「まったく想像できなかった」古川真人さんが大学中退から6年後に、“島の物語”で芥川賞作家になるまで

1月18日(土)14時0分 文春オンライン

 気負わず飾らぬ人、のようだ。


 既報の通り、第162回芥川賞を受賞した古川真人さんである。1月15日夜の受賞会見に臨んだあと、会場のホテル内で選考委員らと顔合わせ。シャンパンで乾杯するとほどなく、近隣で用意された祝賀会の席へ移動した。


「お酒はもともと好きで、ふだんはよく飲むんですが……」





 この日は0時を回るずいぶん前には、早くも帰途についた。というのも、


「周りからかけていただく言葉が一切、頭に入ってこなくなってきてしまったので。どうもお酒ではなく、たくさんの人と一気にお会いしたことに酔ったみたいでした」


慣れないネクタイを結んで壇上へ


 派手なふるまいが得意でなさそうなのは、受賞会見のやりとりでも垣間見られた。現在の心境を問われれば、


「アワアワしています。なんでこうなっちゃったんだろう、自分はこれからどうなるんだろう、というのが率直な気持ちで、うれしさはまだ湧いてきていません。ただ、作品が本になるたび喜んでくれる人がいて、その方々が受賞のことも喜んでくれるのだとしたら、よかったなと」


 そう控えめに語った。


 ふだんはラフな格好で過ごすので、会見に臨む直前に持参したネクタイを結ぼうとするもうまくいかず。同行していた編集者の助けを借り首元を整えて壇上へ出るも、


「革靴が痛いです。履き慣れていないので」


 とマイクを通して白状してしまった。語り口や物腰を含め、いたってマイペースなのである。


 会見翌日の午後に改めて話を聞くことができたのだけれど、時間が経つにつれ実感は増してきただろうか。


「いえ、やっぱりまだあまり。でもそういえば先ほど、ふだんはふざけ合うばかりの中学校の同級生から、ストレートな褒め言葉が書いてあるお祝いのメールをもらって、そのとき『ああ俺、ほんとに受賞しちゃったんだな』という気持ちがこみ上げてきました」




「おーい、来たな。上がんない、上がんない」と、敬子は裏口の戸を開けて入ってきた哲雄に、加代子と、それに奈美と知香に対して言ったのと同じ言葉を、やはり全く同じ口調で言いながら、店から居間に上がる、夜の寝る際にはガラス障子で締め切る間仕切りの縁に背を丸めて腰掛けていた。 


(『背高泡立草』より)



 古川さんの出身地は福岡県だ。小学校から高校まで福岡市内の学校に通った。受賞作『背高泡立草』には、登場人物たちの会話に九州地方の方言をたっぷり入れ込んである。


 ただし主な舞台になっているのは、母方のルーツがあり、現在も祖母が住む長崎県平戸市の長崎県のとある島。玄界灘に浮かぶ小島ながら豊穣な歴史を持ち、いまも昔ながらの暮らしが根づく土地である。古川さんは小さいころからたびたび島を訪れ、親族と時間を過ごしてきた。


 つまりは自身のよく知る土地を土台にし、見聞きした体験をベースにしながら、作品は書かれている。そうした書き方は、じつはデビュー当時から変わらない。新潮新人賞を受賞したデビュー作『縫わんばならん』にはじまり『背高泡立草』へ至るまで、古川さんは島とそこに住む一族のことを書き継いできた。



シャンプーしていたときにふと浮かんだ「島の婆さんの話」


 各作品によって積み重ねられてきた壮大な作品世界が生まれるきっかけは、小説を志しながら悶々と過ごしていた20代半ばにあった。


「たしか24、5歳の頃でした。ある日、風呂入りながら考えていたんです。好きでよく読んでいた古い小説や海外文学には、大きな思想や信念、宗教的倫理観などに真っ向から取り組んでいる作品が多い。翻って自分はどうかといえば、そういう大きいテーマなんて持ち合わせていない……。


 じゃあ何を書いたらいいのか。思いあぐねながらシャンプーしていたときふと浮かんだのは、ああそういえば島で婆さんたちの話、よく聞いてたなということ。あそこで見聞きしたことを書いていったら、小説になるのじゃないかなと」



 そうして生まれてくることとなった「島の物語」は、発表されるたび大いに注目され、過去に芥川賞候補となること3度。今回の受賞は「4度目の正直」だった。


 一歩及ばなかった過去作と今作では、手応えが違っただろうか。


「いえ、今回は短編連作の形式にしてあるんですが、そういうかたちだとあまり芥川賞には好かれないだろうと信じ込んでいて、ノミネートされることすら想定していませんでした。


 ただ作品としては、気楽に好きなように書けたなという気持ちがあります。書き始める前には、島のことを片足に置きつつ、もう一方の足をどれだけ遠い場所まで伸ばしていけるかということをやってみたいと思っていたんです。それを長編として書くのは、いまの自分の力量では難しい。舞台となるそれぞれの土地のことを念入りに調べ上げないといけないでしょうから、これまで見知った島のことばかり書いてきた自分の手に余ります。


 でも短編をつないでいくかたちなら、満州や択捉での出来事を書くにしても、ある瞬間やせいぜいある1日を切り取って描いてしまえばいい。それならなんとかなるんじゃないかと踏みました」


「よくわからない理由によって集まる、それが家族というものかな」



一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋の周りに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。 


(『背高泡立草』より)



 受賞作『背高泡立草』は短編連作ではあるものの、現在と思しき島で暮らす老婆・吉川敬子のもとを子や孫が訪ねる一日の出来事が、話のベースになっている。その合間に、時代も場所もバラバラな物語が差し挟まれ、緩やかな連環をつくっていく。


 島外に住む子や孫らがやって来たのは、ポツリと納屋が建つ吉川家所有地の草刈りをするためだった。彼ら彼女たちは賑やかに方言で話に花を咲かせながら、茂った草と格闘する。草刈りという行為は、小説の題材としてはかなり地味では? とも思ってしまうけれど、ひょっとするとそこに込められた意味がある?


「草を刈ること自体の意味は、読者の方一人ひとりに自由に解釈していただければ。まあ卑俗なところでいえば、家族や親族って、案外よくわからない理由によって集まるものじゃないですか。すごく無意味に見えるようなことを、大切な慣習として延々と続けている。案外それが家族・親族をつなぎ留め、結びつけているんじゃないかとも思えます。



 盆暮れなども、混雑するのがわかりきっているのに、わざわざ皆が集いますよね。『新幹線代も高くつくし、予約も取りづらい……』などと愚痴を言い合ったりもしますけど、そういうのがあってこその家族・親族かなという気がします」



皆の目をできるだけ過去のほうへ振り向けるためが……


『背高泡立草』の各短編に出てくるのは、誰もが無名の人ばかり。彼ら彼女たちの人生の断片が開陳されていくだけなのに、それがめっぽうおもしろい。のめり込んで読んでいると、やがて気づかされるのだ、いつどこでどう生きたを問わず、世のあらゆる人に物語があるのだと。


「とくに昔の人なんかそうですよね。長崎の端の島に暮らしていた人間なんて、さぞ変化のない日々を送っていたんだろうと思ってしまいますけど、話を聞いてみると意外にそうじゃない。たとえば長男は家を守るけれど次男、三男あたりは若い頃から出稼ぎに出て、大阪あたりでミルクホールに通っていたとか、そういう話がポロポロ出てくる。そのあと実家に戻ってきて、別の家の養子になったりいろいろあったのち、いまはすっかり落ち着いて座敷でじっと座っているだとか」



 古川さん自身、島の祖母の家に帰ると、祖母をはじめいろいろな人たちからそうした豊かな話を聞いてきたのだとか。


「母方の実家へ帰るたび、お酒を飲みながら昔話を聞く機会がありました。僕は大学を中退して、そのまま働いていない期間が長かったのですが、そのころは島に滞在していてもどことなく肩身が狭いものですから、夕食の席などでは現在や未来のことをなるべく詰問されないように、過去のことをどんどん聞くようにしていたんです。皆の目をできるだけ過去のほうへ振り向けるために(笑)。


 問わず語りに話される過去の出来事はおもしろくて、最初は単純な好奇心を向けるばかりでしたが、先ほど言ったように24、5歳でこの島のことを小説に書いたらいいんじゃないかと気づいてからは、だんだん題材として意識するようになっていきました。親族のほうも、どうやらこいつは小説を書きたいらしいと知って、その上でいっそうあれこれ話してくれましたね。ありがたいことです」


系図をつくっていくという感覚



生えたら、また刈りに来るとよ。 


(『背高泡立草』より)



 古川さんが文学のおもしろさに目覚めたのは、中学3年生のときだった。


「それ以前はたまたま家にあった星新一を読むくらいのものでしたが、中3のときふいに三島由紀夫の『作家論』を手にして、影響を受けました。文学にはいろんな流れがあって、それぞれの作家にもいろんな潮流や歴史が流れ込んでいるという事実が興味深かった。たとえば洋楽なんかでも、1970年代のあの伝説的なバンドのドラマーは、60年代には別のこんなバンドでドラムを叩いていて、80年代にはあのミュージシャンとも仕事していたとか、歴史や系譜ってあるじゃないですか。そういうのを知って、自分の頭の中でどんどんつなげていくのが好きだったので、文学でもそれをできると知って興奮しました」



 系図をつくっていくという感覚は、「島の物語」を書き継ぎ一族の歴史を紡いできた古川さんの文学の仕事と、相通ずるものがありそうだ。



「同級生や先輩からは、ずいぶんなじられました」


 すっかり文学好きになった古川さんは、高校時代は学校の文芸クラブに所属し、短編も書き始めた。


「そのころ影響を受けていた作家は、まず武田麟太郎。短編作家なんですが、貧乏な人間しか出てこないし、オチも陰惨で。そうか、英雄的な人が出てこないこういう小説もありなのか、これなら自分も似たようなものを書けるかもしれないと思いました。


 それから、島木健作。彼は農村を舞台に香川の方言を作品の中に入れ込んでいます。これは自分の生きている環境に近い、こういう書き方もあるのかと、一気に惚れ込みました。武田、島木の両作家とも、三島由紀夫の『作家論』で取り上げられていますね」


 国学院大学に進み上京してからも、小説を書くことに没頭した。


「作品を読んでもらった同級生や先輩からは、ずいぶんなじられましたけれども。福岡の方言がバンバン出てくる農村の話なんてされても、わかんねえよと。たしかにその言い分もいまはよくわかります」



「何もしなかった」20代の6年間が糧になった


 学業にはあまり心が向かず、大学は中退することとなった。


「小説に夢中だったせいで、というよりは、単純に勉強ができなかったので。英語がとにかく苦手でした。自分は小説を書くんだからいいよと居直れたらよかったんですけど、なかなかそういう心境にもなれず、ひたすら来たるべき除籍通知の到来を恐れながら、かといってバイトや仕事探しをするわけでもなく、この状況がなんとかならないものかと、ただただ手をこまぬくばかりでした」


 中退後は6年間ほど、社会的には何をすることもなく、小説を書いたり、書きあぐねたりしていた。


「文芸誌の新人賞を目指していたのは確かなんですが、作品をなかなか最後まで仕上げられなくて。自分の手に余るようなテーマやモチーフを扱ってみては息切れし、また別のアイデアが浮かんだからそっちを書き出すも挫折し、語り口に凝ってみようとやりだしても数カ月であきらめて……といったことを繰り返していました」


 そんな中で、先述のように「島の物語」を見出して、2016年にデビューを飾ることに。新人賞受賞作は芥川賞候補にも選ばれ、一躍、若手有望作家となった。デビュー前、たとえば大学中退後の6年間の頃の自分は、芥川賞作家となったいまの自分の姿を少しは予想できていたかどうか。


「まったく想像できませんでしたね。そもそも小説家という存在が、それこそ『サザエさん』の伊佐坂先生くらいしかうまく思い描けない状態でしたから。芥川賞にしても、ハナから自分には縁のないものだろうと思っていました。それなのにこうして賞をいただけて。あの頃のオロオロするばかりだった自分に、言えるものならだいじょうぶだよと声をかけてやりたい」



 今後はどんな作品を私たちに読ませてくれるだろうか。受賞を機に作風は変わるものか否か。


「島のことは書き済んだとはまったく思っていませんが、あまり同じテーマを続けていると、手癖のようなもので書いてしまうのがいちばん怖いです。島から離れるかどうかはともかく、自分にとって不慣れな、未知なる他者が現れるようなものを、書いていくようにしたいですね」


写真=深野未季/文藝春秋




(山内 宏泰)

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