弘兼憲史×蛭子能収「人生は70歳からが最高だ」(1)デビュー雑誌の原稿料は0円でした

1月11日(木)5時57分 アサ芸プラス

 弘兼憲史氏が新しい老後を提唱する人気連載のスペシャル版として、今回はバラエティやドラマで活躍する蛭子能収氏との対談が実現。ともに「古希」という大きな節目を迎えた漫画家でありながら、生き方、考え方はまるで別。2人のリアルな「老活」トークに、これからの人生を楽しむヒントが隠されている!?

弘兼 蛭子さんといえば「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」ですが、元相棒の太川陽介さん、奥さんの騒動で大変でしたね。

蛭子 俺、久しく会ってないんだけど、会見を見ると奥さんのことを笑って許していましたね。

弘兼 「神対応」って言われていますよ。

蛭子 え〜、わかりませんよ〜。太川さんは怖いところがありますからね(笑)。

弘兼 ハハハ。という話は置いておいて、蛭子さんと僕は同じ1947年生まれ、いわゆる団塊の世代です。子供の頃は、手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生など、トキワ荘出身の方の漫画を読んでいたんじゃないんですか。

蛭子 俺、「鉄腕アトム」くらいしか読んでないんですよ。どちらかと言うと、貸本屋に行っていたクチで。

弘兼 確かにあの頃は、大手出版社の漫画雑誌と貸本漫画の二通りありましたね。貸本だと、僕はさいとう・たかを先生の「台風五郎」シリーズが大好きでした。水木しげる先生も「墓場鬼太郎」を描いていましたね。

蛭子 そうそう。

弘兼 僕は小学生の頃からずっと漫画家になりたかったんですけど、蛭子さんは?

蛭子 高校の時からですね。美術部に入って、グラフィックデザインをやっていました。

弘兼 そこから、どうやって漫画家に?

蛭子 卒業して看板屋に就職したんですけど、下積みがつらくて、逃げ出してきたんですよ。「ちょっと東京に行ってきます」って言って、それっきり。

弘兼 アハハハ。24歳の時に「ガロ」(つげ義春ほか、個性的な作家が活躍した漫画雑誌)で漫画を描いてたんですよね。

蛭子 そうなんですよ。

弘兼 「ガロ」って、確か原稿料は出ないんですよね。

蛭子 出ないです。だからバイトしながら。

弘兼 じゃあ漫画家として原稿料がもらえるようになったのはいつ?

蛭子 33歳の時かな。エッチな月刊誌で連載をもらったんですが、必ずエッチなシーンを入れないといけなくて。男女のカラミとか描いたことがなかったので苦労しました。

弘兼 僕も若い頃は写真を見て描いていました。今も「黄昏流星群」を描く時は熟女雑誌を見ていますけどね(笑)。

蛭子 俺も見てます。

弘兼 漫画だけで生活はできましたか。

蛭子 ダメですね。仕事がなかったので、ちり紙交換とかダスキンのセールスマンとかやっていました。ずっと二足のわらじです。

弘兼 でも、今はタレントさんとしても成功されて。こんな感じだから、僕と蛭子さんは接点が全然なかったですね。

蛭子 弘兼さんは別格の存在だと思っていました。

弘兼 作風も違いますしね。漫画が好きというのは共通しているのかな。ところで蛭子さんは、漫画家とタレント、どちらの肩書で呼ばれるのがうれしいですか?

蛭子 やはり漫画家ですね。ただ、俺はお金をもらうところであまり描いてないですから、もう趣味みたいなもんです(笑)。

弘兼憲史(ひろかね・けんし) 1947年山口県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、松下電器産業(現パナソニック)勤務を経たのち、74年に「風薫る」で漫画家デビュー。「人間交差点」で小学館漫画賞、「課長島耕作」で講談社漫画賞、「黄昏流星群」で文化庁メディア芸術祭優秀賞と日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年には紫綬褒章を受章。現在、「島耕作シリーズ」や「黄昏流星群」を連載中。

蛭子能収(えびす・よしかず) 1947年長崎県生まれ。高校卒業後、看板店、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家デビュー。現在、俳優、タレントとしても活躍。主な著書に「正直エビス」「ひとりぼっちを笑うな」「蛭子の論語」など。

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