文藝春秋元編集長 小沢一郎氏と細川護煕氏の共通点を解説

1月8日(日)7時0分 NEWSポストセブン

日本新党党首の細川護煕氏を首班に、細川連立政権が誕生し、「五五年体制」に終止符が打たれたのが1993年のこと。その前年の1992年、当時の自民党を牛耳っていた経世会では、いわゆる東京佐川急便事件(東京佐川急便による政治家への不正献金事件。金丸元副総理には五億円が渡った)をきっかけに内輪もめが発生、小沢一郎グループと反小沢グループの対立が露わになっていた——。


その後、小沢一郎氏は自民党を離党し、新生党を結成、細川連立政権に参加した後、日本新党と合流し新進党を結成することとなる。当時の政界において、細川氏と小沢氏はどんな立場にあったのだろうか。当時『文藝春秋』編集長を務めていた白川浩司氏がレポートする。


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経世会の内輪もめは、金丸氏が会長のみならず議員そのものも辞めたことによる跡目争いであり、跡目を狙った小沢氏のクーデターだった、という解説もあった。が、そういう永田町の事情は一般には伝わらない。


このころ、小沢氏はしきりに「政治改革」を唱えていたから、一般には改革派の旗頭で、自民党というより政界全体のプリンスと信じられていた。今日では考えられない風景だが、「金権自民党」のイメージが高まれば高まるほど、「改革派」小沢氏への期待も高まる、という構図だったのである。


反対派を「守旧派」と切って捨てる姿勢に、いかにも何かやってくれそうな期待を抱く人は多かった。私の周辺でも、政界にあるていど通じていると自認するビジネスマン、学者、中小企業経営者など、クロウトに近い人ほど、小沢氏の決断力、実行力に期待していた、と記憶している。


だが、たとえば立花隆さんのように、小沢氏が田中角栄の秘蔵っ子であることを理由に、その政治姿勢に疑問を抱く向きもあった。前年、海部俊樹総理の後継を決めるとき、自民党幹事長として宮沢喜一氏や渡辺美智雄氏などの候補者を小沢事務所に呼びつけて「口頭試問」した、というエピソードも、傲慢さの表れと嫌悪する声が強かった。一方、それすらも実力者の証として好意的に受け止める人も多かったのである。あらたな「小沢神話」が生まれつつあった。


渦中の人だけに、小沢氏には『文藝春秋』誌上にも何度か登場してもらっている。もともと口下手で訥弁、話し上手とはとてもいえなかったが、あるとき気がついたことがある。言葉遣いはちがうが、ともに「改革」を強調している点で細川護煕氏の主張と共通する部分が実に多いのだ。地方分権、「官」に対する政治主導、無用な規制の廃止と自由化推進、「政・官・財」三位一体の打破など、表現は異なるが、お二人の主張は驚くほど似ている。小沢氏の方が反対派を「守旧派」と呼んで攻撃した分、より過激ともいえたが、二人とも「五五年体制」からの脱却を主張している点ではソックリと言ってよかった。


二人の話を聞きながら、一つ夢想したことがあった。ともに「改革」を説いているのだから、どうせなら二人が組んだらどうなのか。なるほど細川氏の人気は凄まじいが、永田町的な腕力、実行力という点では未知数である。対する小沢氏はといえば、腕力は申し分ないがあの訥弁、風貌では一般的人気を得られるとは思えない。足して二で割ればちょうどいいのではないか。日本には「小異を捨てて大同につく」という言葉もある——。


簡単に実現するとは思わなかったが、そんなことをお二人に冗談めかして話したこともある。案の定ふたりとも、「まさか」と歯牙にもかけなかったが。


後年、細川内閣も新進党も瓦解した後になって、「政治家としてのキャリアも体質も思想も異なるあの二人が、うまくいくはずはなかった」と、訳知り顔で解説する向きもあった。なるほど、自民党が下野した後の二人を取り上げればその通りかもしれない。だが、一党支配時代の自民党という巨大な存在を前にすれば、この二人の相異はなきに等しかった、という思いは今も変わらない。


※週刊ポスト2012年1月13・20日号

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