山田将司(THE BACK HORN)- Key Person 第21回 -

2022年1月20日(木)10時0分 OKMusic



切なさや痛みを共鳴できたから ここまでこれた

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第21回目は山田将司(THE BACK HORN)。“脆かったけど、強かった”と語る20代のメジャーデビュー当時のことや、才能あふれる4人で掴んだTHE BACK HORN感と、そこに至るまでの模索した日々を語る。

THE BACK HORN

ザ・バックホーン:1998年結成。“KYO-MEI”という言葉をテーマに、聴く人の心を震わせる音楽を届けている。01年にシングル「サニー」をメジャーリリース。17年には宇多田ヒカルとの共同プロデュース曲「あなたが待ってる」が話題に。結成20周年となる18年、3月にメジャーでは初となるミニアルバム『情景泥棒』を、10月にはインディーズ時代の楽曲を再録した新作アルバム『ALL INDIES THE BACK HORN』を発表。また、ベストセラー作家・住野よるとのコラボレーション企画も注目を集め、2021年末にはフィジカルとして約4年5カ月振りとなる待望のシングル「希望を鳴らせ」をリリース!

自分に似合わないほうを やってみたほうが面白そう

──山田さんが音楽を好きになったきっかけは何でしたか?

「家にCASIOのキーボードがあって、キーは半音上げくらいで合っていなかったんですけど、3、4歳の時からそれをいじりながらCMの曲を耳コピしていたんです。小学生になってからは、3つ上の姉と一緒に歌番組を観たり、チェッカーズを聴いたり、光GENJIを踊りながら歌っていたので、それが入口ですね。中学生くらいから尾崎 豊さんを聴き始めて、ヴォーカリストに意識がいくようになりました。尾崎さんの曲は何でも好きでしたね。中1くらいからアコースティックギターを始めて、尾崎さんの曲を1オクターブくらい低い声で、歌本を見ながら部屋でボソボソと弾いていました。」

──人前で歌ったりはしました?

「もともとは人前で歌うなんて恥ずかしくてできない人間だったんですけど、カラオケが流行り始めた時に友達に無理やり連れて行かれ、そこで歌って褒められたのが嬉しくて、だんだん抵抗がなくなっていったんです。そこそこうまいって言われていたので、それを聞いた隣の席のクラスメイトがドラムをやってるからってバンドに誘ってくれて、そこで初めてバンドを組みました。」

──高校卒業後に上京し、音楽の専門学校へ進学されましたが、音楽の道に進むことはすんなり決まったんですか?

「当時からデッサンするのも好きで、放課後に美術室で絵を描いたりもしていたので、その二択でした。どっちをやりたいか考えた時に、絵はひとりで描いているイメージが強かったんですよ。俺は人と話すのも苦手なタイプで、ひとりでいることが多かったので絵のほうが向いていると思ったんですが、音楽には華々しいイメージがあったから、あえて自分に似合わないほうをやってみたほうが面白そうだと思って決めました。」

──THE BACK HORNの結成は専門学校在学時の1998年ですが、そこで出会った菅波さんと松田さんにはどんな第一印象がありましたか?

「出会ったのは栄純(菅波)のほうが先で、入学した翌日の授業だったんですよ。英語の授業でギター科とヴォーカル科の人が一列ずつに並んで、英語で3分間ずつ自己紹介をするって時に、俺の目の前に栄純が来て、バリバリの福島弁で“音楽は何を聴いてんの?”と訊いてきたんです(笑)。」

──“英語で”と言われているのに(笑)。

「そう。その時は特にBLANKEY JET CITYを聴いていたので、“ブランキーとか…”と答えたら、栄純が“うすっ。じゃあ、バンドやっぺ。あとでベランダ来て。じゃあね”って(笑)。だから、第一印象は訛りすぎの田舎者で、着ている服もヒョウ柄のハーフパンツにシースルーの迷彩柄のベストだったし、お調子者だなと思いましたね。で、マツ(松田晋二の愛称)はチャラ男でした。ガングロメッシュでスラックスを履いて、革靴を履いて、当時流行っていたムラサキスポーツの袋からスティックが出ているって感じの(笑)。」

──そんな個性の強いおふたりとバンドを組むことになったと。

「もう巻き込まれた感じでしたね。マツと当時のベースは栄純が誘っていたので、“まず曲を合わせてみよう”とブランキーの「ガソリンの揺れかた」をやって。まぁ、みんな下手くそでしたけどね。そのセッションが終わったあとにマツが栄純に“お前はメンバーを集めたんだから曲を作ってこいよ”って言ったら、一週間後くらいに「冬のミルク」を作ってきて、そこから曲を作っていくうちにバンド名を決めて…最初は“魚雷”がいいんじゃないかって(笑)。でも、あとからダサいと思って“THE BACK HORN”になりました。外のライヴハウスでもライヴやるようになって、気づいたらバンドとして活動していましたね。」

自分の考え方ひとつで 世界なんか変えられる

──デビュー前に気にかけてくれた人はいましたか?

「1999年に今の事務所の前の社長と知り合ったんですけど、今思えば“よくこんな俺らを拾ってくれたな”と思います。俺らが19、20歳だから社長は当時40歳くらいなんですけど、俺は今42歳なので、このくらいの歳の時に20歳も年下の連中に“一緒にやろう”って声をかけるなんて。そしたら“俺らまだインディーでやりたいんで、メジャーはいいです”なんて言われて、“じゃあ、お前らのために事務所を作ってやるから”と今の事務所ができたんですよ。それが全部の始まりですね。」

──インディーズでやりたかった理由は?

「まだ上京したての田舎者だったっていうのもあるし、バンドとして固まっていないのにメジャーに行っても脆いと思ったから、もっと下積みとしてインディーズでやりたかったんです。」

──その後、2001年4月にシングル「サニー」でメジャーデビューされますが、いざメジャーの世界に入って環境が変わる中でどんなことを思っていましたか?

「デビューしたからって変わることは特になく、曲を出すたびに昔からの知り合いに“丸くなったな”と言われることが増えていきました。でも、自分らはインディーズの頃から変わっていなくて、思考はTHE BACK HORNというバンドに対して潜り続けている時期でしたね。インディーズの流れを引き連れていたというか、デビュー直前にベースが抜けていることもあって、バンド内は結構混沌としていたんです。真冬で雪が降る中、スタジオの大きい窓からそれを見ながら、大して会話もせずに曲を作り続ける日もあって、それでできたのが1stアルバム『人間プログラム』(2001年10月発表)ですね。」

──潜ってきた時期から上がってこれたのはいつ頃でした?

「個人的に思うのは2005年くらいですね。フィジカル的な話になりますけど、運動をすることに意識が行き始めたのがその頃で、それまでは朝まで酒を飲んで、タバコを吸って、ふてくされた生活しかしていなかったんです。でも、「カオスダイバー」(2006年発表アルバム『太陽の中の生活』収録)、「ブラックホールバースデイ」(2005年12月発表シングル)、「初めての呼吸で」(2006年2月発表シングル)をニューヨークでレコーディングした時に、そのままロンドンでライヴをするはずが現地の手違いでできなくなって、スペインでライヴをして、全部で3週間くらい海外に滞在していたんですけど、その間にすごい太ったんですよ。で、日本に帰ってきてからランニングを始めたのをきっかけに意識が変わってきたんです。前を向けるようになったというか、ネガティブなものが少しずつ消えていく感じがあって、病的に走りまくっている時期がありました。そしたら曲に向かう意識も、お客さんに対する意識も変わって、運動を始めただけだけど、いろんなことが良いほうに向かっている気がして、“自分の考え方ひとつで世界なんか変えられるんだな”って思いましたね。」

THE BACK HORNは才能の塊なので、 その魅力をふんだんに見せたい

──先ほどの一度メジャーデビューを断ったお話をうかがった時にも思いましたが、メジャーシーンで活動し続けるTHE BACK HORNは華々しい世界にいるように思えるけど、楽曲にはそういった様子が受け取れる描写があまりないように感じます。そういった現実主義なところはメンバー共通なのかなと。

「高校時代から引き連れてきた、俺の雰囲気が一番大きいのかもしれないです。でも、もとを辿ればみんな気持ちが軽いとあったにしても、意外に真面目なところがあって、その部分は共通していますね。ライヴをやるたびにTHE BACK HORN感もできて、それにみんなが向かっていっているのもあったと思います。」

──デビュー以降はかかわる人も増えたと思いますが、音楽が本格的に仕事になった時に心境の変化はありましたか?

「そこは少しずつですかね。デビューから何年も経ってから責任感が出てきて、ライヴ会場のキャパも大きくなって、そこに対するプレッシャーや、“このバンドでもっと表現したいんだ”っていう気持ちと、それができていない現状にふてくされた時期があったり。それはメンバーみんなそれぞれにあると思います。メンバーの信頼関係が成り立つようになってから、このバンドの見せ方を各々が意識して、みんなの居場所がしっかりしていった気がするんですよ。“売れる音楽はいい音楽だ”とずっと思っているんですけど、そこの良さに引っかかっていない時期があって、自分らが納得するものを分かってくれる人が少ない切なさや痛みを人に伝えていた…共鳴できたからここまでこれたのかな?」

──また、バンド初期の曲やカップリングなど、普段のツアーで演奏しない楽曲を中心に披露するライヴ『マニアックヘブン』を2005年から毎年開催されていますが、楽曲やメンバーの個性を余すことなく表に出すことは意識的にされているのでしょうか?

「それはありますね。THE BACK HORNは才能の塊で、ひとりひとりが強すぎるので。このバンドの魅力をどう伝えていくのかっていうのは、曲作りに対してもそうだし、バンドで初めての絵画集『ART THE BACK HORN』(2021年12月24日発売)も作れるくらいのバンドなので、その魅力はふんだんに見せていきたいと思っています。」

──デビューがあった20代ってどんな時期だったと思いますか?

「強かったです。あれだけ狭い視野で、あれだけの熱量で、あらゆる感情まで潜り続ける覚悟があって、怖いものがなかったと言ったら噓になるけど、ずっと“周りのバンドのことはどうでもいい”って気持ちでやっていて。とにかく“心臓まで触ってくれる音楽をどれだけ作れるのか”ということしか考えていなかった。でも、どっちもなんですよね。脆かったけど、強かった。」

──30代はどうですか?

「東日本大震災があって、THE BACK HORNは10年を超えて軌道に乗ってきたというか、THE BACK HORNらしさに意識的に向かい始めていたのが30代で、お客さんと向き合えるようになったのかな? ちゃんと聞く耳を持てたり、未曾有の事態になった時に“俺たちに何ができる?”って気持ちでバンド自ら動けたこととか、メンバー間の絆みたいなものがより強くなった気がします。THE BACK HORNというものに4人が向かって、“俺は何をすべきなのか? どういう音楽を打ち出していくべきなのか?”を意識できた10年だった。歌詞での一人称が“俺たち”とか、他者が交わってきたのは30代以降だと思いますね。」

──最後に、山田さんにとってのキーパーソンとなる人物は?

「このバンドに参加するきっかけになったのは栄純だったので、栄純でもあるけど。当時の事務所の社長も寛容な目で見守ってくれていたし、インディーズ時代に栄純と一緒に住んでいた家の家賃が払えなくなった時に、代わりに払ってくれたのは栄純の母親だったし。」

──あははは。

「栄純の母親はキーパーソンじゃないけど(笑)。ここでメンバーを挙げるのもこそばゆい感じがしますけど、栄純に誘われてバンドを組んだわけだし、今はみんなで曲を作っていますが、最初の頃は彼が作った曲を歌っていて、THE BACK HORNとしての自分がどんどん形成されていった感じはありますから、やっぱり菅波栄純です。」

取材:千々和香苗

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