最底辺の主人公が織りなす『龍が如く7 光と闇の行方』はどうしてRPGである必要があったのか? 桐生一馬とは異なる「明」の物語を紐解く

1月16日(木)20時5分 電ファミニコゲーマー

 2005年に初作がリリースされて以降、『龍が如く』の主人公と言えば、「堂島の龍」と呼ばれる伝説の極道「桐生一馬」だった。
 不動の主人公がおりなすその物語は、欲望と暴力のジャパニーズノワールであり続けてきた。

 しかし2016年、『龍が如く6 命の詩。』で桐生一馬の伝説は一旦の終わりを見せた。2017年には新世代のナンバリングを担う主人公として、「春日一番」という完全新規の個性が採用されることがアナウンスされる。

 そして2019年、ゲームシステムを今までのアクションからRPGに変更されること、主たる舞台が「桐生一馬」と並んで『龍が如く』シリーズの顔とも言えた「新宿・神室町」から「横浜・伊勢佐木異人町」へと変更することが発表された。

 つまりそれは、『龍が如く』から「桐生一馬」と「アクションゲーム」と「神室町」を引いてしまうという、驚くほど思い切った“方向転換”だった。

 逆に言えば、それは「それらの要素を全て引いても『龍が如く』は『龍が如く』足り得るのか」という、大きな実験でもある。その目論見が成功しているのかどうかを判断するのは、私も含めたひとりひとりのプレイヤーということになるだろう。

 本作発売からしばらくのあいだは、ゲーム中でもセリフ上で触れられている『ドラゴンクエスト』をはじめ、ありとあらゆるJRPGのオマージュを詰め込んだシステム、冗談としか思えないほど尖った敵のデザインなど、ゲームプレイ部分に注目が集まるはずである。

 しかし、凄まじくエッジの効いたデザインの裏にある本作のテーマは、やはり「桐生一馬」という強烈な個性に「春日一番」という新しい個性がどう対抗するのかだ。両者の比較から目を背けて、本作を語るのは片手落ちというものだろう。

 間違いなくシリーズを牽引してきた「桐生一馬」から「春日一番」への交代の中で、『龍が如く』はどう『龍が如く』としてのアイデンティティを保ったのか。それを考えた時に見えてくるのは、ひとつのテーマにおけるふたりの「視点」の違い。そしてRPGを採用するに至ったゲームデザインの痕跡である。

文/Nobuhiko Nakanishi
編集/ishigenn


「春日一番」という社会の最底辺

 多くの人が初めて「春日一番」を見たときに受ける印象は、そのなんとも言えない「格好悪さ」だったのではないだろうか。

 爆発したようなアフロヘアに、ギョロっとした目、厚めの唇に太い眉毛の40代男性。全体的にシャープで大人の色気を漂わせていた桐生一馬とは対照的に、春日一番は見た目から泥臭い。

 本編ストーリーの中でも、春日一番は特に一目置かれる人物でもなく、どちらかと言えば甘ちゃんの匂いが消せない、極道というよりチンピラのような扱いだ。

 孤児として生を受け、極道という道を選び、人の罪を背負って前科持ちとなる。非常に近いバックグラウンドを持ったストーリーは、出所してからの導入部分は桐生一馬のそれと似ているが、個々の物語そのものから受ける印象は大きく異なる。

 桐生一馬の物語が人間の陰影を映しこんだ「暗」のテイストだとすれば、春日一番の物語は全体を通して「明」の部分が強く強調されている。それは両者の本質的な性質に由来する部分もあるが、単純にそれだけとは言えない。

 そもそも背景だけで語るなら、春日一番というキャラクターが背負うものは相当に暗い。ソープランドで生み落とされた天涯孤独な男は、本当の父母を知らずそのソープランドの店長に育てられた。

 その後、荒川組の組長である荒川真澄の元で極道として生き、組のためと言われて殺人の罪を背負うことになり、18年の間刑務所で無為な時間を過ごす。

 ようやく出所して荒川組の荒川真澄に面会に行くが、理由も分からず撃たれて横浜に棄てられる。寄る辺のない春日一番は、横浜のホームレス街で新しい人生を始める。

 ビデオゲームの歴史の中でも、そうそう見ないレベルの、救いようのないほどの惨めさとどん底ぶりだ。同じように他人の罪を背負って服役した桐生一馬でも、そこまで露骨に世間に見棄てられてはいない。

 全体をとおしてみても、春日一番の身の回りに起こる出来事は、人間の陰惨で暗い部分をあるがままに見せつけるものが多い。桐生一馬の物語が、どちらかと言えば暴力団や裏社会の人間との関りを軸に展開されていたのと対照的に、今作では「世間に居場所のない人々」「社会からはじかれた弱者」との関りが物語の中心に据えられている場面が多い。

 それらのシーンはプレイヤーに身近な闇を感じさせる。行き場のない人間たちがギリギリ踏みとどまれる場所。その場所さえも社会から排除していこうとする世間の流れ。それは現代社会の風潮として誰もが肌感覚として現在進行形のものだ。

 ホームレス。在日外国人。風俗関係者。そして前科者。社会に寄る辺を持たない全ての人々。客観的に見れば、春日一番という泥臭い、洗練されてない男の、どん底から始まるストーリーは、シリーズ全体をとおしてもっとも現代社会そのものの「影」を表現していると言ってもいいだろう。

「桐生一馬」という“理想像を追い続けた大人”

 それがなぜ全体的に「明」の印象になるのか。その要因は、桐生と春日というふたりの人間の人生に対する立ち位置の違いによる視点の差がある。

 桐生一馬という人間の人生を考えたとき、出所直後における「澤村遥」の存在は彼の人生観そのものに大きな影響を与えている。極道社会において、たしかに風間新太郎という親代わりの存在を持っていた桐生ではあるが、入所段階でそのふたりの関係はすでに親子関係というよりは男同士の関係になっていた。

『龍が如く 極』より

 つまりその当時、すでに桐生は親離れしており、ひとりの男性として社会的に認められていたということになる。さらに出所後には彼にとって運命の少女である「澤村遥」に出会い、彼女の「親」として人生を歩んでいくという道を自分で選択する。その後、彼は「澤村遥」のために極道社会と距離を置き、一般的な幸福というものを求めるようになっていく。

 『龍が如く』シリーズに通じる大きなテーマは「家族」というものの在り方だが、桐生一馬の求めた理想的な家族というものの中で、彼自身の視点はあくまでも「父親」のそれだった。
 「父親」とは子供の庇護者という立場であり、子供に行く先を示す指標でもある。だからこそ桐生は堅気であることに拘り続け、それでも暴力の世界に求められ応えていく自分の存在に関して常に強烈なジレンマを感じ続けていた。

『龍が如く 極』より

 早くから大人として認められ、それが故に導いてくれる庇護者という存在を長く持つことができなかった桐生が、想像の中でもがき苦しみながら描いた父親像と実像との「ずれ」はシリーズを通して彼の行動の原動力でもあり、一方で極めて強力な縛りでもあった。

 桐生一馬の『龍が如く』シリーズを通しての一種の暗さは、極道としての才能しか持たない男が、その才能を常に否定しなければならないという強い責任感から生まれる「重さ」に起因するものだったと言えるだろう。

「春日一番」という“理想像を広め続けた子ども“

 対して、「春日一番」の立場は桐生とは真逆だ。たしかに生まれたのはソープランドではあるが、そこの店長に育てられ、自分が強く憧れた人物である荒川の子分として「明確な理想像」というものをしっかりと持っている。

 桐生にとって家族の物語が常に「父親」としての視点だったのに対し、春日にとっての視点は「子ども」なのだ。それは精神年齢が高い、あるいは低いという問題とはまったく違う。それは自分にとって届かない人間、行動自体の指針を与えてくれる人間がそばにいたこと、そしてそれを不器用でも朴訥に「盲信」することができる性質があるかないか、という問題だ。

 どれだけ底辺にいても、どんなに出自が危うくとも、春日一番という人間の行動が重さを感じさせないのは、心の中に常に「理想像」というものが明確に存在しているがゆえである。

 その見えない視線の庇護のもとで伸び伸びと行動できる。迷いや惑いを持たずに生きていくことができる。巡り合わせとはいえ、桐生が「庇護すべき者」を「澤村遥」という一個人に絞らざるを得なかったのに対し、春日一番は守りたい対象を極道、一般人を問わずに、自分に関りのある人々全体に広げることができる。

 それは良くも悪くも自分の内側に閉じていってしまう桐生の運命とは真逆に、外に外に自分の世界を拓いていける可能性を有していることと言って差し支えない。

なぜ『龍が如く7』はRPGでなければならなかったのか?

 その観点からみると、「RPG」というシステムは、「単に新しい風をシリーズに吹き込みたかった」という以上の意味合いが垣間見えてくる。今までの「アクション」と今作の「RPG」のもっとも大きな差異は、ゲームフィールとしての違い以上に「仲間」というものと冒険するという感覚を与えるものだ。

 それは理念として、今までのような戦い方とは違う。シリーズを通して見れば、たしかにほかの仲間との共闘がないわけではなかったが、今作でコマンド選択式になった影響で初めてRPG的な仲間との共闘というものが実現した。

 徒手空拳の戦いを捨て、ひとりの敵に対して武器を持って戦う戦闘は、ひとつに「仲間との絆」という少年漫画的ファンタジーを強く意識させ、ひとつに主人公である春日一番という人物の一個の戦闘力というものを桐生一馬のそれに比べて圧倒的に矮小化するという効果を発揮してる。

 「春日一番」という人間はひとりでは力を発揮できない。だからこそ常に自分を助けてくれる誰かを必要としている。あまりにも強すぎる個であった桐生一馬とはまったく違うそのポジションの人間は、誰かを頼り、頼ってくれる誰かを守るという状況を生みだす。

 誰かに頼られることがほとんどであった暴力の神が「破壊」をするのではなく、誰かとの関係を創り上げていく「人間の英雄」としてストーリーを紡いでいくのに相応しい存在として「春日一番」を成立させるのに、RPGというシステムは親和性の強いものであり、RPGというシステム自体に物語上の意味合いはしっかりと存在する。

 プレイを終えたいま、筆者個人として本作は実に「SEGA」らしく「龍が如く」チームらしい思い切りの良さだなという印象を持つ。そもそも、今でこそ日本を代表するIPのひとつである『龍が如く』は、子供と女性をマーケティング対象から切り、日本の闇社会を描くという大冒険とも言える判断から始まったシリーズである。
 それゆえに、良くも悪くも徐々にテンプレート化していくシリーズに、どこかの段階で大きなテコを入れる欲求と必要性は出てきたのだろう。

 『龍が如く7』には「ジョブ」があり、用心棒やアイドル、料理人など多様だが、キャラクター固有のジョブがある。そして春日一番の固有ジョブは「勇者」だ。人生を子供のころ遊んだ『ドラクエ』になぞらえている春日にとって、「勇者」というものは誰かの背中を追いかけ、困難を凌ぎ、仲間と共に「成長」していく存在なのだろう。

 それはつまり「未完成」な存在なのだ。発展途上の人生の中だからこそ、素直に親の背中を追いかけることに迷わず、仲間を信じることに迷わず、大きな敵と戦うことに迷わない。その迷わない姿勢こそが、本作の空気を全体をとおして“晴天”にしている。

 「春日一番」という存在は、ゲーム中の全ての大人にとって見守るべき子供であり、『龍が如く』シリーズが見守る子供だ。この存在がシリーズファンにとっての見守るべき子供になるかどうかはシリーズファンの考え方次第だが、龍の後継者としてではなく、未完成の個性としての「春日一番」が桐生一馬になかった魅力を備えているのは、間違いないだろう。

ライター
Nobuhiko Nakanishi
大学時代4年間で累計ゲーセン滞在時間がトリプルスコア程度学校滞在時間を上回っていた重度のゲーセンゲーマーでした。 喜ばしいことに今はCS中心にほぼどんなゲームでも美味しく味わえる大人に成長、特にプレイヤーの資質を試すような難易度の高いゲームが好物です。
編集
ishigenn
ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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