24時間マラソントレーナー・坂本雄次「45歳で東京電力を退職後、妻・節子とふたりきりで起業を。事務所の2階に寝泊まりして過ごした日々、ふたりのモチベーションになったのは…」
2025年1月30日(木)12時30分 婦人公論.jp
(写真:『天国ゆきのラブレター』より)
24時間マラソンで数々の有名人走者をトレーニングし、伴走する姿でおなじみの坂本雄次さん。坂本さんは100kmの”ウルトラマラソン”を各地でプロデュースした、市民マラソン界のレジェンドでもあります。その坂本さんを61年間支えてきたのが奥様の節子さん。2024年3月に亡くなられましたが、各地の大会では参加者をサポートする節子さんに勇気づけられる人も多かったそう。今回その坂本さんが奥様との関係を記した著書『天国ゆきのラブレター』より、ランニング企画・運営専門会社「ランナーズ・ウェルネス」社を起業したときの話題をご紹介します。
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ふたりきりでの起業
45歳で東京電力を辞めた私は、ランニングで社会に貢献する事業を始めようと考えた。
当時、全国各地で数多くの市民マラソン大会が行われていたが、そのほとんどが地元の自治体が主催するものだった。
大会の内容を考えるのは、市や県の教育委員会や地元の陸上競技協会、そして役所の企画課などだった。マラソン大会の企画や開催のプロデュースをする事業はほとんどなかった。
起業にあたり、これまで雑誌に寄稿する側としてつきあっていた、ランニング専門誌を発行する会社の社長と編集長にも、事業展開について相談に行った。彼らの会社はランニング大会の運営も手がけていたので、競合は避けたかった。
彼らからのアドバイスは、まだ国内ではあまり開催されていないウルトラマラソンのプロデュースを手がけてみては、というものだった。そして、私たちの起業に快く賛意と応援の意を示してくれた。
私が考えた「起業理念」
「起業」とは私の中では、世の中にまったく前例のない事業を起こすことだと思っている。93年、私が起業するときに考えた「起業理念」がある。その要旨は、
『天国ゆきのラブレター』(著:坂本雄次/主婦の友社)
一 ランニングを通じて地域活動の活発化を図ること。
二 ランニングスポーツの持つ特性を普及・啓蒙し、その効用を生かして健康の涵養(かんよう)を図ること。
三 長距離走を愛好する人たちの人間性の向上に資する活動を展開すること。
「高邁(こうまい)な理念を掲げたもんだ……」とも思う。
まだ若く、未熟さゆえの起業理念だったが、それでも、その後三十余年、さまざまな形で取り組んだ事業活動において、この理念は軸ぶれすることなく完走できたのではないか、と思っている。
ふたりきりでの起業
93年7月14日、株式会社ランナーズ・ウェルネスの法人登記を完了した。社長の私と副社長の節子、ふたりだけの会社だ。社名については、さんざん考えた。
ランニングやスポーツ愛好者なら、必ず一度や二度は経験したことがあるだろうし、経験はなくても、全力で走ったあとに、競技場のフィールドなどに倒れ込むアスリートを見たことはあるだろう。
アスリートが全力を出しきったあとに得られる”やりきった感や達成感”その瞬間に味わう「至福感」が「ウェルネス」。スポーツ(ランニング)を通じて味わうウェルネスという意味から、社名をランナーズ・ウェルネス(ランナーたちに至福を提供する)としたのである。
シンボルマークはギリシャ神話からとって”ケンタウルス”にした。神話上は友人の妻を奪ってしまうような神なのだが、走る速さは疾風のごとく、だそうで”走り”にはこれでもいいかな、と思ったのだ。
まったくあてのない起業、ここからがふたりの奮闘のスタートだった。
いつかはしっかりした会社に
まずは営業活動から始めた。
といっても何の手がかりもない。とにかく私がやろうとしている事業(新規マラソン大会の開催、プロデュース)の内容を、相手(企業)に知ってもらうための企画書づくりから始めた。
企画書づくりには、世の中の動向や社会情勢、政治動向などの知識が必要だ。
インターネットなどの情報収集ツールのない時代、活字情報に頼るしかなく、3大新聞、経済新聞、日経MJ(流通新聞)を徹底的に読み込んだ。あとは東京に営業に行くときの東海道線車内にある中吊り広告、テレビのニュースだけが情報のすべてだった。
そして片っ端から企業回りをした。ターゲットはスポーツメーカーや栄養補助食品を扱うメーカー。いずれも新製品を発売するときには大々的な宣伝活動や販売促進活動を展開するから、自分たちが開催しようとしている大会に協賛してもらおう、という魂胆だ。
市場としては市民ランニングがムーブメントを起こし始めていたから、タイミングがうまく合致すれば、協賛についてくれるメーカーもあった。
とにかく起業してからの7〜8年は、こういった企業協賛の獲得活動と新規開催の大会づくりに没頭したのである。
毎朝9時過ぎには大磯から都内に向けて出かけ、営業活動を終えて事務所に戻ってくるのは夜の9時か10時ごろ。それから事務所で待っていた節子と合流し、留守中の出来事を聞きながら遅い夕食をとる。
ひと息ついたらシャワーを浴びるか風呂に入り、それからまた翌日の企画書づくり。最初の4年間は自宅に戻って休むことはなく、事務所の2階に寝泊まりして過ごすほどだった。
いつかはしっかりした会社にしよう……という一念だけが、ふたりのモチベーションだった。
※本稿は、『天国ゆきのラブレター』(主婦の友社)の一部を再編集したものです。