酒井順子「コロナ後もたまに社交断食してみてもいいかも?」
2月3日(水)19時0分 婦人公論.jp
エッセイストの酒井順子さん(撮影:本社写真部)
緊急事態宣言が延長され、ステイ・ホームを強いられる毎日。「人と雑談がしたい」「大きな声で話しながら食事がしたい」というストレスに苛まれる人も多いはず。作家・エッセイストの酒井順子さんは意外にもこの生活が性に合ったようで……。
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むしろホッとする感じ
コロナ時代が始まって、まもなく一年。ステイホームが推奨される中で、そのことを苦痛に感じる人と、そうでもないがいるようです。
おそらく前者は、心身ともに動きを止めずにはいられない、活発なタイプ。後者はその反対のタイプということになりましょう。
そして自分はと見てみると、どうやら後者のようなのです。東京都民は、
「ステイホーム!」
と百合子(小池です)に号令をかけられたわけですが、私の場合はもともとが居職ですので、号令後も状況が大きく変化したわけではありません。在宅勤務となった会社員の友人達のように、
「人と雑談がしたい」
「オンとオフの切り替えができなくてつらい」
といった感覚も、ありませんでした。
会食や打ち合わせ、出張などはどんどん中止となりましたが、それも嫌ではなく、むしろホッとする感じ。空いた時間は、「愛の不時着」など視聴したり、ハーブの鉢植えを買ってみたりと、「コロナあるある」にまんまとはまっていったのです。
イメージ(写真提供:写真AC)
私、無理をしてきた?
そんな中で思ったのは、
「どうやら私は、今までだいぶ無理をしていたようだ」
ということでした。元々、さほど明るくもなければ社交的でもない性質。若き日に、「これでいいのか」と、自らの鍛錬のために頑張って社交をするようにしたんだっけ。‥‥と、思い出したのです。
ですからコロナ時代となって正々堂々と家にいられるとなって感じたのは、くびきが外れたような気持ちでした。活発な人にとっては、「ステイホーム!」との指示こそがくびきに感じられたかと思いますが、そうでない人にとっては、従来の「コミュニケーションが活発な人ほど、充実した人生を送ることができる」という規範が、くびきだったのです。
その手のタイプの一人である私は、ステイホーム時代となって、何十年かぶりに肩の荷を下ろしたような気分に。もちろん、それが続けば人に会いたくもなってきましたが、「コロナ後も一年に一ヶ月くらいは、社交断食してみてもいいかも?」と思ったのです。
イメージ(写真提供:写真AC)
「小学生時代に戻ったみたい‥‥」
そんな日々の中で一つ浮上したのは、運動不足の問題でした。私の場合、精神的には静寂を好むのに対して運動は大好きという、心と身体が正反対にねじれているタイプ。コロナ前はジムやスポーツ教室に通っていましたが、それがままならなくなってしまいました。
当初は、youtubeでの宅トレにはまります。「ジムに行かなくても十分楽しい!」と大いに楽しんだのですが、悲しいかな人は飽きる生き物なのであり、次第に遠ざかるように。
そこでたどり着いたのが、近所の広めの公園で近所の友達と行う、バドミントンやバレーボールでした。学生時代の体育の時間でしたのが最後だったその手のスポーツに手を出してみたら、意外に楽しい。友人も、
「子育てをしてた頃以来かも!」
と、公園を走り回って汗をかいています。シャトルやボールを追って屋外で空を見上げることの気持ち良さを久しぶりに思い出した我々は、お腹が空いたらその辺に座り込んでランチ。運動後のコロッケパンは美味しくて、
「小学生時代に戻ったみたい‥‥」
と、思ったことでした。
食べ物の誤飲でむせることが多く
二回目の非常事態宣言となってからもう一つ、私がはまったのは、「朗読」です。コロナ以前から、「どうも私は、他人と比べて発声頻度が少ないのではないか?」という気はしていたのです。同居人との会話はあるものの、朝晩の挨拶や「暑い」「寒い」といった程度で、談論風発とはいかない。仕事中は一人なので誰とも話しませんし、よほどの緊急事態でないと電話をかけてくる人もいない。
気がつけば、食べ物の誤飲でむせることが多くなっているような? これは喋らなすぎて喉の筋肉が弱っているからでは? ‥‥と思っている時にコロナがやってきて人と会う機会が減ったので、さらに発声頻度が減少したではありませんか。
「これはいかん」と、最初の緊急事態宣言の時はカラオケアプリを利用し、一人の時に熱唱してみました。「香水」も「Pretender」も、歌えるようになった。
しかしここで、私はまたもや飽きてしまったのです。カラオケってやはり、一人で朗々と歌い上げるよりも、誰かと聞かせっこするから楽しいのかも、と。
「それってもう、おばあちゃんじゃん!」
そんな中で朝、新聞を読んでいる時にふと思ったのが、「声を出して読んでみるか」ということでした。
試しに一面を読んでみると、やけに楽しいではありませんか。最初はもっちゃりした声だったのが、「口を大きく開けてみよう」とか「もっと声を張って」とか思っているうちに、少しハキハキしてきたような。
読み上げる記事は、普段であれば読み飛ばすような、自分の興味の無い記事にしてみました。すると、株価の話やら大相撲の話も「へーえ、そういうことなんだ」と、よくわかる。
味をしめた私は、一人でいる時に、色々なものを読み上げてみたのです。小説を読む時は、感情を込めて女優風に。新聞チラシは、テレビショッピングの司会者風に。
そんなことをしていると、ふと我に返って「いとものぐるほし」などと思うのですが、誰も見ていないので気にしない。そこで思い出したのは、
「そういえば子供の頃、朗読が好きだったっけ」
ということでした。
国語の授業は得意ではなく、というよりむしろ嫌いだったけれど、朗読だけは好きだった。「主人公の気持ちを考える」とか「漢字を覚える」といった作業とは異なり、声に出して読むということがスポーツのように感じられたからではないのか。
‥‥などと思い返していると、朗読もまた私にとっては、子供還りの一種。
「そんなわけでさ、最近は朗読せずにいられないのよね」
とバドミントン中に友人に語っていたら、
「それってもう、おばあちゃんじゃん!」
と彼女。
「うちの祖母も、よく一人で声出して新聞読んでたもん。あなたも注意しなさいよ〜」
と言われると、御説ごもっとも。子供還りとは高齢者ライフの先取りなのかもしれず、くれぐれも誰かがいる時、声高らかに朗読を始めないように、気をつけようと思っている次第です。
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●酒井順子/作家・エッセイスト
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。現在、大手小町で中華愛を綴るエッセイ「ずっと中華が好きだった」を連載中