末井昭「母親は30歳、父親は71歳でろくでもない死に方をした」

1月28日(木)13時0分 婦人公論.jp


愛猫のねず美ちゃん18歳。人間の歳で言えば88歳(写真提供:末井さん)

編集者で作家、そしてサックスプレイヤー、複数の顔を持つ末井昭さんが、72歳の今、コロナ禍中で「死」について考える連載「100歳まで生きてどうするんですか?」。「死」を思うと、脳裏に現れるのは母、義母、父の死にざまで……

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第3回●「きっかけは先物取引大暴落の魂抜け現象。ギャンブルは死の疑似体験だ」

何か恐ろしい光景を見ているようで


人が死ぬということを知ったのは5歳の頃でした。

ぼくが生まれたのは、岡山県の吉永町という所の山奥の村でした。母親は、ぼくが3歳の時に弟を産み、肺結核が悪化して町の病院へ入院しました。父親は板屋という所にあった鉱山へオートバイで通っていて、祖母がぼくと弟の母親代わりをしていました。

母親が入院したあと、今度は祖母が病気になりました。何の病気だったか知りませんが、体が腐っていく病気だとぼくは思い込んでいました。というのは、祖母が寝ている部屋に入ると、ものすごく嫌な臭いがしたからです。それからほどなくして祖母が亡くなりました。

葬式はお祭りのようなので、ウキウキしていました。村中の人たちが集まり、お坊さんが来て葬式を執り行い、棺を担ぐ人や飾り物を持つ人たちが行列を作り、山の中腹にある墓地まで歩きます。

その頃はまだ土葬で、墓地に着くと長方形の大きな穴が掘られていて、みんながその穴を取り囲み、お坊さんの読経の中、棺を穴に下ろします。

それまでウキウキしていたのに、棺に土がかけられていくのを見て、何か恐ろしい光景を見ているようで、それまでのウキウキ気分は吹っ飛んでしまいました。祖母を埋めるという、してはならないことをみんなでしているように思ったのでした。それが「死ぬ」ということだと後から知りました。

それから2年ほどして、退院して家に帰っていた母親が、父親と大喧嘩して家を飛び出し、浮気相手の若い男とダイナマイトを爆発させて心中しました。ダイナマイトは、働いていた鉱山から父親が持って来たものでした。

夜中に目が覚めると足下に母親が立っていた


村のしきたりで、人が死んだら49日の間、夕方になると墓の提灯を灯さなければなりません。母親の墓の提灯を灯しに行くのは僕の役目だったのですが、墓に行くのが恐くて、提灯を灯すと一目散に逃げ帰っていました。墓には霊がいるからです。

母親が死ぬ前か死んだ後かはっきりしないのですが、夜中に目が覚めると足下に母親が立っていたことがありました。何も言わずただじっとぼくを見ているのです。ぼくは母親が帰って来たと思って安心して、そのまま眠ってしまいました。後から考えると夢だったかもしれないし、死ぬ前に一目子どもを見ておこうと、夜中にこっそり帰って来たのかもしれません。死んだ後だったら幽霊です。

幽霊なんて言うと笑われるかもしれませんが、僕が子供の頃は、人が死んでも49日の間は、その霊がお墓や家の近くにいて、49日経つとあの世に行くと言われていました。あの世に行った後は、毎年お盆に帰って来るのですが、この世に未練がある人の霊は、あの世に行けないで家の周りを彷徨っているとも言われていました。

親戚のお爺ちゃんが亡くなった時、その1週間後にその家のお婆ちゃんが亡くなったことがありました。お爺ちゃんが迎えに来たと村のみんなは言っていました。雨がしとしと降り続いていて、その家の周りに霊が漂っているような気配がして、恐かったことを覚えています。

そういう体験を子供の頃にしているので、霊なんかありません、死んだら何もかもなくなっておしまいです、というふうにどうしても考えられません。

かといって、死んだあと霊は本当に残るのか、あの世という世界は本当にあるのかと言われれば、あるのかないのか半信半疑といったところです。しかし、霊とかあの世とかがあると思うほうが、死が豊かになるのではないでしょうか。心中した母親も、好きな男とあの世で楽しく暮らしていると思うと微笑ましくなります。

小学校5年生のとき、父親が再婚


父親は岡山の貧しい村の出身で、若いころ満州に渡り、現地で結婚して男の子をもうけました。満州で徴兵され、終戦で親子3人引き揚げて来る船の中で、奥さんが病気で亡くなります。子どもはまだ小さくて足手まといだったので(←想像ですが)親戚の養子にして、頼まれ仕事をしているうちに母親と知り合い、父親は男手のいない末井家の婿養子になりました。

母親のダイナマイト心中は、父親にとってかなりショックだったと思います。勤めていた鉱山にも行かなくなり、家でごろごろしている頼りない父親になってしまいました。

ぼくが小学校5年生のとき、父親は再婚しました。ぼくはその人をお母さんとなかなか呼べなくて、1年ぐらいはオバサンと呼んでいました。父親より1つ年上の寡黙な人で、自分の過去のことは一切話さず、一人黙々と山仕事をしていました。

父親は雑貨の行商をしたり、町の食堂で働いたりしていましたが、出稼ぎに行ったほうが稼げるということで、川崎の大きな工場で派遣労働者として働くようになりました。僕は高校を卒業して、大阪の工場に就職したのですが、そこの労働環境がひどかったので、逃げるようにして川崎に来て、父親と同じ会社で働いていたことがあります。

父親はしばらくして岡山に帰り、山奥の家は売り払って、町に出て町営住宅を借りて夫婦2人で年金と軍人恩給で暮らしていましたが、いつ頃からか義母がおかしくなり、ぶつぶつ独り言を言ったり、首吊り用の縄を作ったり、ふらふら歩き回ったりするようになりました。夜中に火を燃やしたりするので、父親は義母を病院に入れました。

しばらくすると、父親は寂しくなって、病院に行って義母を引き取ろうとするのですが許可が出ません。仕方なく病院の目を盗んで義母を連れ出し、背負って逃げ帰ったりしていたようです。しばらくすると面倒臭くなって、また病院に入れるというようなことを繰り返していました。

ぼくが何年か振りに父親に会いに行った時、義母は退院していました。しかし治っていないようで、ぼくが持って行った土産の饅頭を「毒が入っとる!」と喚いてぼくにぶつけました。それは、ぼくが義母を母としてではなく、どこか他人を見るような目で見て来たことの報いだったかもしれません。

わざわざ丸を付けて「涙のあと」


それからしばらくして、父親から「ハハキトクスグカエレ」という電報が来ました。義母が入院している病院へ行くと、義母はベッドで苦しそうに唸っていました。意識があるのかないのかわかりません。病室には弟と父親がいて、父親は義母の耳元で「昭がいま帰ったで」とか「一緒に帰ろうな。ハイヤーで帰ろうな」とか「死ぬ時はワシも一緒じゃ」とか大袈裟なことを言っているのですが、それが心から言っているようには思えません。看護婦さんが入ってくると、義母のことはそっちのけで看護婦さんのほうばかり見ています。

ぼくは仕事があったので、そのまま東京に戻りました。それから2、3日して義母は亡くなりました。看取ったのは父親と弟でした。父親に向かって「アホ!」と言ったのが最後の言葉だったと、弟から聞きました。それを聞いて、義母はおかしくなかったのではないかと思ったりしました。

義母の葬儀が終わってから、父親から手紙がよく来るようになりました。寂しいから岡山に帰って来いという手紙で、最後に必ずお金がないから送ってくれと書いていました。手紙の一部に滲んでいるところがあって、そこにわざわざ丸を付けて「涙のあと」と書いていました。同情を引こうとしているのかもしれませんが、60半ばの男が書く事ではありません。

弟は高校を卒業すると、某大手カツラメーカーに就職して大阪に住んでいました。

ある朝、弟がテレビを見ていたら、父親の顔がアップで映ったのでびっくりしたそうです。それは岸部シローの「ルックルックこんにちは」という朝のワイドショー番組で、父親と一緒に出ていたのはカツラを被ったお婆さんで(弟はカツラ屋だったのでカツラをすぐ見破ります)、下を向いてもじもじしていたそうです。視聴者の望みを叶えるというコーナーだったらしく、テレビを見ているはずのお婆さんの娘さんに向かって、この人と付き合うことを許して欲しい、家が遠いのでうちに泊まることを許して欲しいと、父親は訴えていたそうです。

そのあとレギュラー出演者の竹村健一氏が娘さんに電話をして、「末井さんは何もこの人と結婚しようという訳やないんやからね、付き合うだけと言うてんやから、許してあげてもええでしょう?」と言うと、娘さんは一言「やっちもねぇ〜」(岡山弁で「馬鹿馬鹿しい」ということ)と言ったので、弟はズッコケたそうです。竹村氏が「いやいや、老いたりといえど、私は素晴らしいと思いますよ。私は応援しますよ」と言うと、「恥ずかしいわ、ええ年こいて!」と言って、娘さんはガチャンと電話を切ってしまったので、スタジオがしばらくシーンとなったそうです。

馬鹿っぽい死に方が、何だか父親らしい


父親はテレビに出たくて仕方がなかったようで、「NHKのど自慢」に何回も応募して、やっと出られるようになったという手紙が来ていました。その手紙が来てすぐ、伯母さん(父親の妹)から電話があり、父親が亡くなったことを知らされました。

父親が暮らしていた町営住宅に行くと、近くに住んでいる伯母さんと数名の人が集まっていました。父親はどこにいるのか伯母さんに聞くと、台所のほうを指差します。行ってみると、父親の死体が風呂場の前に真っ裸で転がっていました。手足を曲げて風呂に入ったままの状態で固まっていて、それが年老いた赤ちゃんのようでした。

ぼくは浴衣を探して着せましたが、伯母さんたちはそういうことにまったく無関心で、葬儀はいくらかかるのかとか、貯金はなかったのかとか、お金の話ばかりしていました。
町営住宅は平屋建ての長屋形式で、一棟に4世帯が住んでいます。父親が住んでいた部屋の隣の奥さんが、前日の夜「浪曲子守唄」を歌っている父親の声が聞こえたと言っていました。「NHKのど自慢」の予選が通ったので、練習を兼ねて風呂の中で歌っていたのではないかと思います。「浪曲子守唄」は浪曲調の歌で、喉から絞り出すような声で歌うと上手く聴こえるのでついつい気張ってしまい、心臓麻痺か何かでポックリ逝ったのかもしれません。

次の日、ときどき訪ねてくれる民生委員の方(ぼくが小学生の時の担任の先生)が、応答がないので不審に思って入ってみたら、風呂の中で死んでいたそうです。能天気で、間抜けで、馬鹿っぽい死に方が、何だか父親らしいと思ったりしました。

裏切った父親は、地獄に堕ちるだろう


次の日、葬儀屋さんを呼んで葬式の打ち合わせをしました。葬儀の日取りを決めたあと「それで、いくらぐらいかかるんですか?」と聞くと、「ええがな、金のこたぁ」と言います。なんだか良心的な葬儀屋さんだなあと思ったのですが、親戚がいないところで「せぇで、予算はなんぼ?」と聞きます。親戚がいたからお金の話をしなかっただけでした。葬儀料金は50万円、60万円、70万円の3コースがあると言うので、70万円のコースを頼むと葬儀屋さんは急にニコニコして、霊柩車はキャデラックにしますと言いました。

次の日葬儀屋さんたちが来て、ボロボロの町営住宅には不釣り合いなデコレーションをほどこし始めました。お地蔵さんが立ち、小さな水車が回り、その周りが花で飾られました。それを見ていた伯母さんたちは、不安そうな顔をしていました。費用を負担させられると思っていたようなので、「葬儀費用は、ぼくが出します」と言うと安心したようでした。

葬儀の日、近所の人が集まり、東京から会社の人たちも来てくれました。泣いている人は誰もいなかったのですが、1人だけ泣いているお婆さんがいました。弟が「あれ、テレビに出てたお婆さんやで」と言いました。あの「ルックルックこんにちは」に父親と出て、娘さんに「ええ年こいて!」と言われたお婆さんです。お婆さんが来てくれたことが、せめてものはなむけになりました。

葬儀が終わってそのお婆さんが、2人の貯金通帳があるはずだと言います。2人で旅行に行こうと、毎月2,500円ずつ出し合って、それを父親が貯金していたそうです。探してみると、その貯金通帳が出て来ましたが、残金はゼロでした。父親が降ろして全部使っていたようです。その通帳をお婆さんに見せると、とてもガッカリした様子でした。自分のために涙を流してくれるお婆さんまで裏切った父親は、地獄に堕ちるだろうと弟と話していました。

こうして母親は30歳で、義母は68歳で、父親は71歳でろくでもない死に方をしました。そしてぼくは72歳になりました。ぼくはどんな死に方をするのでしょうか。

※次回配信は2月11日(木)の予定です

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