三宅雪子氏 交流あったジャーナリストが明かす「暗中模索」

1月7日(火)7時0分 NEWSポストセブン

遺体は芝浦の海岸で見つかった(時事通信フォト)

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 三宅雪子・元衆議院議員の突然の訃報に、衝撃が広がっている。自殺とみられ、自宅から遺書のようなものが見つかったと報じられているが、いったい何が彼女を追いこんでしまったのか。死の直前まで交流のあったジャーナリストの福場ひとみ氏が、彼女の知られざる落選後の人生を明かす。


 * * *

 今回の訃報を聞いて愕然としてしまった。生前にもっと彼女の再起をサポートできればという悔いが募る。週刊誌の取材記者をしていた私が三宅雪子さんを取材したのは、2017年のこと。そのとき彼女はすでに落選していたが、議員らの政治活動に頻繁に顔を出すなど政治活動をつづけていたので当時の選挙事情にもとても詳しかった。以降、時々食事したり電話で情報提供を受けたりする関係だった。


 彼女に会いに行くと、自宅マンションにどうぞと案内された。自宅は港区一等地の閑静な住宅街にあり、広々としていた。労働大臣・運輸大臣・内閣官房長官を歴任した故・石田博英氏の孫で、父は外交官、生まれはワシントンD.C.。全盛期のフジテレビに河野景子有賀さつきらスター女子アナの同期として入社し、小沢一郎氏の後押しを受け政治家になり、政権交代でいきなり与党議員に。落選したとはいえ、恵まれた境遇を歩んできたように見えた。


 通常、取材とはいえ、初対面の人物を自宅に招き入れてくれる人はめったにいない。ところが彼女はあっさりとリビングまで案内してくれた。しかも部屋着のまま、ボサボサの髪でノーメイク。睡眠不足なのだろうか、目は半開きで表情も虚ろだった。初対面にもかかわらず、無防備さをさらけ出していた。


 最初の取材の後、今度は彼女と自宅前にある高級ホテルのラウンジでお茶をすることになった。すると前回とは見違えるように、髪を整え、化粧をして、現役議員のころ“芸能人並みの容姿”と持て囃されていた時のようにキラキラとした姿になっていた。あとで彼女のツイッターを見てみると、久しぶりに美容院に行ってきたのだという。


 そのとき「実は、ルポライターとしてメディアで発信していくことを考えているんです」と相談を受け、彼女は考えてきたというアイディアを山のように話してくれた。現役の議員ではないにもかかわらず、彼女の得意とする厚生労働分野などの細かな動きに精通していた。聞くと、元国会議員の場合は煩雑な手続きなしで委員会を傍聴できるそうで、頻繁に通っているのだという。


 そして、彼女から自著や過去に書いた記事のコピーやサンプル記事、そして企画書をもらった。私から各種メディアに売り込んでほしいということだった。「私の出した企画はいつも通るんです。いままで落ちたことがない、必ず通るんです」と自信たっぷりに見せてくれた。その後も企画を出してくれるたびに、そう言っていた。


 サンプルとして渡してくれたものひとつに「小沢一郎と私」というエッセイがあった。彼女の父と小沢氏との関係から始まり、自身が議員となるきっかけなどが綴られていた。ただ、こうした企画は「小沢ガールズ」として持て囃された時代には企画が通る場合もあったかもしれないが、旬を逸した話題を記事にすることは難しく、結局、世に出すことはできなかった。


 その後も、彼女とは時々連絡を取る関係が続いた。私が政治に関する漫画の監修をするといえば、自身の政治家としての経験を語ってくれるなど、最大限の協力をしてくれた。


 彼女によると、雪子という名前は、吉田茂の妻として政界から人気のあった雪子夫人にちなんだ名前であり、吉田家と交友関係のあった父からつけられたのだという。幼い頃から政治の世界と遠くない距離にいて、いろんな刺激を吸収してきたのだろう。彼女は多くを吸収する人で、多くの現役議員よりも勉強熱心だったように思う。


 彼女から発せられる言葉は力強かった。弱い立場の人に救いの手を差し伸べたいという政治に対する熱意を失っていなかった。フジテレビ同期である有賀さつきさんが亡くなった際も、残されたお子さんのことをとても心配していた。


 しかし、一方で、彼女が抱えている弱さも垣間見えた。彼女はインターネットで元支持者から誹謗中傷を受けていることを気に病んでいた。「そんなことを気に留めていると精神的にもたないですよ」と言って聞き流していたが、当事者になると簡単には無視できないものなのだろう。彼女はネットストーカー問題の企画も多数提案してくれたが、それもなかなか企画には繋げられなかった。メディア関係者を直接紹介することもしたけれど、元国会議員としての発信は色がつくと敬遠され断られることもあった。


 それでも昨年、彼女は自力で日刊紙の連載の機会を得たようで、嬉しそうな連絡が来た。そして地方議会の議員としてローカルに活動する可能性にもチャレンジしたいなどとも抱負を語っていた。


 昨年11月に彼女から私に来た電話が最後だった。「今度、要人と会うから、三宅雪子のインタビューということで、どこかのメディアでできないでしょうか?」という提案。私は可能性のありそうなメディアに打診してみたがいい返事は得られなかった。年明けくらいに編集者を紹介しますねと話したきりだった。彼女は「腰痛で痛い、薬を飲んでも耐えられないくらい激痛で辛い」と珍しく愚痴った。たまたま私もヘルニアを発症し歩けない状態だったので「たまたまですね、私もですよ」というと、そんなレベルじゃないんだと言っていた。


 落選してからの彼女は、長く暗中模索の様子だった。政治家として、世の中のために働きたいというエンジンがかかったまま、動かす場所を見失っていたようにみえた。それでも彼女はもがいていた。頑張ろうとしてもがいてもがいて、そしてどこかで糸が切れてしまったのだろうか。今はただ、冥福を祈るほかない。

NEWSポストセブン

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