震災で危機に陥った閖上「日本一の赤貝」 再興へ向け奮闘中

1月21日(火)16時0分 NEWSポストセブン

ほとんど地元に出回らない閖上産赤貝を使った丼

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 20隻近くあった漁船は津波で全滅、漁師たちの自宅も流され、一時は廃業も視野に入った宮城県・閖上(ゆりあげ)港。銀座の名店「すきやばし次郎」の店主・小野二郎氏に「日本一」と称えられた赤貝の漁は、船も港もそして人までもあらゆるものを失った。漁の再開はまさに無からの出発だった。


〈築地で手に入る赤貝では、閖上(宮城)が最高でして、もう殻を見ただけでわかるんです。それに、あれだけ身が太ったのは、ヨソにはありません。凄く肉厚なくせに、不思議に思えるほど柔らかい〉(『すきやばし次郎 旬を握る』文春文庫)


 こう最上級の賛辞を呈したのは銀座のミシュラン三つ星寿司店「すきやばし次郎」の職人、小野二郎氏。「幻の赤貝」と賞される閖上の赤貝だが、一時期、市場から姿を消し、消滅の危機に遭った。


 2011年3月11日に発生した東日本大震災──宮城・閖上地区も、津波で漁船や建物が流され、壊滅的な被害を受けた。復興計画が練られる中で、効率化を図るため、規模が小さい宮城県漁協閖上支所は近隣市場と組織統合する話が持ち上がった。閖上から10km南の亘理(わたり)に事務所を置くこととなり、閖上支所自体の活動再開が危ぶまれた。


 一方、赤貝組合長の出雲浩行氏は「とにかく赤貝が海にいるかどうかの確認が第一歩」と考えていた。四散した漁具をかき集め、震災から5か月後の2011年8月、なんとか漁船を1隻出して調査漁を敢行した。結果、赤貝はいた。赤貝がいれば漁ができる。だが、閖上で操業していた18隻の船はすべて流失していた。出雲氏の船も「陸に上がって数・先でまっぷたつになっていた」。


 漁師らは漁協のつてを頼りに、青森や北海道の漁師から中古船を購入する。しかしまだ懸念材料が残っていた。その頃ニュースで取り沙汰されていた水産物の放射能汚染問題だ。試験採取した赤貝を県に提供し、放射能測定を依頼した。結果は「未検出」。お墨付きを得たことで、漁師らは漁を再開することに決めた。2011年12月、たった2隻で赤貝漁は再スタートした。


「俺たち漁師が先陣切って海に出なければ、誰もが怖がって海に近づかないような雰囲気だった」(出雲氏)



 漁が再開すると、獲ってきた貝の選別作業やセリをする場所がないことが問題となった。魚市場の施設も津波で流失したからだ。当初は屋外で作業をしていたが、漁師らが中心となって地元名取市などに掛け合い、2012年5月に仮設の魚市場が開設した。


 漁師がいて、船があり、市場がある。これで、事実上、閖上支所は閉鎖を免れた。更地で無人になった閖上地区の端で、赤貝漁の活動が形になり始めた。これは県内外を問わず、明るいニュースとなった。しかし喜びも束の間、震災前にはキロ4500円の高値がつくこともあった赤貝も、3000円ほどに値が下がってしまっていた。


 そこで閖上ブランドを取り戻すために、赤貝の自動選別機が使用開始された。重さごとに7種類に分けることで、価値体系の均一化、安定化を図ったのだ。また、2013年に入ると、再開決定後に発注した新造船が続々と完成、操業し始めた。


 昨年4月に進水した栄漁丸の船長・佐藤栄作氏は「船が来るまでは海底の瓦礫を浚(さら)う仕事や、他人の船の手伝いをしていた。自分の船でヨシやるぞという気分になった」とその時の心境を語る。1月18日には最後の1隻が進水を迎え、ようやく閖上の赤貝漁は態勢が整う。


 閖上の名を広めるブランド赤貝の漁を先鋒に、地区は活気を見せ始めている。30年の歴史を持つ「ゆりあげ港朝市」も昨年5月に閖上に戻ってきた。


「俺らが獲る赤貝は日本一だから、というのはここの漁師は誰もが思ってるでしょう。俺たちが獲り始めなければ、閖上には人が戻って来ないとどこかで感じていた」(前出・出雲氏)という静かな気概が、復興という太く重い綱を引っぱっていく。


撮影■藤岡雅樹


※週刊ポスト2014年1月24日号

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