ナイキ「厚底シューズ問題」と「レーザーレーサー問題」を同列に語ってはいけない理由

1月23日(木)6時0分 文春オンライン

 今年の箱根駅伝で84.3%もの選手が着用し、大きな話題となったナイキの厚底シューズ「ヴェイパーフライ」。このシューズを履き、世界中で多くの選手が記録を更新したこともあり、昨秋から世界陸連が調査に乗り出した。


 その世界陸連の発表を待たず、先日、イギリスのメディア「デイリーメール」や「タイムズ」などが競技用シューズの底の厚さに制限を設け、大会でヴェイパーフライの使用を禁止する見通しであると報道。一方で、「ザ・ガーディアン」はヴェイパーフライを販売禁止にする可能性は低いと報じている。


 これを、かつての高速水着「レーザーレーサー」の問題と同列に語る向きも多い。2008年に英スピード社の水着「レーザーレーサー」を着た選手が競泳で世界記録を次々に塗り替えたが、後に規定で制限が加えられた一件だ。しかし、「“レーザーレーサー問題”と“ヴェイパーフライ問題”はまったく違う」と語るのが、駅伝マニア集団「EKIDEN News」の西本武司氏だ。


 ◆ ◆ ◆


「ヴェイパーフライ履けなくなる問題」のインパクト


 まず今回の件で、日本人にとって「ヴェイパーフライ履けなくなる問題」のインパクトがどれだけ強いものだったかということが、浮き彫りになりました。なにせ、シューズ専門家でもない僕に各メディアから取材依頼がくるぐらいですから……。


 ただ、僕はまず「もちつけ」、いえ「落ち着け」と言いたい。Twitterを見ても、ここまで騒いでいるのは日本ぐらいのものです。「アシックスの株価が箱根駅伝後に下がり、このニュースで上がった」というニュースもありましたが、アシックスの株価は昨年夏くらいが底値でそもそも、そこから上がってきてますから。世界陸連が何も発表していない段階で何もここまで騒がなくてもいい、騒ぐならもっと前から騒ごうよ、と僕は思っています。



2016年リオ五輪、厚底シューズの衝撃的デビュー


 設楽悠太選手や大迫傑選手が日本記録を更新したり、今年のニューイヤー駅伝や箱根駅伝で多くの選手が履いたことでヴェイパーフライは話題となりましたが、そもそも、2016年のリオオリンピックで、ヴェイパーフライの前身である「メイフライ」のデビューが衝撃的だったのです。


 1万mのアメリカ記録保持者で、大迫傑選手と同じナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属していたゲーレン・ラップ選手(アメリカ)が1万mとフルマラソンにダブルエントリーし、1万mは日本記録よりも速い27分8秒のタイムで5位入賞、8日後に行われたフルマラソンでは2時間10分5秒で銅メダルを獲得しました。ちなみに、この時フルマラソンで金メダルを獲得したのが、マラソン世界記録保持者エリウド・キプチョゲ選手(ケニア)で、この2人が履いていたのが、分厚いソールを持つ「メイフライ」だったのです。


 さらに言うと、1万mとフルマラソンのダブルエントリー、W入賞を果たしたゲーレン・ラップ選手のトラックスパイクがすごかった。トラックスパイクとは思えないほど「分厚い」スパイクだったのです。当時、僕らのようなファンの間では「トラックとマラソンでシューズによる違和感をなくすためにラップは分厚いスパイクで走った」そういう解釈だったのですが、いまにして思えば、Wエントリーを可能にするために、疲労感を残さないシューズ開発の原型は2016年からの話であったのです。


 ちなみにメイフライにカーボンプレートが入っていることを多くの人が知ることにあるのは、2017年5月に行われたフルマラソン2時間切りを目指すナイキのプロジェクト「Breaking2」が発表になった時です。



フルマラソン2時間切りを果たした“えげつない厚さ”


 このときは2時間切りを果たせませんでしたが、昨年10月、特設レースでキプチョゲ選手はナイキが新たに開発したシューズを履いて、非公認ながら人類初の2時間切りを果たします。


 このシューズが、カーボンプレートを3枚重ねたうえに、前足部にエアを入れたとんでもなく分厚い靴底の「アルファフライ」です。ヴェイパーフライは禁止されないだろうと報じたザ・ガーディアン紙もこの靴は規制の対象になると伝えているほど、その厚さはえげつない。


「アルファフライ」は今のところNIKEと契約する世界的トップアスリートたちにレースで使わないことを条件にテストで配られていますが、(レースで使う際はテープなどでソールが見えないようにマスキングを施す)この靴の登場が今回の規制の流れの一因となっています。この調子で際限なく厚くしていいのか、どんどんボヨンボヨンしてしまっていいのか。例えるなら、F1が速さを求めるからといって、ジェットエンジンの搭載を許すかということ。これまで陸上シューズの「より軽く・より薄く」という概念で進んでいた開発がクッション材の進歩やカーボンシートをよりたわませるため「より軽く・より厚く」という報告に進み始めた。ここで新たにレギュレーションを作る必要がうまれたという話なのです。


ヒューストンで話題をさらったアディダスの超厚底


 ちなみに僕は先日、アメリカで行われたヒューストンハーフマラソンを見に行ってきました(新谷仁美選手が1時間6分38秒の日本新記録で優勝しました!)。



 このレースは、2月に行われる東京五輪のアメリカ代表選考レースの調整として最適な大会で、多くの有力選手がエントリーしました。僕はここで、「アルファフライ」を履く選手がいるかに注目をしていたのですが、履いている選手はいませんでした。


 現地で話題を集めたのは、ナイキではなく、アディダス。なんとこのレースでアディダスは超厚底シューズを投入してきたのです。笑ってしまうほど厚い底。ここからもシューズの進化は「より軽く・より厚く」の方向に進んでいることが読み取れると思います。でも、これ、だれが観ても「やりすぎ」感がありますよね。この写真をツイッターにアップしたところ、日本では全く話題になりませんが、世界の陸上オタクにあっという間に広まり「やりすぎじゃね」という論争がすでにうまれています。



アディダスの超厚底シューズ ©EKIDEN News


 もうひとつ、日本でまったく報道されていませんが、実はトラックスパイクも調査の対象に入っています。



昨年の世界陸上で起きた“ありえないこと”


 昨年の世界陸上ドーハ大会ではありえないことが起こりました。ナイキ・オレゴン・プロジェクトに所属していたシファン・ハッサン選手(オランダ)がなんと1500mと1万mにダブルエントリーし、ともに優勝を果たしたのです。陸上をやっている方なら分かると思うのですが、この2つはジャンルが違うといってもいい競技です。1万mはスピード持久力が求められ、1500mはペースアップを切り替えていく瞬間的なスピードが求められる。違う種類のスピードが求められるのです。さらに1500mは予選、準決勝、決勝と3本のレースを走ります。一方で1万mもダメージが大きい種目。つまりハッサン選手は短い期間で4本のレースを走る必要があるった。この2種目で優勝するというのはとてつもないことなんです。



 そしてこの時にハッサン選手が履いていたのが、ナイキの「アルファ フライ」と同じ概念で作られたスパイクです。これまではより薄いスパイクでダイレクトにトラックの反発をもらって走ることが陸上スパイクの常識でした。それが前面にエアクッションをいれ、カーボンシートのたわみを活かすために陸上スパイクとしては厚めのソールを備えたスパイクを一部のトップ選手だけに投入したのです。



 もちろんハッサン選手は今季絶好調。1500mからハーフマラソンまで出場するレースは圧勝しつづけてきた選手ですが。それはターゲットを絞ったからできたこと。スピード特性が違う2種目を短いスパンで疲労を残さずレースをこなすことができたことは衝撃的でした。日本ではマラソンばかりに注目が集まっていますが、実はトラックでもナイキのイノベーションが躍進していたのです。


ナイキが狙っているのは東京オリンピックの次


 東京オリンピックを目指す選手にとっては、早く結論を出してあげた方がいいのは間違いありません。けれども、これだけ多くの選手がヴェイパーフライを履いていますから、もし規制対象となっても、一斉に乗り換えるだけなので、スタートラインは同じ。ある意味平等だと思っています。


 オリンピックは各メーカーにとっても最大のプレゼンテーションの場ですが、ナイキが本当に狙っているのは、東京オリンピックの翌年、2021年にナイキ誕生の地、オレゴン・ユージーンで行われる世界陸上だと僕はにらんでいます。


 会場となるのはオレゴン大学のヘイワードフィールド。Track Town USAと呼ばれ、アメリカ陸上にとって聖地のような場所です。ナイキ創設者フィル・ナイトはこのオレゴン大学陸上部出身。オレゴン大学陸上部ヘッドコーチ、ビル・バウワーマンと立ち上げたのが、いまや世界的企業となったナイキという会社です。オレゴン大学は本当の意味での「ナイキスクール」であり、このヘイワードフィールドは創業の地と言っても過言ではない場所。世界陸上に合わせ、フィル・ナイト財団による資金が投入され競技場を全面改修し、今年の6月までにはかつてない超近代的な「陸上競技専用スタジアム」が完成する予定です。


 ナイキが生まれた場所で行われる世界陸上で、ほとんどの選手がナイキを履き、ナイキを履いた選手たちが大活躍する様子が全米に生中継される。ナイキにとってこれ以上壮大なストーリーがあるでしょうか。それこそがナイキが本当に狙っているものではないかと思っています。


 しかし、その壮大なストーリーを打ち砕こうと、メラメラと闘志を燃やしている男がいます。川内優輝選手です。彼が虎視淡々と狙っているのは、ナイキのお膝元オレゴンで、アシックスを履いて勝つことです。ナイキ一色の戦場に、「ランボー」さながら日本人がたったひとりでゲリラ戦に挑もうとしている。こんな面白い図式があるでしょうか。



 ただし川内は、無名の日本人ではありません。2018年のボストンマラソンを制したレジェンドとしてアメリカでも知られています。川内が勝つか、ナイキが勝つか、どちらが勝っても絶対に面白いレースになります。



今回のシューズ革命は“市民革命”だ


 話がすこしそれました(笑)。ヴェイパーフライの規制騒動に戻ります。僕の予想では、カーボンプレートについては、他のメーカーもナイキに追いつくべく、何年もかけて開発に取り組んでいますから、今さら禁止するのは難しいでしょう。また、現在発売されているヴェイパーフライが規制されることもないと思っています。


 それには理由があります。なぜ新たなレギュレーションが必要になったかというと、選手もメーカーも保守的だったから。選手たちは子供の時から履き慣れたメーカーを変えたがらなかったし、メーカーも商品を大きく変えて選手が離れてしまっては困ると、微修正しかしてこなかった。


 ところがナイキは後発メーカーであるがゆえに、ドラスティックに変えたシューズを開発できたわけです。そして長く止まっていた陸上シューズ界にイノベーションを起こした。これに反応したのが、いろいろなものを試すのが好きな革新的市民ランナーたちです。


 ヴェイパーフライが発売された当初、いち早く手を出したのが市民ランナーでした。初心者、上級者関係なく、トップ選手が履いたあの靴を俺も試してみたいと履き始めたのです。そして続々と記録が更新されてはじめて、あの靴は使えるという気運が高まった。つまり今回のシューズ革命は、「市民革命」だったのです。



ヴェイパーフライの魅力は速さだけではない


 ヴェイパーフライの優れているところは、速さを生み出すためのカーボンプレートだけでなく、怪我をせずに長く走れるソールの素材にもあります。これまでのシューズは長く走れるようになるほど、速く走れるようになるほど、故障のリスクが高まり、走るのをやめてしまう人も多かった。けれどもヴェイパーフライのクッションは、故障をせずに長く走り続けられて、しかも走る楽しさまで味わえる。僕はヴェイパーフライをドーピングだ、邪道だという人は、一度もあの靴を履いたことがないんじゃないかと予想します。だって、あの靴で走ると楽しいんですもん。


 カーヴィングスキーが登場したときを思い出してください。あんな簡単にターンができる板は邪道だ、2mの板を操るのが男だろうって散々言われましたよね。でも、初心者は簡単に綺麗にターンできた方が楽しいじゃないですか。で、結局、今となっては、ほとんどの人がカーヴィングスキーを履いているわけです。その楽しさを奪われたら、市民ランナーによるデモが起きたっておかしくない(笑)。


 レーザーレーサーと違うのは、そこです。レーザーレーサーは一部のトップアスリートだけのものでした。市民プールでレーザーレーサーを着て泳いでいた人、見たことありませんよね? 着るのも大変だったみたいですし。


 でもヴェイパーフライは違う。初心者からトップ選手まで、これを履いて楽しく走っているわけで、みんなにとって“自分ごと”なんですよ。この靴を取り上げられて困るのはトップ選手だけじゃないんです。走ることを楽しんでいる市民ランナーなんですよ。


 もちろん何かしらの規定ができるのは間違いないでしょう。むしろ今のように際限なくどこまでもソールを厚くしていいとなると、技術競争は起きづらいと思っています。リミットを設けることで、それを超えるためにどうしたらいいかと、各メーカーは知恵をしぼり始める。そこで、さらなる技術競争が起きるわけです。そう考えると、規定ができてから各メーカーのシューズがどう進化していくのかと想像した方が、今後の楽しみは増えると思います。


構成/林田順子(モオ)




(EKIDEN News)

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