安倍「男たちの悪巧み」主催者 池田勇人に連なる華麗な人脈

1月18日(木)16時0分 NEWSポストセブン

東京駅前にそびえる鉄鋼ビルディング

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 安倍晋三・首相と加計学園理事長・加計孝太郎氏との親密さは、昭恵夫人がフェイスブックに公開した「男たちの悪巧み」なる2015年のクリスマスパーティの写真によって大きく取り沙汰されるようになった。そのパーティの主催者である増岡聡一郎・鉄鋼ビルディング専務(55)が、口を開いた。これまで知られることのなかった安倍人脈の本当の関係性が、明らかになる。(取材・文/森功=ノンフィクション作家。文中敬称略)


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 増岡聡一郎は安倍より8年若い1962年東京生まれだが、広島県の中堅ゼネコン「増岡組」創業一族の中で育ち、慶応大学経済学部を卒業している。卒業後にいったん三菱地所に入社し、改めて増岡組グループ入りし、経営に携わってきた。目下、鉄鋼ビル専務のほか、「増岡商事」や「ダック」の社長を務めている。


 安倍本人とは学生時代の接点もない。が、首相を取り巻く二世、三世の資産家の中でも極めて近い存在だといえる。永田町や霞が関、丸の内界隈や首相官邸では名の通った人物だ。加計らと同じく、夫人の昭恵抜きでも河口湖畔のゴルフ場でラウンドする間柄でもある。


 そんな増岡家の稼業ともいえる増岡組は、聡一郎の祖父にあたる増岡登作が1908(明治41)年に創業した。もとは広島県呉港を埋め立てる砂利業者で、とりわけ戦時中は旧海軍御用達の御用商人として飛躍的に業容を拡大させた。


 もっとも終戦を迎え、多くの軍事企業が戦犯扱いされる中、増岡組は戦争責任を問われることなく、会社は温存された。それどころか登作は、戦後いち早く社業を軍従属会社から復興事業会社へと転じて政界とのつながりをますます深め、業績を拡大させていった。


 その最大の事業が、終戦2年目の1947年に計画された鉄鋼ビルの建設だ。焦土と化した国鉄東京駅の八重洲一帯の再開発である。当の聡一郎が解説してくれた。


「戦後、東京都が財政難に陥り、埋め立てられたお堀を払い下げるとき、祖父が買わせていただいたのです。祖父がひとりで勝手に買ったわけじゃなく、戦後復興の象徴的プロジェクトでした。広島県出身の政財界の集まりがあり、(島根県生まれで広島県育ちの)永野重雄さんが八幡製鉄の社屋を東京に置こうとし、池田勇人さんが計画をつくった。(運輸次官だった)住田正二さんも復興事業に加わっていました」


 永野は、戦後、富士製鉄社長として八幡製鉄との合併を成し遂げた財界人だ。一方、大蔵官僚だった池田は戦後の復興・補償を担い、日本軍の出入り業者と折衝してきた。


 土地の払い下げを受けた増岡登作は1949年、不動産管理会社として「鉄鋼ビルディング」を設立。1951年7月、第一鉄鋼ビルが竣工する。東京駅周辺でいえば、三菱地所の丸ビルが知られるが、鉄鋼ビルはそれと肩を並べる戦後初の高層ビルとして誕生している。まさに日本の高度経済成長のシンボルとして栄えてきた。


 登作は鉄鋼ビル建設計画さなかの1949年1月に行なわれた衆院選で中選挙区時代の広島二区から出馬した池田をバックアップした。そこから自民党との太いパイプを築いていったとされる。1967年には、次男の増岡博之を政界に送り込んでもいる。増岡組は政界とのつながりを保ちながら、そうして130年近い社歴を誇る日本屈指の名門企業となる。


 もっともその増岡家も政治に翻弄された部分もあるようだ。増岡聡一郎はこうも話した。


「(1965年に)池田勇人さんが亡くなられ、後継がいなかったので、池田さんを応援していた増岡家から出ろといわれて、二番目の伯父(博之)が地盤を引き継いだんです。ところが、何度か当選したあと池田家は(勇人の娘婿の)池田行彦さんを立候補させました。すでに増岡家も呉を地盤に支持母体ができていて、引くに引けなくなってしまって定数4の議席を争うようになったのです。本当に激戦区でした」


 博之は1984年に第二次中曽根康弘内閣で厚生大臣になったものの、1993年の総選挙では落選して政界を引退する。華麗なる増岡一族についての詳細は割愛するが、池田家とも疎遠となり、立志伝中の人物である登作亡きあとは、その神通力が通用しなくなったのかもしれない。


※週刊ポスト2018年1月26日号

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