イップスに悩まされた甲子園優勝投手・元氏玲仁の“最初で最後の登板”

1月25日(土)12時0分 文春オンライン

 昨日、32校に春の便りが届いた。92回目を迎える選抜高校野球大会の出場校が決まりいよいよ球春到来。野球シーズンが本格化してきた。過去91回で優勝投手になった選手の中にはプロ野球選手になる者、野球を辞めた者などその後の人生はそれぞれだ。その中で一人“第二の大野豊”を目指して、今月新しいユニホームに袖を通した選手がいる。


「やっぱり野球が大好きなんですよね!」


 昨年10月18日。どん底を味わったかつての甲子園優勝投手は、雨で濡れた髪が輝いてみえるほど心底嬉しそうに初めてのリーグ戦マウンドを振り返った。投手にこだわり続けた男は、6年近くの歳月を経て再び輝きを取り戻した。



どん底を味わったかつての甲子園優勝投手・元氏玲仁 ©市川いずみ


ボールを握ることさえ嫌に……甲子園優勝投手の苦悩


 元氏玲仁という名を皆さんは覚えているだろうか。昨秋まで立命館大の副主将を務めたが、印象深いのは2014年の選抜高校野球大会だろう。高橋奎二(ヤクルト)とともに二枚看板として龍谷大平安(京都)を優勝に導いた左腕である。決勝では高橋の後を受けて3回から登板し、5回1/3を投げて被安打3自責0と見事な投球で履正社を圧倒した。この時はまだ2年生。高橋とともに将来有望投手として期待された。しかし、元氏の快投を見るのはこれが最後だった。選抜優勝後、元氏は長い間ある病に悩まされることになる。


 イップス。思うようにボールが投げられなくなったのは、日本一に輝いた直後だった。春の近畿大会、準決勝。報徳学園(兵庫)との一戦でマウンドに上がった元氏は、目の前に転がってきた打球を一塁へ悪送球。「あれでイップスになりましたね」。何気ないミスに見えるこの一つのプレーで自身の投球を見失ってしまった。この夏も甲子園に出場して登板したもののストライクが入らなかった。「この時の記憶はないですね。淡々と終わっていきました」


 そのあとは何かにすがるようにイップス克服に良いと聞いたことにはどんどんチャレンジしてみた。しかし成績が中学・高校ともにオール5という元氏は真面目過ぎる性格が故、すべてを身に付けようとしたがために余計に頭の中が混乱してしまった。克服できないまま迎えた最後の夏のマウンドは今思い出しても屈辱だという。「マウンドに上がった瞬間に相手ベンチやスタンドから“イップスや!!”って声が飛んできたんです」。自分でもイップスだとわかっていても、その言葉は痛く突き刺さった。そのまま立命館大学に投手として進むも、周囲の反応がさらに気になることになる。


 同期には坂本裕哉(DeNA 2位指名)らがいたが、もちろん彼らにとって元氏は同世代の甲子園のヒーローである。「みんな僕の名前は知っている、元氏どんな人やろって思って入ってきて、いざ投球をみたときに『え?』ってなるんですよ。それがすっごい嫌でした。自分の変なプライドがあったんですよね」。ブルペンにはいるのはもちろん、ボールを握ることさえ嫌になることもあった。そんな元氏に後藤昇監督が外野手転向を提案。2時間ほど話し合い、投手としての可能性に限界を感じていた元氏はこの時はすんなり受け入れたという。


 反対したのは母・久子さんだった。「ほんまにピッチャーやめるん?」。野球少年だった父・真二さんは高校生の頃に怪我をし、投手として満足いく投球ができないまま高校野球を終えていた。それもあって両親は投手として活躍する息子の姿が何よりの喜びであったのだ。しかし、意志が固まっていた元氏は家族の意見に耳を傾けることなく外野手として新たな野球人生を歩むことを決めた。



父親の“ある光景”を目にして「もう一回、ピッチャーやりたい」


 これが最大の転機だった。投手でいるときは坂本など周りの投手が気になってばかりいたが、外野手としては初心者。誰よりも下手という自覚があるため自分の技術を向上させることに夢中で周りと比べては落ち込んでいた自分に別れを告げることができた。「外野をやっているうちにちょっとずつ自分の状況を認めることができるようになって、逆に開き直ることができたんです。そのうちに外野は遠い距離を投げるので、体を大きく使って強く投げられるようになりました」。投げる感覚が戻り本来の野球の楽しさを思い出してきたころ、自宅である光景を目にしたという。


「父親が自室でシャドウピッチングをしていたんです。投手を辞めるといって以降何も言ってこなかったんですけど……その姿を見たらもう一回、親のためにもピッチャーやりたいなという気持ちになりました」


 練習で打撃投手を買って出るなど、打者に対しても投げられるようになっていた。技術はもちろん、「ベンチからは外せない選手」と後藤監督が話すように、元氏は副主将としてチームを引っ張っていたことで心も成長していた。マウンドに立ち続けていた元氏は裏方に徹することでチームメイトも別人と評するほど変わった。「こいつにはこの考え方があってるなとか、人との接し方がみえるようになった。入学した時はツンツンにとがってましたね。触ったら相当危ないくらいに(笑)」


大学4年の最終戦、最初で最後の登板


 ひそかに抱いていた「いつかまた投げたい」という念願は最終学年となった4年の8月、京都トーナメントで叶った。帰省すると父・真二さんから「145キロか、まぁまぁやな。体ひらいとったぞ」。喜びを隠せない表情で愛のあるダメ出しがあったという。そして、大学最後のリーグ戦、最終節の10月18日。8回裏2死の場面で背番号25がマウンドにあがった。「ピッチャー元氏」。アナウンスが聞こえると記者たちはあわててカメラをマウンドにむけた。降りしきる雨の中でのリーグ戦最初で最後の登板。初球は140キロの直球。2球目はなんと自己最速の147キロを計測した。3球目も140キロの直球を投じると、見事に3球で空振り三振を奪ったのだ。小学生の頃から投げていた懐かしのわかさスタジアム京都での登板を終えた元氏は「今は失うものもなくて楽しかったです!」と溌溂と振り返った。スタンドでは傘を差しながら両親が見守っていた。


「ピッチャーをやめてから親と野球の会話が減っていました。母は投手の本を買ってきては手渡し。でも読む気にならず新品のまま本棚に片づけていました。そういうのが嫌な時もありました。でもこの日は帰ると言葉ではなにもなかったですが、雰囲気で喜んでるわってわかりました。口数多かったんで(笑)」


「ピッチャーに背番号25は似合わんなぁ」。龍谷大平安の原田英彦監督からは、いかにも原田監督らしい不器用な文面で復帰を祝うメールが届いた。“人生に野球の心を”。原田監督が高校卒業時にボールにしたためてくれた言葉だ。「永遠のテーマですね。野球でたくさんのことを学んだので、社会人になっても野球から学び、活かしていきたいです」。甲子園優勝からもがき苦しんだ約6年。長いように思える時間も、「遠回りとは思っていない」と言い切った。イップスに悩まされていた自分へ今なら胸をはってこういえる。「何事も思うようにいかなかったりするとモチベーションが上がらないと思う。でもなんで野球を始めて今も続けているのか。結局は野球が大好きやからや。それを途中でいやもうダメやと思うくらいならそれはお前にとってそんなもんやったんやろ。好きなことを好きな場所でできるんやから楽しんでやればいい」。



 長くて暗いトンネルを抜けた22歳は今月、社会人の軟式野球チーム・スリーボンドの寮に入った。さっそく新しいユニホームに身を包み、次の夢に向かって腕を振り続けている。「大野豊さんのように軟式からプロ野球選手になった人もいますし。満足するとそこで終わってしまうので、できるところまでチャレンジします!」。晴れやかな表情の先は視界良好に違いない。


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(市川 いずみ)

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