「無努力主義」の仕事術

1月9日(火)7時0分 文春オンライン

 ハゲましておめでとうございます。


 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。


 この連載では一貫して極私的な好き嫌いの話をしている。連載の 1回目 でも書いたように、「良し悪し」よりも「好き嫌い」、これが僕の人生哲学である。


 そういうと、やたらと趣味的な話に聞こえるかもしれない。「仕事に好き嫌いを持ち込むな」「好き嫌いで食っていけるほど世の中は甘くない」「好きなことは趣味でやれ」——。仕事は「良し悪し」、一方の「好き嫌い」は趣味の世界で……という図式が定着している。しかし実際は逆、仕事こそ好き嫌いがものを言うというのが僕の考えだ。



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 そういうと、「ナンバーワンよりオンリーワン」とか「自分の個性を大切に」とか「自分探し」とかの「癒し系」の話、もっといえば「にんげんだもの……」というような「相田みつを系」の話に聞こえるかもしれない。しかし、これも僕の真意とはまるで逆である。


 そもそも僕は仕事についてはわりとキビしい考え方を持っている。趣味であれば100%自分を向けばよい。自分が楽しければそれでよい。しかし、仕事は趣味とは本質的に異なる。自分以外の誰か(価値の受け手、すなわちお客)のためにやるのが仕事。アウトプットがすべて。しかも、「成果」と言えるのは客が評価して受け入れるものだけだ。


 商品の製造販売でいえば、その商品がお客に必要とされ、実際に(それにかかったコスト以上の)対価を払ってもらえなければ成果にはならない。仕事に限っていえば、自己評価の必要は一切ない。すべてはお客が決める。自分で良いと思っていても、お客が評価しなければまったく無意味である。


才能はスキルを超えたところにある


 単に「食っていく」ための仕事であれば、好き嫌いはとりあえず横に置いておいた方がいいかもしれない。四の五の言わずに与えられた仕事を期日までにきちんとやる。それで仕事としては一応回っていく。しかし、これは「マイナスがない」というだけの話。「みんなができることが自分もできる」は、プロの世界ではゼロに等しい。


 ゼロから他の人にはできないようなプラスを創る。そのことにおいて「余人をもって代えがたい」とか「この人にはちょっと敵わない……」と思わせる。これを「才能」という。その道のプロが仕事において唯一絶対の拠り所とするもの、それが才能である。


 才能は特定分野のスキルを超えたところにある。あれができる、これができると言われているうちはまだ本物ではない。「データ分析に優れている」であれば、その種のスキルを持っている人を連れてくれば事足りる。つまり、「余人をもって代え」られる。



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 才能は一朝一夕には手に入らない。習得するための定型的な方法も教科書も飛び道具もない。だからといって、ごく一部の天才を別にすれば、「天賦の才」というわけでもない。あっさり言ってしまえば、「普通の人」にとって、才能は努力の賜物である。余人をもって代えがたいほどそのことに優れているのは、それに向かって絶え間なく努力を投入し、試行錯誤を重ねてきたからに他ならない。当然にして当たり前の話だ。



インセンティブの限界


 しかし、これは当たり前であると同時に元も子もない話でもある。「質量ともに一定水準以上の努力を絶え間なく継続する」といっても、それができないのが「普通の人」だ。


 なぜ努力は続かないのか。その理由は、努力がインセンティブを必要とすることにある。インセンティブとは「誘因」、文字通り、ある方向へとその人を誘うものだ。それはしばしば外在的に設定された報酬という形をとる。報酬は何もおカネや昇進に限らない。人から褒められる、承認されるというのもまた報酬である。


 なぜ努力をするのか。その結果として「良いこと」がある(もしくは、努力をしないと「悪いこと」が降りかかってくる)と事前に知覚しているからだ。ようするにインセンティブは、鼻先にぶら下げられたニンジン(もしくは、お尻を打つ鞭)である。


 インセンティブがあれば人は努力する。しかし、裏を返せば、インセンティブが効かないと努力もしなくなってしまう。ここに問題がある。


 立ち上がりの段階では、インセンティブは効果を発揮する。努力をして要求水準を達成すれば、期待した「良いこと」が手に入る。これが成功体験となり、次の「良いこと」に向かってますます努力をするようになる。


 しかし、遅かれ早かれ、インセンティブには終わりが来る。資源が限られている以上、単調増加的に給料を増やし続けることはできない。ポストにも限りがあるのでその毎回昇進のご褒美を与え続けるわけにもいかない。毎度毎度褒められていれば、そのうちそれが当たり前になってしまう。インセンティブの効果は時間とともに低減していく。


 さらにいえば、努力して報酬を手にした人はそのうちに自分の状況に満足してしまうかもしれない。仕事を始めた最初のうちはさまざまなことが不足しているから、インセンティブは効きやすい。しかし、「もうこの辺でいいや……」となれば、インセンティブはもはや機能しない。


 インセンティブに基づく努力の最大の問題は、それがネガティブな状況において脆いということにある。仕事生活は晴れの日ばかりではない。努力をしても成果が出ない。思うような評価が得られない。こういうことがむしろ普通だろう。努力の人はその時点でくじけてしまう。努力をすれば得られると思っていた「良いこと」が起きないのだから、努力をする目的や意義を喪失してしまう。この場合も「もういいや、どうせ……」ということになり、人は努力を停止する。



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 インセンティブには即効性がある。しかし、すぐに役立つものほどすぐに役立たなくなる。どうすれば普通の人々が高水準の努力を持続できるのか。ここに問題の焦点がある。


仕事の原則は「無努力主義」


 これに対する僕の答えは、「無努力主義」。これを年来の仕事の原則にしている。僕のこれまでの経験でいえば、「努力しなきゃ……」と思ったことで、仕事として上手くいったことはただの一度もない。「努力しなきゃ……」と思った時点で、そもそも向いていないのである。


 それが「努力」かどうかは当事者の主観的認識の問題だ。だとしたら、「本人がそれを努力だとは思っていない」、この状態に持ち込むしかないというのが、試行錯誤の末に僕が行き着いた結論である。客観的に見れば大変な努力投入を続けている。しかし当の本人はそれが理屈抜きに好きなので、主観的にはまったく努力だとは思っていない。すなわち「努力の娯楽化」である。


 趣味の世界では誰しも多かれ少なかれ「努力の娯楽化」を経験したことがあるはずだ。僕のバンドはライブ前に練習する。だいたいリハーサルスタジオを4時間予約する。仕事であれば、あることを集中して継続するのに4時間というのはわりと長い時間だ。しかし、バンドの練習だとまったく苦にならない。


 苦にならないどころか、やる気満々で、誰にも頼まれてないのに開始の30分以上前にスタジオについて待機していたりする(バンドのリーダー、河村隆氏はもっとやる気満々で、1時間も前から来ていたりする)。リハーサルが始まると時間の流れが妙に速い。気づくとすぐに4時間たってしまう。やり足りない気がするぐらいだ。


 その昔、自分たちのバンドのテープを、当時ソニー・ミュージックエンタテインメントの社長だった丸山茂雄さんに聴いてもらったことがある。30秒ほど聴いた丸山さんは一言、「ま、才能だからな……」。僕には音楽を仕事にするほどの才能がない。まことに残念なことではあるが、事実だから仕方がない。



努力の娯楽化


 自分以外の誰かにとっての価値がなくても、趣味であればそれでいい。しかし、仕事となるとそういうわけにはいかない。何かの方面で「才能」といえるようなものを時間をかけてでも練成していかなければプロにはなれない。趣味の世界では誰もが身に覚えのある「努力の娯楽化」、これを仕事の世界にも持ち込むことができれば話は早い。インセンティブは必要ない。「好き」は自分の中から自然と湧き上がってくるドライブ(動因)である。


 とにかく好きなので、誰からも強制されなくても努力をする。呼吸をするように自然に続けられる。それは努力というよりも、自分で勝手に「凝(こ)っている」といったほうが言葉としてはしっくりくる。


 そのうちに人より上手くなる。上手くなると成果が出る。人に必要とされ、人の役に立つことが実感できる。すると、ますますそれが好きになる。時間を忘れるほどのめり込める。時間だけでなく、我を忘れる。人に認められたいという欲が後退し、仕事そのものに没入する。ますます上手くなる。さらに成果が出る。——この好循環を繰り返すうちに、好きなことが仕事として世の中と折り合いがつき、それが才能として結実する。


 以上の連鎖を短縮すると「好きこそものの上手なれ」という古来の格言になる。才能の源泉にはその人に固有の好き嫌いがある。


「あなたのミッションは何か」「ビジョンを持て」と言うけれど、物事には順番がある。仕事である以上、世のため人のためにならなければならない。しかし、世のため人のためを志してビジョンを持ち、ミッションを自分に課したとしても、それが実現できなければミッションだろうがビジョンだろうが寝言に過ぎない。実現するためにはそれがよっぽど上手くなければならない。自分が好きだと思えることの先にしか才能の開花はない。好きなことを自己発見するのが先決である。「元気があれば何でもできる」。アントニオ猪木はそう言うけれど、好きでなければ元気も出ない。ようするに猪木はプロレスが大好きなのである。



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 良し悪しに軸足を置くインセンティブに対する、好き嫌いドライブの決定的な優位はネガティブな状況にやたらに強いということにある。「努力の娯楽化」のメカニズムが動き出したとしても、すぐに才能に結実し、成果が出るとは限らない。フルスイングで空振り、ということも少なくない。成果が出るまでには長い時間がかかるのが普通である。いいときも悪いときも、長期の継続が大切になるのである。そのことが好きであれば、すぐに成果や報酬に結びつかなくても苦にならない。ここに「努力の娯楽化」の絶対の強みがある。


「この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ」。これもまた猪木の名言にして至言なのだが、好きであれば危ぶむ必要はない。好きであれば、道中で報われる。定義からして「負け」はない。


カネでは買えないもの


 東映実録路線のヤクザ映画が大スキだという話を前回した( 「男のヤクザ映画、女のタカラヅカ」 )。こうした実録ヤクザ(ギャング)ものに固有の面白さは洋の東西を問わず普遍にして不変である。このジャンルの最高傑作が『ゴッドファーザー』シリーズであることは衆目の一致するところだが、他にもいろいろ傑作がある。例えば、マーティン・スコセッシ監督『グッドフェローズ』。登場人物は魅力的な男たちのオンパレード、『仁義なき戦い』に勝るとも劣らない。


 その中でも、陽気で紳士的でこの上なく凶暴なギャング、ジミー・コンウェイが特にイイ(演じるのはもちろんロバート・デ・ニーロ)。このモデルとなったのが、ジェームズ・“ジミー・ザ・ジェント”・バークというニューヨークのギャングだった。


 ジミー・バークは三度の飯より強盗がスキという厄介な人物だった。「目の前に100万ドルの現金と、100万ドルが金庫に入っているかもしれない家がある。どちらを取るかといわれたら、躊躇なく押し込み強盗に入るのがジミーという男さ」という評判だった。


「プライスフルなプライスレス」、この矛盾というかねじれがヤクザ/ギャング映画の面白さだという話を前回したが、上のジミー・ザ・ジェントのエピソードはその最たるものだ。仕事である以上、何らかの報酬なり対価を求める。プライスがつかないと仕事とはいえない。しかし、そこに理屈抜きに好きなこと、プライスレスな何かがなければ、その道のプロにはなれない。反社会的な犯罪行為なので、ジミーの話は例としてはちょっと問題があるが、基底にある論理は同じ、「努力の娯楽化」である。


 いくらカネを積んでも買えないものがいちばん強い。そして結局のところ、それがいちばんカネになるのである。



(楠木 建)

文春オンライン

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