女優・のん「あまちゃん」からの4年半(後編)

1月21日(日)11時0分 文春オンライン

(「 女優・のん『あまちゃん』からの4年半/前編 」から続く)


大自然の中の少女時代


 のんへのインタビューを繰り返していくと、彼女の大自然への愛着がどんなに大きなものか伝わってくる。都会で暮らし、スタジオの照明を浴びることが日常ののんに、私が日なたや土や草や風の匂いを感じるのは、単に北三陸の海女と彼女を重ね合わせているからではない。


 事実、のんは大自然の中で育った少女時代の話を幾度も披露し、自分の原点ですと語っている。


「家の前が田んぼだったんです。畦道から田んぼのオタマジャクシを捕って、水槽で飼っていました。家から少し行くと山もあって、そこにはカブトムシがぶんぶん飛んでいました。昆虫もへっちゃらで、オモチャなんかより自然の中で遊ぶほうが好きだったんです。実家は駅の近くなんですが、走っている汽車も単線で、人々はゆっくり歩いている。長閑なんてもんじゃないですよ」


 あ、といってのんが付け加えたエピソードがすさまじい。


「私の通っていた小学校のそばにでっかい山があって、そこで鉱石が採掘されるんですが、山をダイナマイトでドッカーン、ドッカーンって、爆破して砕くんです。小学校で授業しながら、山からのドッカーンっていう物凄い音を聞いていました。田舎は長閑だけど、やるときにはやります。ワイルドです」



©iStock.com


 のんが生まれ育ったのは、兵庫県の神河町。県のほぼ中央に位置するこの町は面積の8割を山林が占めている。町中から車で40分ほどの峰山・砥峰(とのみね)高原は関西地方でも有数の高原地帯で、砥峰高原のススキは約90ヘクタールに及ぶ広さを誇り観光客を迎え入れる。


 のんは、私に言った。


「ぜひ、私をこんなふうに育てたあの自然を体感してください」


 のんの原風景を訪ねるため、兵庫県に向かった。東海道新幹線の姫路駅で降り、レンタカーで1時間ほど行くと、神河町の町役場がある。


 役場の方の案内で神河町を歩く。のんが語ったとおりの豊かな自然と長閑な空間と親切な町の人たちが、私を出迎えた。


 能年家の長女として生まれた女の子に玲奈と名付けたのは、当時21歳の母だ。父はひとつ年下の20歳。若い夫婦は質素な生活を送りながら、玲奈と年子で生まれた妹を懸命に育てた。


 実家を訪ねると、のんの母は私に子供の頃の写真を見せながら当時のことを明かしてくれた。


「隣には姉の一家が住んでいて、私の娘2人と、従姉妹の男女の子供2人と、いつも一緒にいたんです。ひとつの大きな家族のように暮らしていました」


 若い母親たちの楽しみは、安くて可愛い洋服を買っては子供たちに着せ、ポーズを取らせて写真を撮ることだった。のんの母はこう話す。


「中でも玲奈は特別でした。幼い頃から洋服を自分で選び、コーディネートをするんです。そして、誰も教えたわけではないのに、モデルのポージングをしてみせます。ウインクをしたり、足を交差したり、ピースサインをしたり、腕を腰に当てたりして、写真に収まるんです。玲奈は小学校に入る前からモデルさんになりたい、と言っていましたね」


 母に似た二重の大きな瞳を持った少女は、洋服とカメラ撮影、そして人に見られることが大好きだった。


 将来の夢はおのずと決まっていた。のんの母も当然、知っていた。


「小学2、3年生になると、毎月ファッション雑誌『ニコラ』を買っていました。すでに大活躍していた新垣結衣さんに憧れて『ニコラ』でモデルになることを真剣に考えていましたね」



 神河町で会った松原秀樹さんは、のんが神河町立寺前小学校4年の時の担任だ。松原さんは、いつも元気で屈託のない剽軽で(ひようきん)積極的な玲奈しか思い起こせないと言った。


「絵が得意で、文化祭や文集製作などでは、イラストやデザインを担当していました。お笑いが好きで、ダンディ坂野の『ゲッツ!』の物まねをして、クラスでも目立っていて、明るく朗らかでクラスの先頭に立つ能年さんしか記憶にないんです」


 のんの小学校の卒業文集に書いたライフプランには、自らの夢を次々に実現する様子が描かれている。専門学校を出てスタイリストになり、ファッションデザイナーへ転身、ファッションブランドの社長になり、コスメブランドの社長との結婚、視聴率40%の女優、5億部ベストセラーの小説家、映画女優にもなってヒット作に主演し、やがて死すると銅像が建つ——。



©文藝春秋


 松原さんはただ微笑ましく、快活な彼女の前途を思った。


「イラストやデザインが上手でしたから、そうした才能が花開けば良いな、と思っていました。それに能年さんは、作文や詩が得意だった。あるとき一編の詩を書いたのですが、それを読んだ時には能年さんには人とは違った視点があるな、凄いな、と感心したものでした」


 松原先生が今も大切に持っているのんが小学6年生の時に書いた「カサブタ」という詩。



 小指と薬指の間にできたカサブタ

 小さな小さなカサブタ

 はがしてもはがしても

 もどってくるカサブタ

 こんなに小さいのにひつこくもどってくる

 けれど

 カサブタがあるということは

 私は生きているしょうこ



 12歳の少女は、その無邪気できらきらとした心のまま、芸能界に入っていく。


 2006年、第10回ニコラモデルオーディションに応募した玲奈は13歳。のんは、その頃の気持ちを鮮明に覚えていると言った。


「モデル、という仕事は物心つく前から、私の頭の何処かにあって、洋服を着ることとそれを誰かに見せることができたら、こんなに幸せなことはない、と思っていました」


 のんの母は、オーディションのために東京へ通う娘に強い意志を感じていた。


「玲奈も私たちも物見遊山ではありませんでした。一次審査、二次審査と進み、最終審査の時には、私はとても緊張していましたが、玲奈はカメラの前で自在にポーズを取り、笑顔を作り、グランプリをいただくんです。夢のような瞬間でしたね」


 そして、ニコラの専属モデルになるためレプロエンタテインメントジュニア部「j-class」に所属する。


 心弾むままに思い描いた世界へ突き進んだ能年玲奈の夢の頂点。中学生になると一人で新幹線に乗り、彼女はニコラの撮影スタジオへ向かうようになった。


 東京の撮影現場に一歩足を踏み入れれば、玲奈は兵庫の田舎の中学生をかなぐり捨てることが出来た。母の目にも、それは確かだった。


「怖いもの知らずな玲奈は一人で東京に行き、そこで最高に輝いていたと思います」



母の裏腹な言葉


 ところが、モデルの世界と田舎の中学生を行き来する彼女は、やがて、長く暗いトンネルを通ることになる。


 発端は成長期にある旺盛な食欲だった。160センチを越える高い身長と相まって、彼女の体型は縦だけでなく横にも大きくなっていった。ニコラの編集者にも、事務所のマネージャーにも変化する体型を指摘され、痩せることを命じられた。


 のんの母は、私たち親子にとって一番辛い時期でした、と目を伏せる。


「普通の中学生だったら、太っても何の問題もないし、食欲が旺盛な娘の姿を笑って見ることが出来ます。けれど、玲奈は小・中学生の少女たちに絶大な人気を誇る雑誌『ニコラ』のモデル。太ることが許されない。私は日に日に大きくなる娘にダイエットを命じ、走らせて、食べることをいつも制限しなければなりませんでした」


 そして、母娘はたびたび衝突するようになった。母はこう振り返る。


「私があれだけ言っても、玲奈は体重のことをあまり気にしていなかったような気がします。きっと、真剣に痩せる気はなかったのでしょうね。私が仕事で出かけている時に、隠れてご飯を炊いて食べていたこともありました」


 母娘の葛藤は日常にあった。母は、娘の夢を結実させるために、裏腹な言葉を使ったと話す。


「このままではニコラの専属モデルを続けられないと事務所のマネージャーさんから言われていました。実際、太ってからは撮影依頼もほとんどなくて。私は、娘の夢のために、痩せる事が必要だと何度も話しました。上手くいかないと、もうやめろ、玲奈には無理だ、と言って奮起を促そうとして。あと少し痩せたら、また撮影に戻れる。けれど、玲奈は私に反発して上手くいかない。ニコラのモデルをやめてもいいけれど、それでは娘の夢が消失することになる。夜になると、私のほうが泣いていましたね」


 だが、中学生の玲奈は、ダイエットの苦しみや、ニコラでのモデル撮影がないことへの焦燥をクラスでは一切見せなかった。


 中学のクラスメートだった岡部賀純さんはこうふり返る。


「おおらかでのんびりしてて、播磨弁丸出しで、背が高かったせいか少し猫背で。屈託のないあまちゃんのアキを見たとき、中学生の頃の能年さんに似ているな、そのままだな、と思いました」


 人知れず苦しむことが続いた。しかし、そんな中、彼女は自分を救う術を掴んでいた。


モデルから女優へ



©文藝春秋


 その一つがモデルではない女優という職業だった。所属事務所の俳優たちに演技指導をしていた滝沢さんのメソッドを見学したのんは、「自分とは違う誰かを演じる仕事」に大きく心を揺さぶられるのである。のんは言う。


「モデルに憧れて、モデルとして生きていくんだと考えていた時、偶然、演技のレッスンを見て、驚きがありました。ああ、テレビドラマや映画の俳優さんは、こうして役になっていくのだと、知ったからです。それまで、芝居・俳優という仕事に興味がなかったのだけれど、一気に興味を持つようになりました」


 滝沢さんのレッスンを見た少女こそ、のんの原点であり、本格的に女優として生きることを願う分水嶺だった。


 のんは、滝沢さんと出会った時の鮮烈な気持ちを今も忘れない、と語る。


「中学生の時、私はまだ演技のクラスには入れなくて、滝沢先生の指導を見学していました。素晴らしい女優さんたちにつけるレッスンを見ながら、モデルだけではなく演技の仕事にも憧れを持つようになったのです。滝沢先生は本当に優しくて、絶対に声を荒らげたり、表情を変えたりしません。優しくて怒ることがないんです。それなのに、鮮やかに俳優さんの表情や演技を変えていきました。私の胸の内に、モデルではなく女優という仕事への思いが沸き上がっていったんです。そしていつか女優のレッスンを受けられるような存在になりたい、と願っていました」


 のんが滝沢さんの演技指導を受けるようになるのは、これから数年後、高校1年の時のことだが、当時のレッスンの現場で抱いた俳優への憧憬こそが、彼女を今もこの世界へと留まらせているのである。



 そして、行き先を見失いそうになった中学生の玲奈を救ったもうひとつの術は、ロック&バンド&ギター。音楽であった。


「実は、モデルと同じくらい音楽をやりたいと思っていて、モデルとロックバンドの両立は、ずっと胸に秘め、目論んでいたんです」


 のんにギターを教えたのは、太田雅巳さんと立石徹也さん。いわゆる地元の“おじさん”である。


 子供たちに音楽の楽しさを教えようと「音器楽会」というボランティア団体を立ち上げ運営していた太田さんは、玲奈に最初にギターの手ほどきをした人だ。エレキギターを貸し、コードを教え、バンドを組んで演奏することの楽しさを教えた。太田さんは言う。


「自分の楽器や譜面を持ち込んで、町からの補助金でアンプを買って、そこで子供たちに自由に遊ばせていた。そんな中に玲奈もやって来たんですよ」


 太田さんの友人の立石さんは、エレキギターのコード進行やリフを細かく教えた。ギターの家庭教師的存在だ。


「玲奈は飛び抜けて上手いわけではなかったけれど、努力家で練習熱心。できないコードは何度も教えてと言ってきました。仕事の合間に行っては、自分もギター弾いて、子供たちに教えてね。玲奈は、大塚愛さんの『さくらんぼ』や小泉今日子さんの『学園天国』を良く弾いていましたね。複雑なコード進行には苦労していましたが、『覚えられへんときには何度も繰り返し練習するしかないで』と言うと、頷いて、その通りに頑張っていました」


 玲奈は、2人を「まさやん」「てっちゃん」と呼び、親戚のおじさんのように慕った。


 玲奈は中学の同級生とガールズバンドを結成し、地元の祭りや商店街のイベントで姫路にまで出向き演奏を披露したこともある。


 太田さんは、バンドに奮闘する玲奈の情熱を心から応援していた。



学園祭ではゾンビメイクで熱唱 ©文藝春秋


「中学3年の時だったかな。テニス部の練習を休んでステージに立つことが学校で問題になって、その相談を受けたことがあったんです。バンド活動がもう出来ないかも知れない、という危機だった。しかし、玲奈は、学校と交渉してバンド活動を続けた。やりたいことをやるためには壁にぶつかることがある。玲奈は、そんな時も前を向いて対処していましたね」


 のんの母もギターとの出会いやバンド活動が、思春期の娘を支えてくれたと感謝している。


「痩せられない日々の苦しみをバンドとギターに熱中したことで乗り越えることができた。まさやんとてっちゃんがそんな玲奈を励まし支えてくれました、感謝してもしきれません」


 中学を卒業すると単身上京。玲奈は都内の高校に入学し、所属事務所の寮に入った。


「とにかく寮に引きこもっていました。高校の2年までは仕事もなくて、ほとんど記憶もありません。誰とも会わない、喋らない、閉じこもりの時代です」


 遠く離れた母も心配することしか出来なかった。


「まだ痩せることができなくて、でも、女優を諦めて帰ってくるとも言わない。電話をすれば喧嘩になってしまう。黙って見守ることしかできませんでした」


 のんが、長いトンネルを抜けたのは、高校を卒業した直後だった。高校1年の時から滝沢さんのレッスンを受けている中で、自分のやりたいことが明確になってきたのだ。


「滝沢先生のメソッドを習えるようになると、自分が本当にやりたいことは演じること、女優なんだ、と分かり、叫びたいほどの気持ちになったんです」


 夢中になれることを見つけた玲奈は、母に強いられた無理なダイエットもやめた。


「びっくりなんですが、ダイエットやめて好きな物だけを食べていたら、うわぁーって感じで自然と痩せました」



 そうして挑んだ『あまちゃん』のヒロイン・オーディション。彼女は、ついに望んだ女優として主役を掴んだのである。


 のんは、演技についての思いをこう話した。


「私、『役に憑依している』と思われているようですね。でも、それは違います。天才ならそうできるかも知れませんが、私は違うんです。撮影現場で自分ではない人間を演じるために直感は必要です。滝沢先生の指導とアドバイスは、その直感を養うためにある。そうして一生懸命役に向き合って、向き合って、その役の内側に入りこんで、演技をしているんです。なので、納得できないと前へ進めないんです。演じることは自分の生き方だと思っています」


アキやすずを超えて


 2017年8月6日、のんの姿は東京・葛西臨海公園の「汐風の広場」のステージの上にあった。


 今年で10年目を迎えた音楽イベント『WORLD HAPPINESS 2017』(ワーハピ)で高橋幸宏スペシャルバンドのステージに呼び込まれ、紅いギターを弾きながら1970年代に高橋が活躍したサディスティック・ミカ・バンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」を弾き、歌った。照りつける夕陽の下、私はステージに立つのんを見ていた。


 ゴールドと紫のゴージャスなスカートの下に緑色の恐竜のしっぽを付けたのん。彼女は、大スターとともに夏フェスにデビューした。


「中学生の頃のガールズバンドから10年目の大事件です。でもギターをやってきて良かった、と思いました。ステージでコードを何度か間違えて、もっと練習しますと誓いました、えへっ」


 ステージを終えて、バックヤードに戻ってきた彼女は笑顔で語った。


 中学生の頃に没頭したギターとバンド。あの弦から生まれる音が、今ののんを支えている。


「音楽と演技は繋がっていると思います、私の心と体の中で」


 同8月3日に自分自身のレーベル「KAIWA(RE)CORD」を発足させ、本格的に音楽活動をスタートするとも発表したのん。2017年11月22日にはデビューシングル『スーパーヒーローになりたい』が発売された。



©文藝春秋


「夏にワーハピで共演した高野寛さんが曲を書いてくれました」


 モデルに始まり、女優に転身したのん。イラストを描き、音楽を奏でるのん。あらゆる才能が開花している彼女は眩しいばかりだが、私個人の望みを言葉にすれば、女優・のんを見たい、ということに尽きる。


 天野アキやすずを超える役に出会って演じる彼女をもう一度見たい。


 のんは、どこへ向かうのか。


 私の問い掛けにのんは答えた。私の目を見つめ、恥ずかしそうに。けれど雄弁に。


「この間、LINEモバイルのコマーシャル撮影の時に、思ったんですよ。カメラの前に立って、監督の求める人を、表情を、丁寧に演じながら、あ、まだ終わっていなかったんだ、と。それどころか、始まったばかりだったんだ、って分かったんです。この先、どんな機会が巡ってくるのか、ドキドキしています。そして、きっとどんな機会にも、私は飛び込んでいくのだと思います」



(小松 成美)

文春オンライン

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