近代的避妊法「ピル」はどうやって開発されたのか

1月13日(土)16時0分 まいじつ

近代的避妊法開発の歴史は、女性解放の歴史と一致する。つい最近まで女性は自らの意思で中絶することは許されていなかった。性と生殖は一体で、家族が承認の上でだけ許されることであり、女性が、家族が認めない異性と行う性行為および生殖は、近代国家への反逆にほかならなかったのである。


そんな社会で避妊薬ピル開発への偏見は凄まじいものがあった。ピルを解禁すれば女性の性が乱れる…女性が性的関心を抱くことさえ快く思わない男性にとってピルはまさに目の敵。ピルの開発…それは、女性が男性から“真の自由”を獲得する闘いでもあった。


そんな状況下、世界で初めて経口避妊薬ピルを開発したのがグレゴリー・ピンカス(Gregory Pincus)だ。



グレゴリー・ピンカス氏



1903年、ユダヤ系ロシア移民の子として生まれたピンカスは、自分が色盲だったために遺伝学に興味を持ち、研究に勤しんだ。24歳で博士号、28歳にはハーバード大学助教授に就任。そして1934年、31歳のとき、ついにウサギの試験管ベイビーの誕生を成功させる。このことによりピンカスはたちまち時代の寵児となったのである。


しかし「ウサギの実験を人には応用しない」と発言したにもかかわらず、新聞の誤植のせいで「人に応用する計画がある」と報じられてしまい、“アメリカのドクター・フランケンシュタイン”などと呼ばれるほどの大騒ぎになってしまった。


このことが原因で大学から追い出されたピンカスのもとに、避妊普及運動の先駆者であるマーガレット・サンガー女史から「便利で安価で効果的な避妊薬を作ってほしい」と依頼が届く。IQが210という大天才のピンカスは、夫の精神病に悩む大富豪から多額の開発費用の援助を受けるなどし、いろいろな人の協力もあって難なくピルの開発に成功したのだった。


そしてピンカスは、ピル開発の成功を受けて国際家族計画連合の初代会長となった。だが、保守派に対する怯えから特許を取らなかったため、製薬会社にピルの利権をすべて奪われてしまったという。よくよく運のない男である。


さて、そのピンカスにピルの開発を依頼したサンガー女史とはいかなる人物だったのか…。



波瀾万丈な人生を送ったサンガー


避妊普及運動の先駆者マーガレット・ヒギンズ・サンガー(Margaret Higgins Sanger)は1879年にアメリカのニューヨーク州コーニングにアイルランド系移民の第6子として生まれた。



マーガレット・サンガー氏



彼女が19歳のとき、母親が亡くなるのだが、母親は結核を患いつつも、生涯11人を出産し、そして7回も流産している。このことでサンガーは子供を産ませ続けた父親を恨み、貧困と子だくさんで不幸になると強く思うようになるのである。


その後、結婚し、子供も産まれたサンガーは看護師になった。そこで中絶の失敗で死んでいく人たちを見て「やはり大事なのは避妊だ」と確信する。そして看護師を辞め、避妊啓蒙運動を始めるのであった。ところが、当時のアメリカでは避妊の情報を流すのは違法行為だったため、連邦政府に起訴されてしまった(有罪だと最長で懲役45年)。


1914年、サンガーはイギリスに逃亡するが、そこで知り合った知識人たちのおかげで告訴は取り下げられ、アメリカに帰ったサンガーはついに避妊クリニックを開設することになったのである。


このクリニックは大繁盛したが、そのせいでまた警察に目を付けられてしまい、逮捕されてしまうのだ。


ところが、刑務所内で行ったハンストが世間の注目を浴び、逆に避妊普及運動は広く知られることとなり、支持者も広がっていった。


その後も避妊具のペッサリーを密輸したり、いろいろと騒動を起こしたサンガーであったが、70歳を過ぎたころ、自らが主催したニューヨークのパーティーで、ついにピンカスと知り合うこととなるのである。


サンガーやピンカス、その他いろいろな協力者が力を合わせ、世間の良識や偏見との激闘の末に獲得したのが避妊薬『ピル』だった。ピルのおかげで生理痛がなくなる、生理のタイミングをずらすなど、女性たちは人生の質を高めることができたのである。



まいじつ

この記事が気に入ったらいいね!しよう

ピルをもっと詳しく

BIGLOBE
トップへ