林家木久扇が語る『笑点』の盟友・桂歌丸。「片思いのお相手とご結婚された歌丸師匠。その口説き文句は…」
2025年1月24日(金)12時30分 婦人公論.jp
(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
2024年3月、初期からレギュラーを務めてきた人気番組『笑点』を卒業した落語家・林家木久扇さん。55年続けた『笑点』勇退を機に、落語家・林家たけ平さんは、落語界の重鎮である木久扇さんがこれまで見てきた昭和の芸能についてインタビューを行いました。今回は、その様子をまとめた書籍『木久扇の昭和芸能史』から「桂歌丸」についてお届けします。
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桂歌丸
K ぼくも歌丸さんも、昔のチャンバラ映画が好きで、よくしゃべってました。だから時代劇のDVDの貸し借りもしていたんです。でもね、既製品だとちゃんと見られるんですが、歌丸さんが自分の家でダビングをしてくれたものは、映ってないんですよ。機械の操作がわかんないらしくて。
— 初歩的なことで……。
K ええ。でも送ってくれるから、「あれ、木久ちゃん観た?」って聞かれると「ええ、観ました。面白い映画ですねえ」って答えてたの(笑)。『まぼろし城』(組田彰造監督、1940)っていう映画を、結局観れてないんですよ。でも歌丸さんが「あんな山の上にお城建てて住んでるのに、トイレの排泄物はどうするんだろうね」って言うんで、内容は知らないんだけど「困ったもんですね」って話合わせて答えて。
— ちゃんとやりとりできてますね(笑)。
K ちゃんとダビングできていないテープを7本くらい送ってもらったことがあります。サーッって何も映ってない。機械音痴なんですね。でもそういう世話焼きで。それで亡くなられた時も、ダンボールに3箱、時代劇のVHSですが40本、歌丸師匠のおかみさんから送られてきました。(中村)錦之助とか(東)千代之介とかの。そのくらい昔の映画がお好きでした。
— 歌丸師匠というと、釣り好きというイメージでしたが、映画もお好きだったんですね。
K 「笑点」で二人コンビでよく「ハゲ茶瓶」って歌丸さんのことを言ったら「うるせえ、バカ茶瓶」って言ってたでしょ。あと、二人でテレビ朝日の「ご存知! 旗本退屈男」(1988)に出ることになって、京都の東映に行ってたんです。旗本退屈男は北大路欣也さんで、ぼくたちは道中してる金持ちで。歌丸さんが、毛の國屋文左衛門で八百屋、ボクがラーメン屋でナルト屋メンマ。役の名前が面白いんです。歌丸さんとは7本くらい撮りました。北大路さんが面白がってくれてね。あと堺正章さんが用人の笹尾喜内(ささおきない)役でこまかく働く家来をやっていました。
— ぼく、それ見たことあります! お父さんの堺駿二さんを好きな師匠が、その息子の堺正章さんと共演したというのも不思議なご縁ですね。
歌丸師匠の生い立ち
— あと、歌丸師匠といえば横浜ですね。
K 歌丸さんは生まれが横浜の真金町(まがねちょう)というところで、横浜っ子で、すごい横浜愛が強い方でしたね。病床なのに、にぎわい座の館長も最後までされたりして。真金町は東京で言えば下町みたいなところで、大変大衆的な町なんです。そこでご家業が変わってまして、お茶屋っていう職業だったんです。
『木久扇の昭和芸能史』(著:林家木久扇、林家たけ平/草思社)
— それは何でしょうか?
K 女の子を紹介する、そういう特殊な職業だったんですね。
— 遊郭ではなく、女の子を紹介するだけの職業ですか?
K そうだったのか……、小さい旅館みたいな形式です。戦後はずいぶんアメリカ兵がやってきて、歌丸さんのおばあちゃんが日本の女の子を紹介していたんです。だからチョコレートやチューインガムやキャメルなんかの珍しい煙草が手に入るんで、おばあちゃんがよくくれたらしいんですよ。そういうおばあちゃんだから手廻しがよくて、学校の担任の先生にもガムやチョコレートをとどけていたので、歌丸さんの扱いがすごいよかったらしいんですよ。
— そういう優遇のされ方があった時代なんですね(笑)。
K 歌丸さんは両親の話はほとんどしなかったですが、おばあちゃんっ子だったんです。
— 木久扇師匠と同じですね。
「笑点」の司会になるまで
K 子ども時分は、そういう職業の家だから、とても孤独だったらしいんです。そんな中、ラジオで盛んに落語をやっていたんで、それで好きになったらしいんです。そして(五代目)古今亭今輔師匠のところに弟子入りしたんです。その頃、冨士子さんという方と結婚して。娘時代にもともとご近所に住んでいて、その立ち振る舞いを歌丸さんがずっと覗いていたんです。
— 歌丸師匠は片思いのお相手とご結婚されたんですね。
K そう。それで「ぼくは後ろ姿を見ると元気になるんだ」って言って、当時の口説き文句があるんでしょうね。冨士子さんは今、93歳でご健在なんですけどお元気で、歌丸さんより年上の方です。でも当時、結婚しても食えないんで、冨士子さんと二人でアルバイトで化粧品のセールスをはじめたんです。一緒に売りに行くわけじゃなくて、別々でね。「このクリームをつけるとハリがでます」って言って売っても、歌丸さんはその頃から痩せてて、頬がこけてる人がそう言って売ってもねえ(笑)。
— 説得力ゼロです(笑)。それが昭和30年代?
K そうです。それから落語ブームになるんですが、そのきっかけは新宿末廣亭で「末廣演芸会」っていうテレビ番組(テレビ朝日、1975〜1981)がはじまり、その中で「珍芸シリーズ」っていうのがはじまったんです。桂米丸(よねまる)師匠が司会で月の家圓鏡(つきのやえんきょう)(八代目橘家圓蔵<たちばなやえんぞう>)さんとか、三笑亭夢楽(さんしょうていむらく)さんとか、笑点の前の世代の人たちが出ていて、その視聴率がよくて落語自体が盛り上がってきたんです。
でもその中に入れないんで、横目で見ながら頑張っていたんですけど、自分と同世代の(立川)談志さんが「笑点」を作ってくれて、メンバーにしてくれたんですね。その時に、メンバー選びのテストがあったんです。そこで歌丸さんは、本物の盛り蕎麦をとって、堂々とそれを食べて、何にも言わないで「お粗末様」とだけ言って下がっていったんですね。それが面白いっていうんでメンバーになれたんです。それで「金曜夜席」っていうのがスタートして、そこで歌丸さんが小言幸兵衛の役で売り出して、そのキャラがハマったんですね。
— それでのちに「笑点」の司会者になられるわけですね。
K ええ。ずいぶん仲間内との付き合いがあって。例えばこん平さんがお酒でしょっちゅうしくじるんですね。三平師匠の海老名家へ行って騒いだり、おかみさんのことをバカヤローって言ったりして「あんた、クビよ。こないでよ」って言われると、こん平さんが歌丸さんに泣きついて、いつも謝りに行っていたんです。
— そうなんですか。面倒見が良いんですね。
歌丸師匠の助言
K あとこないだ亡くなった六代目(三遊亭)圓楽さんも、「笑点」に入った頃、なかなかキャラがなかったんですよ。そこで生意気、腹黒っていうキャラを作ったのは歌丸さんなんです。ぼくの悪口を言いなさいって。「やるか、ジジイ」とかね。それで売り出したんだけど、あれは歌丸さんのアイデアなんです。
— お優しいんですね。
K そう。二代目の三平さんが入った時も、キャラが立ってないし、うろたえるんですよ。
— 大ベテランの中に入るわけですから余計に、緊張しますしね。
K するといつも歌丸さんが「焦らなくても、一生懸命にやっているうちに、自分の面白さが出てくるよ」って。三平さんはずいぶんその言葉に救われたって言ってましたね。
— 昔と違い、SNSやテレビの投票で、簡単につまらないって言われる時代になってしまいましたから。
K 芸人は蔑視されやすい職業だしね。笑いを作っているので、くだらないって言われると、どうしようもないですしね。例えばぼくも大喜利ではおバカキャラで売ってたけど、本心からバカをやっているわけじゃないんで。
※本稿は、『木久扇の昭和芸能史』(草思社)の一部を再編集したものです。
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