松方弘樹さんが生前語っていた消えゆく時代劇への思い

1月30日(月)7時0分 NEWSポストセブン

時代劇への思いは人一倍だった

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 松方弘樹(享年74)といえばさまざまな「ヤンチャ伝説」で知られる「豪快な映画スター」というのが、多くの方のイメージかもしれない。だが、その役者人生は決して平坦ではなかった。時代劇研究家の春日太一氏が、本人へのインタビューを追いながら、その波乱万丈な道のりを振り返った。


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 そもそも、松方は剣豪スター・近衛十四郎を父にもつものの、役者ではなく歌手を志望していた。


「高校二年生の時にウチの父親と東映の契約更改の時に『学生服を着てお前も来い』と言われてね。それで行ったら東映の大川博社長が『君、映画に出ないか』っていうことになって。ようは社長に会わすために僕を呼んだわけです。父親と母親には『歌を歌うにしても感情表現が必要だから、映画を一本ぐらいやっておいてもいいんじゃないか』って。詭弁なんですけど。


 そんないきさつだから映画を続けるつもりはありませんでした。でも、歌手になりたくても、なかなか方向転換が上手くいかないの。というのも、当時は東映と第二東映というのがあって、それで週に二本ずつ映画を撮らないといけない。月に十六本ですよ。そうすると、それだけ主役が要るわけですよ。しかも、それ以前に波多伸二さんという俳優がいらして、主役もしていたのですが、単車の事故で亡くなってしまったんです。


 第二東映には高倉健さん、水木襄さん、梅宮辰夫さん、千葉真一さんがいて、健さんが美空ひばりさんの相手役として少しランクアップすることになったので、『もっと若手を』ということで僕が入った。補欠の補欠みたいなもんでしたが、それでも主役をやらせてもらってね。それで次から次へ作品が来ているうちに歌と疎遠になってしまったんです」


 その後、松方は東映京都撮影所の専属俳優となり、同じく二世としてデビューした北大路欣也とのコンビで時代劇のホープとして売り出される。が、折り悪く、その時期は時代劇映画に全く客が入らなくなっていた。


「正月作品で時代劇の鬘を被ったんです。そしたら似合うというので、十八歳の時に太秦に引っ張りこまれました。当時は欣也と二人で売り出されました。あいつは『東映のプリンス』、僕は『東映の暴れん坊』ということでね。でも客は全く入らなかった。


 当時は台本を覚えるので精一杯でした。五冊くらい抱えているわけだから。顔は同じままで衣装の鬘だけ変えて朝昼晩と一日三班、違う現場を回りました。ですから芝居の勉強というより即実践でした。その代わり現場で下手を打ってばかりいて、僕だけ最後までよく残されていましたよ」


◆「サウスポー剣法」から「二刀流」へ


 松方は晩年まで華麗な立ち回りを見せていたが、その技術は京都での若手時代に身につけている。


「立ち回りは昼休み、夕方休みに飯を二十分で食べたら東映剣会(※殺陣師と立ち回りの斬られ役が所属する東映京都の技術者集団)の方が五、六人待っていてくれて、一緒に稽古をしてくれました。


 最初の頃は『サウスポー剣法』っていうのをやっていました。僕は左利きなんで、右手で立ち回りができなかったんです。それで毎日、右手で稽古をしていました。その代わり、今は二刀流が楽にできるんですよ」


 一九六〇年代半ば、東映は不振に喘ぐ時代劇を諦め、任侠映画をメインの路線に据える。時代劇の頃は主役が多かった松方弘樹だったが、この時期は脇に回ることが多くなった。そして、一九六九年には大映に移籍。早逝したスター・市川雷蔵の穴埋めを期待された松方は、『眠狂四郎』『若親分』といった雷蔵の当たり役を演じている。


「大映にはレンタルという形でした。東映じゃあ、うだつが上がらないんですよ。上がつかえているから。役も二番手ならまだいいけど、その辺の役は待田京介さんとかがもらっていましたから、その上には行けなかった。それで、東映の岡田茂さんが『ちょっと大映に行ってこい。あそこはスターがいないから、主役を取れるぞ』と。大映だったら主役は勝(新太郎)オーナーしかいませんから、京都には。ですから、喜んでレンタルで行きました」


 だが、大映も七一年に倒産、時を前後して東映に戻ると、そこでは他社から移籍してきた菅原文太らがスターになっていて、松方は後塵を拝することになる。


「で、またうだつが上がらなくて。それでも平気でした。人生をそんな真剣に考えていませんもの」


 それでも、七三年に始まる『仁義なき戦い』シリーズなどで文太の脇役として強烈な印象を残したり、七四年のNHK大河ドラマ『勝海舟』で病気降板した渡哲也の代役を務めるなどして脚光を浴び、ようやく主演スターとして名を連ねるようになる。


 そして八〇年代以降、高倉健、菅原文太、北大路欣也、渡瀬恒彦といった東映を支えたスターたちがやくざ映画から離れる中にあっても、松方は時代に抗って、ただ一人でアウトロー映画の孤塁を守り続けた。


 晩年は時代劇の良き時代を知る継承者として、培ってきた芝居や殺陣で若い俳優たちを圧倒すると同時に、インタビューを通して現状に警鐘を鳴らしていた。


「昔の映画の所作事が素晴らしいのは、時間をかけているからです。時間というのはお金です。お金があったらもっと画はよく撮れます。僕らの若い時はテストを二十回やってくれましたが、今は一回か二回ですから。それでは上手くなりません。今の映像は金がないのが全てです。俳優が悪いんじゃない。体制が悪すぎる。悲しいです。いい時代を見ているだけに、今のテレビドラマや映画の現場に行くと、悲しい」


 真摯に、誠実に、そして熱く。役者という仕事と映画・時代劇に真っ直ぐに向き合い続けた生涯だった。


※週刊ポスト2017年2月10日号

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