柏原芳恵、聖子や田原とトラック荷台に乗った過去を回顧

1月18日(木)7時0分 NEWSポストセブン

伝説のアイドルがデビュー当時を語る

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 ファンに愛され続けるトップアイドル、柏原芳恵。彼女が、その半生を語った──。デビューのきっかけは1979年、中学2年生の彼女のもとにオーディション番組『スター誕生!!』(日本テレビ系)の予選会を知らせるハガキが届いたことだった。


「小学6年生の時に友達と一緒に応募していたのですが、すっかり忘れていて。両親も“どうせ受からないだろうけど記念に受けてみたら?”と言うくらいで、気楽に臨みました」


 決戦大会まで勝ち抜いてスカウトされると、毎週末大阪から東京に通い、レッスンに明け暮れた。そして1980年春、デビュー曲『No.1』を渡される。


「阿久悠先生の手書きの歌詞をいただきました。毎日、何十回もノートに書いて覚えました。移動中の車でスラスラ言えないと、事務所の社長に怒られるんですよ。スポ根アニメのように鍛えられましたね(笑い)」


 全国をキャンペーンで回ると、日テレのワイドショーで毎日のように取り上げてくれた。だが、松田聖子河合奈保子田原俊彦などアイドル新時代の幕開けを飾るライバルたちの壁は厚く、音楽祭の新人賞からは軒並み漏れてしまう。


「私より周りのほうが心配してくれたと思う。2年目までにヒット曲を出さないとダメ、という空気を感じていました」


 そんな時、『ハロー・グッバイ』という曲に巡り合う。1981年12月3日『ザ・ベストテン』(TBS系)に初めてランクイン。売り上げ38万枚を記録し飛躍の曲となった。


「『ベストテン』ではコンサート終了後、新横浜駅の新幹線のホームで、仕事帰りのサラリーマンに“お疲れ様でした”とおしぼりを配りながら歌ったこともありましたね。当時は移動も大変でした。周りに気づかれないために車のトランクに入ったり、年末の音楽祭などで他の出演者との共演番組が重なってくると、聖子さんやトシちゃんたちと一緒にトラックの荷台に乗り込んだりしました」


 1983年1月発売の『春なのに』では、作詞・作曲の中島みゆきが歌唱法を授けてくれた。


「それまで私は、悲しい歌なら最初から最後まで悲しそうに歌っていた。でも、“すべての歌詞が悲しいわけではない”と教えてくれたんです。“春”は楽しい、“別れ”は悲しいというように、抑揚をつけるようになりました」


【プロフィール】かしわばら・よしえ/大阪府出身。1980年に歌手デビュー。1981年発売のシングル『ハロー・グッバイ』が大ヒットし、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。1982年には日本レコード大賞金賞を受賞し、1983年、『春なのに』で紅白歌合戦に初出場を果たす。現在も全国のコンサートやディナーショーなどに出演中。昨年、12年ぶりとなる写真集『YOSHIE MODE』(徳間書店)を発売し、変わらぬプロポーションを披露して話題となった。男性ヴォーカリストの名曲をカバーしたアルバム『encore』シリーズの第3弾『encore3 “七変化・響”』が発売中。4月には自ら作詞した曲だけを収録したミニアルバム『芳恵詩集』が発売予定。


撮影■荒木英仁


※週刊ポスト2018年1月26日号

NEWSポストセブン

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