92年、NYで日本語の歌が支持された……野宮真貴が語る、ピチカート・ファイヴが世界に羽ばたくまで

1月16日(木)11時0分 文春オンライン

一人称は「ぼく」、キャッチコピーは「半分少年・半分少女」……野宮真貴が語る、売れなかったあの頃 から続く


 エイジレスでエレガンスなファッショニスタ野宮真貴さんが、2020年3月で還暦を迎える。「歌とおしゃれが大好き」な彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろう。内気な少女がロックに目覚め、「渋谷系の女王」と呼ばれるまでの半生を振り返ってもらった。『週刊文春WOMAN』創刊1周年記念号のインタビューに未収録トークを加え、3倍以上に拡大した完全版。(全3回の3回目/ #1 、 #2 も公開中)





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世界が支持したピチカート・ファイヴ的世界


 海外でのライブは92年、ニューヨークで開催された音楽イベント「ニューミュージックセミナー」が最初でした。海外進出を考えていたわけではなかった。ニューヨークにいけるならいいやって、そんな軽い気持ちでイベントに参加して。ライブの内容もあえて日本でやっていることをそのまま、日本語で歌いました。


 海外の観客はすごくシビアだと聞いていたので、どんな反応になるんだろうと不安もあったんですが、ものすごくウケたんです。それで、ああ東京でやっていることをやればいいんだなって。それから「ニューミュージックセミナー」には毎年参加するようになって。94年にはアメリカのレコード会社と契約、アメリカデビューも果たし、ワールドツアーが始まりました。



 ライブは全部ソールドアウトでした。どこの会場でも熱狂的に受け入れてもらえました。「ツイッギー・ツイッギー」がパリコレで使われたり、『プレタポルテ』や『チャーリーズ・エンジェル』といった映画で使われたり。CMでもよく使われたんです。エリザベス・アーデンの香水のCMとか。イタリアのシスレーのCMでは「ゴー・ゴー・ダンサー」が使われて、私も出演しているんです。ニューヨークのバーニーズの店内でピチカートの曲が流れてきたときはとてもうれしかったと小西さんも言ってました。店員さんを捕まえて「これは僕の曲なんだ」と思わず言ったらしいんです。すごくうれしかったんでしょうね(笑)。



 世界中のクリエイターや音楽マニアからとても支持されたというのは大きかったと思います。欧米の音楽を、欧米人の彼らが子供の頃からずっと聴き続けてきたポップスを、日本人の私たちも同じように聴いて育ち、それを再構築して洗練した形で提示したのがピチカート・ファイヴだったわけですから、彼らにウケたというのはある意味必然だった思います。あとはゲイの方々。細くて小さな私がインパクトのあるスタイリングをしたことで「東洋のバービードール」って言われましたから(笑)。まだSNSなんてない時代だったけど、もしもあの頃ツイッターやインスタがあったなら、どうなっていたんだろう。


 東京にファッションやアートや音楽に敏感な人がいるように、世界にもそんな人はたくさんいる。そういう人たちがピチカート・ファイヴを支持してくれた。各会場には小西さんに似ているような人がたくさんいたんです(笑)。「好きな音楽を追及していれば世界中の音楽好きがそれを聴いてくれる」って細野晴臣さんが言っていましたが、ワールドツアーでそれを実感しました。



 いちばんうれしかったのは、世界各地の会場で、みんなが日本語で歌ってくれたこと。私が歌う日本語が聞き取りやすく、カッコ良く聞こえるみたいなんです。「東京がクール、日本語がクール」と言われ始めた、最初の頃だったと思います。


 ロックはシャウトができないから歌えなかった。でもその後のニューウェイヴの登場で、リズムや音程をどれだけキッチリ歌うことができるかというのが自分の歌のスタイルだとわかった。CMでよく使っていただけるのも、そういう部分があるからで、デジタル的に歌えるところに自分の良さがある。それを思いっきり発揮することができたのが小西さんのメロディであり、ピチカートの音楽だったんだなって。



 例えば、リオのパラリンピック閉会式で使われた「東京は夜の七時」は、歌い上げるメロディではないんです。「ぼ・ん・や・り・テ・レ・ビ・を・観・て・た・ら」って、一音一音に言葉が割り振られていて、それをパキッと正確に歌うのが私の歌い方なんです。もともとエモーショナルに歌うタイプではないし、ソウルやブルースといったものは私の中にはない。言ってみれば、人間ボーカロイドみたいなものかもしれません(笑)。


 だから、ピチカートのライブは「ショー」としてパッケージ化していたし、音はコンピュータの打ち込みで、映像ともシンクロしていたので、正確さが要求されるわけですが、それは私には向いていたんですね。小西さんが思い描く世界感をキッチリ再現できたのではないかと。


 あと、実は小西さんが書く詞は時にとてもエモーショナルだったりするから、そのバランスが良かったとも思います。「死ぬ前にたった一度だけでいい、思い切り愛されたい」(「陽の当たる大通り」)なんて詞をサラッと歌えるのが、まあ才能と言えば才能なのでしょうね(笑)。



結婚そして出産 息子は医学部で勉強中


 結婚したのは1996年。人生でいちばん忙しい時期に結婚し、出産しました。


 結婚は計画していたわけじゃないんです。ただ、仕事を通じて「ああ、いいな」と思った人と出会って。私から言わなければ何も起こらないと思ったので、自分からアプローチしました。彼はテレビ局の人で、出演していたテレビ番組で知り合ったんです。でも、付き合い始めたら、会社を辞めて世界放浪の旅に出ちゃった(笑)。


 その時期、ピチカートもワールドツアーでイギリス、ドイツ、フランスとヨーロッパをツアーしていたので、よく海外で落ち合いました。ワールドツアーとはいえ、最小人数で回っているので常に人出が足りなく、楽器運びを手伝ってもらったり、通訳をしてもらったり、何かと手助けをしてもらいました。まるでスタッフみたいに(笑)。


 当時私は30代半ばを過ぎた頃。このまま一生結婚しないかもしれないと思ったこともあったけれど、子供ができたとわかったときは迷いはなかった。ピチカート・ファイヴもワールドワイドで活動していたけど、これは私の人生。だって、なんとかするしかしょうがないわけで。生まれちゃうんだからって(笑)。そういうところはすごく楽観的なんです。できるかどうか思い悩むよりも、どうすればそれができるかを考えた方がいいんですよ。人生は前に進むしかないのでね。


 その後、妊娠5ヵ月でツアーを回り、7ヵ月のときに「ベイビィ・ポータブル・ロック」の新曲でCMの撮影もあって。極寒の2月の撮影でしたけど、Aラインのワンピースやギターで大きいお腹を隠しつつ撮影しました。1ヵ月くらいお休みを頂いて、その間にアルバムをリリースしていたので、世間的には休んでるようには見えなかったでしょうね。出産したことについては公にしなかったんです。別に普通のことだし、表立って発表することでもないなって。



 子育てと仕事の両立については、ワールドツアーもあったので、生まれる直前に両親が住むマンションの上の階に引っ越して。家族の協力がなければ無理でした。ワールドツアーに出ると、1ヵ月半くらい家を空けることになるんですが、家に戻ると子供が成長していて驚くという(笑)、そんな感じの日々でしたから。夫も育児は積極的に手伝ってくれました。


 息子も23歳になりました。医学生でいまは5年生。医学部に進学したと言うと、どんな教育をしたんですか? と聞かれることがあるんですが、教育方針なんて全然ないんです。そっちへ導いたわけでもないし。


 私の仕事場にもよく連れて行っていましたよ。そこにはミュージシャンもれば、スタイリストさん、ヘアメイクさんもいる、男も女もゲイの方もいる。意識的ではなかったけれど、世の中にはいろんな職業の人がいるし、いろんなタイプの人たちがいるんだよ、というのは見せてきたのかもしれない。


 ベースを買い与えたり、キーボードが家にあったり、ちょっと教えたりもしたけれど、結局、そっちには行かなかった。音楽を聴いたりライヴに行くのは好きですけど、そういうことよりも勉強が好きだったし、得意だったんじゃないかなと思います。


 子供は得意で好きなことを徹底してやればいいと思うんです。親はそれに触れる環境を作ってあげて、たくさん褒めて愛してあげる。私はすごく甘やかしますよ。だってそのうち親から離れていくわけだし、一緒にいられる時間は短いから、わがままもたくさん聞いてあげればいいって思うんです。


 いまはまだ一緒に暮らしています。最近、またお弁当を作ってるんです。中学高校と6年間お弁当を作って、そこからやっと解放されたと思ったけれど、なくなってしまうとそれはそれでちょっと寂しい。いまは病院でいろんな先生について勉強している最中。ご飯を食べる時間もなかなかないみたいで、お弁当がいちばんいいみたい。たまに作ってあげると、喜んでくれるんです。


 6年生が終わったら国家試験。もう勉強を始めてるみたいです。将来、何科に進むのかはまだ悩んでるみたい。私はぜひ耳鼻咽喉科の先生になってもらって、ずっと歌えるように喉のケアをしてくれたらいいなって思ってるんですけどね(笑)。



渋谷系の女王・野宮真貴 2020年で還暦です


 ピチカート・ファイヴは2001年に解散しました。でも、「解散」という言葉は当時は使っていないんです。最後のライブも「お葬式」と言ってましたし(笑)。歌手になりたくてデビューしたものの、売れない下積み時代を過ごしていた私にとって、子供の頃に夢見ていた、「歌とおしゃれ」を思いっきりできる環境にあったのがピチカート・ファイヴでの10年間だったと思います。世界進出など、想像を超える広がりもあって、とても充実していたし楽しかった。小西さんから教わったこともたくさんありました。



 以降、再びソロとなった私は、川勝正幸さんや菊地成孔さんにプロデュースしてもらったり、さまざまなアーティストとコラボレーションしたりしながら新境地を開拓していきました。歌とファッションをシアトリカルに演出する舞台を作るなど、ある意味、私の40代は試行錯誤の日々だった部分もあったと思う。


 でも、50代に入り、デビュー30周年を記念してのセルフカバー集『30』を出したときにわかったんです。いまの自分が歌いたい曲を選んでみたら、ピチカートの曲がいちばん多かった。改めて歌ってみて、小西さんの曲の素敵さを再確認して。ピチカートも含めた「渋谷系」の楽曲たちを歌い継ぐことが大事だし、それは自分のやるべきことなんだと。バート・バカラックやロジャー・ニコルズ、はっぴいえんど……世界には本当にたくさんの名曲がある。それをナツメロではなく、21世紀のスタンダードナンバーとして歌い継いでいくことが、シンガーである私のやるべきことなんだなって。それで、「『渋谷系の女王』こと野宮真貴です」(笑)と、名乗ることを決めたんです。もう、言い切ってしまおうと。



 私は来年還暦を迎えます。20年3月で60歳。更年期は乗り越えましたが、その後にくる、様々な体の変化を感じている最中です。それが如実に表れるのが声。ちゃんとケアをしていないと、いままで通りにいかなくなる。声帯のチェックをして、ボイストレーニングもはじめました。声だけじゃなく、美容も含め、体に関することは全部そう。でも、自分の体の声を聞きながらちゃんとメンテナンスしていけば、まだまだいけると思うんです。


 これまでは外見の美しさを追及してきたけれど、これからは身体の中身も美しく、そして健康でいなくちゃと思っています。「ヘルスケアがビューティーケアにつながる」ことを自分でも実践したいし、そこで学んだことを同年代や年下の女性たちに伝えていくのも私の役割なのかなって。



 ミニスカートがピチカート時代はトレードマークでしたけど、ここのところは封印してたんです。でも還暦を機に、解禁しようと思っているんです。普段でもステージでも。何年か前、雪村いづみさんとお会いしたとき、70代の雪村さんはミニスカートに網タイツ履いて、歌も素晴らしかった。お手本になる先輩がいるのは大事。自分もそうありたいし、そんな私を見て、同世代には「人生はこれから!」と思ってもらいたいし、下の世代には「歳を取るのも悪くない」と思ってもらいたいんです。


 これからもまだまだ歌っていきます。「渋谷系」を歌い継ぐことをライフワークとして続けつつ、還暦になっても新しい人と出会いたいし、新しい音楽と出会いたい。そして、いつか、小西さんの新曲を歌いたい。そのためにも、声とビジュアルはいつでもスタンバイできるようにしておかなきゃなって。「歌とおしゃれ」の旅路はまだまだ続くんです、これからも。



野宮真貴


ピチカート・ファイヴ3代目ボーカリスト。ピチカート・ファイヴの名曲を収録した「THE BAND OF 20TH CENTURY: Nippon Columbia Years 1991-2001」が7inch BOXとCDアルバムで発売中。20年3月12、13日にライブ「野宮真貴、還暦に歌う。」を開催。彼女が敬愛する鈴木雅之と横山剣がゲストボーカリストとして登場する。


http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=11864&shop=1



text:Izumi Karashima

photographs:Wataru Sato

hair&make-up:Noboru Tomizawa




(「週刊文春WOMAN」編集部/週刊文春WOMAN)

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