてレイは「フォース」の真実にだれよりも近づくことによって。


 シリーズ全体を見ると、レイは単にフェミニズム的なキャラクターなわけではない。私たちはとりわけ最初の三部作(エピソード4から6)の、「レイア姫」とレイとの比較を避けるわけにはいかないだろう。



「怒っている」レイア姫、「肩の力が抜けている」レイ


 最初のエピソード4(『新たなる希望』)は、騎士が城に幽閉された姫を救い出すという物語パターンを取っている。それ自体は、女性を守られるべきものとし、騎士が救い出して獲得する戦利品(=トロフィー)と考える、女性差別的な物語だ。


『新たなる希望』の、故キャリー・フィッシャー演ずるレイア姫は劇中で、この女性差別的な物語に精一杯の抵抗を見せてはいた。なにしろ、幽閉されていた彼女を救いに来た男たちに、脱出の計画もなかったのかとダメ出しし、みずから脱出口を切り開くのである。



 だが、最終的にレイアは主人公ルークの双子であり、彼女もジェダイの力を持っていると明らかになるにもかかわらず、彼女がライトセイバーを手にして戦うことはない(と、いう歴史も『夜明け』で「修正」されるのだが)。むしろ、レイアの物語は、ルークと双子であることが明らかとなってハン・ソロとの三角関係が解消し、ハン・ソロと異性愛的に結ばれることで決着する。


 ごく単純化するが、レイア姫=キャリー・フィッシャーと、レイ=デイジー・リドリーはフェミニズムの二つの世代を代表しているような気がしてならない。前者は、1960年代から80年代の第二波フェミニズム。この世代のフェミニズムは、いまだに残る性差別と戦い、女性の社会進出を獲得していった。レイア姫は、彼女を「女性化」しようとする、つまりお姫さま扱いしようとする力と常に戦っているように見える。


 それとの対照において、レイ=リドリーは、最初に述べたポストフェミニストだ。彼女は男たちに勝る力を最初から与えられている(『フォースの覚醒』前半での、フィンとの出会いの場面を見よ)。彼女は、彼女を「女性化」しようとする力から、そもそも自由であった。


 レイア姫=フィッシャーが苦闘したフェミニズム的問題からは彼女は自由に見え、「力が抜けている」ように見える。そしてなによりも、レイアのような怒りにとらわれていない。(この怒りという情動とそのコントロールというのも、(ポスト)フェミニズムの重要なテーマであるし、『アナ雪』や『ナウシカ』においても決定的に重要なテーマだ。一般に、ポストフェミニズムは怒りを否定し、よりポジティブな情動(自信など)を肯定する。)


 その観点からも、拙著 『戦う姫、働く少女』 でも引用した、キャリー・フィッシャーとデイジー・リドリーとの対談( https://www.interviewmagazine.com/film/daisy-ridley#_ )は様々な示唆にあふれている。



フィッシャー:聞いて! わたしはセックス・シンボルなんかじゃないし、セックス・シンボルだというのは他人の意見なわけよ。それには同意できない。


リドリー:その言葉は……


フィッシャー:まちがってるわよね? そう、あなたは衣装については闘いなさい。わたしのような奴隷になってはいけない。


リドリー:わかった。闘うわ。


フィッシャー:あの奴隷の衣装と闘いつづけなさい。


リドリー:わかったわ。



 フィッシャーがここで言っている「衣装」というのは、エピソード6『ジェダイの帰還』の冒頭で、捕らわれた彼女が非常に露出度の高い衣装を着ることを強いられたことについてである。彼女を「女性化(セックス・シンボル化)」したものに対して闘うよう、フィッシャーはリドリーに言う。しかし『フォースの覚醒』の当時において、リドリーにはそのように「闘う」必要はなかったかもしれない。


最新作で、レイは旧作の価値観との闘いに敗北した


 そう、その必要はその当時はなかった。あくまで過去形で、なかった。レイ=リドリーはフィッシャーが言った闘いにどうやら敗れてしまったのだ。



 『スカイウォーカーの夜明け』には、この三部作を支配すべきだったのとは異質なロジックが入りこんできたように思えてならない。


 前作『最後のジェダイ』では、レイは「何者でもない」ことが確認されていた。つまり、前の二つの三部作を支配していた血縁主義(フォースを操る力は遺伝による)を、この三部作、もしくは少なくとも『最後のジェダイ』は否定しようとしていた。


 それを象徴したのが、『最後のジェダイ』の最後のカットである。そこでは奴隷として使われている少年が箒をフォースであやつるカットが挿しこまれている。「フォース」は血縁に制限されるものでないかもしれない。それが一種の希望のトーンとともに提示された。(というわけで、私は続三部作の中では、ファンに最も評判の悪い『最後のジェダイ』が最高の作品だと評価したい。この作品は少なくとも何か新たなものを創りだそうと挑戦した。)


 ところが『夜明け』はその全てを引き戻す。どこに引き戻すかといえば、前三部作の血縁主義にである。レイは悪役で強力な闇の力の持ち主であるシス卿パルパティーンの孫であったことが明らかとなり、物語はレイがその悪夢の血縁を乗り越えて、フォースの表の面を象徴する「スカイウォーカー」を名乗ることで大団円を迎える。


 そしてなんと言っても『スカイウォーカーの夜明け』に対する私のもっとも大きな失望は、最後の、レイとカイロ・レンのキスシーンであった。私はこの場面に「それはないだろう!」と声を出しそうになった。ひょっとしたら実際に出したかもしれない。(ちなみに、もう一箇所同じ声を上げそうになったのはハックス将軍にまつわる場面だったが、これはまったく別の話。)



 私は正直、レイにあのような異性愛的な決着(つまり男と結びつくことによる決着)が用意されているとはまったく予想していなかった。そのような決着は、ここまで述べたようなレイのポストフェミニズム性とはまったく相容れないからである。この物語がレイの成長であれ、自分探しであれ、何でもいいのだが、主体形成の物語であるとして、その主体形成が男とくっつくこととはまったく違うところで行われるようなロジックで、この作品は出来上がっていたはずだ。


 ファンの間にはレイとカイロ・レンの結びつき(「レイロ(Reylo)」という造語もある)を待望する声があったのも確かだ。しかし、あのキスシーンはそのようなファンにとっても納得のいくものではなかったのではないかと想像する。


オリジナル三部作ファンへのサービスが忍び込んでいた?


 その他の点でも、『夜明け』にはオリジナル三部作のファンを喜ばせるためだけに作られたのではないか、と思わせる節がある。オリジナルからの人物を一通り再登場させたことだけでなく、オリジナル三部作の中核となった男二人・女一人の三角関係を彷彿とさせる、レイ、フィン、ポーの三人の関係を最後の場面でもう一度しつこく確認すること、またオリジナル三部作のテーマであった父・息子関係と、いわゆるプリクエル(エピソード1から3)のテーマであった母・息子関係を、カイロ・レンに仮託して早回しで反復してみせたことなど、色々と指摘できる。


 それにしても、中心にあるのはやはりフォースの血縁主義であるし、パルパティーンという絶対悪役の(安易な)復活である。この作品は『スカイウォーカーの夜明け』ではなく、『スカイウォーカーの亡霊』とでも名づけるべきだったのではないか?


 一言で言えば、「今までのは何だったの?」という感覚が、観賞後にむくむくとわき起こって来たのだ。(断っておくが、私は「往年のファン」なので、観賞中には基本的に何でもないところでもいちいち目頭を熱くしながら観ていたのである。)



なぜ『アナ雪2』も『夜明け』もルーツ探しの物語だったのか?


 これが『スター・ウォーズ』という作品の限界だったのか、J・J・エイブラムスという監督の限界だったのか、それとももう少し広く、私がここでポストフェミニズムと呼んでいる、女性とその表象をめぐる状況の変化の結果なのかは、はっきりとは言えない。


 ひとつ言えることは、ポストフェミニズムをみごとに表現するもうひとつの作品だと私が思っている『アナと雪の女王』の続編が、『夜明け』と時を同じくして公開され、その両方が、ポストフェミニズム的な女性主人公が「自分の謎のルーツ」を探究するという同じモチーフを共有し、それぞれにポストフェミニズムの真の問題を回避するような形でそれを解決していることは、偶然ではないかもしれない、ということだ。





 『アナ雪2』については 別に論じた のでご参照いただきたいが、いずれにせよ、この二つの作品のポストフェミニズム的女主人公のルーツ探しはうまくいかなかったと言わざるをえない。


 パルパティーンを倒してスカイウォーカーの名を取るレイは、血縁主義を否定していると論じることも可能ではある。だが、そこでは、ある血縁を否定することでやはり「スカイウォーカー」という血縁を肯定しているわけで、巧妙なごまかしがあると言うべきだ。


 というか、そもそも、ポストフェミニズム的な「戦う姫」たちに、ルーツは必要だったのか? ルーツを問わねばならなくなったこと自体、なんらかの時代の変化を示しているのではないか?


 これらの疑問への明確な答えは、申し訳ないが、ない。ただここで指摘しておきたいのは、こういった物語の変化の裏側で、「男たちの物語」もまた非常にいびつなものになっていることだ。


「異性愛的な期待に応えなければ」から生まれるいびつな物語


 そもそも、ポストフェミニズム的な物語においては、男性は力なき脇役、もしくはせいぜいやさしい助力者に回るしかない。私が『フォースの覚醒』や『アナ雪2』と比較した『風の谷のナウシカ』であれば、アスベルである。彼はナウシカを慕いつつ、彼女が自分とは違う世界、違う水準の存在であることを悟り、彼女をサポートしながらも自らの脇役性に納得していく(特に漫画版では明らか)。



 『アナ雪』であればその役柄はもちろんクリストフに負わされている。クリストフとアナとの異性愛物語は、はっきり言って「付け足し」のようなものでしかない。『アナ雪』の物語のロジックの中に、異性愛はじつは場所を持っていない。ところがおそらく、作品は世の中の異性愛的な期待に応えなければならない。


 そこで出てくるのがたとえば、『アナ雪2』でのクリストフの突然の絶唱の場面である。単にモタモタしていて置いて行かれたクリストフは、突然に80年代か90年代風の歌を、その年代のミュージック・クリップ風に歌い始める。これは私だけなのかもしれないが、あの場面は笑えばいいのか悲しめばいいのか怒ればいいのか分からず、変な顔にならざるを得なかった。


 あのような場面が出てきてしまうこと自体が、ポストフェミニズム的物語の一種のほころびかもしれない。



『スカイウォーカーの夜明け』についても、男たちの物語の奇妙さが、作品全体のほころびになっている。カイロ・レンは述べたように、息子と父(ハン・ソロという実父だけではなく、ルークやダース・ベイダーといった象徴的な父)との衝突というクラシックな物語と、息子と母の物語(レイアへの愛着の物語)を「全部やらされ」た上に、ご褒美のようにレイとキスをして結ばれるが、そのまま死んでしまうしかない。これだけクラシックな「男の子の主体形成/成長の物語」を全部やらされた上に、残されたのは死だけ。よく考えれば(考えなくても)ひどい話だ。


 もう一人はフィンである。彼は『ナウシカ』のアスベルのように、レイに恋慕をし、彼女を助けようとがんばる。しかし、彼の異性愛的な主体のありようは非常に中途半端というか、ぞんざいな扱いを受けている。『最後のジェダイ』ではローズ、『スカイウォーカーの夜明け』ではジャナという、いずれも新キャラをあてがわれるも、それぞれとの関係は結局曖昧なままである。



フェミニズムを軽やかに乗り越える女性の虚像が、“亡霊”を生む


 私はここで、こういった男たちがかわいそうである、もっとまともな物語や主体を与えられるべきだ、そもそも現代の男たち一般がフェミニズムの隆盛の中で割を食っていてかわいそうである、などと言いたいわけではまったくない。(現実には男たちはいまだに既得権者であり、フェミニズムのせいでひどい目にあっていると思っているなら、それは単なる現実の見間違いである──というより、ポストフェミニズム的物語がまさにそのような見間違いを起こさせているのだが。)そうではなく、ポストフェミニズム的な女性の物語のほころびとしてこういった男たちが生じてくるというのは、ひとつの典型だと指摘したいだけだ。


 このすべては、私がポストフェミニズム的物語と呼んできたものにおける女性主人公の像が、虚像にすぎないことの帰結なのだろう。フェミニズム的な問題をすべて軽やかにクリアして活躍する「輝く」女性たち。そういった女性像からこぼれ落ちてしまうようなさまざまな現実が、亡霊のように物語のほころびとなって回帰している。彼女たちの「ルーツ」を本当の意味で見つけたいなら、私たちはそういった亡霊の出所を探す必要があるのだ。




(河野 真太郎)

文春オンライン

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