笛田博昭「高校2年の音楽の授業でオペラを見て感動、歌劇の道へ。ピアノを弾けず、歌うだけでOKの推薦枠で音大へ進み、首席で卒業し」

2025年2月10日(月)12時30分 婦人公論.jp


「子供の頃は、少年野球、水泳、それに越後湯沢で生まれ育ちましたから冬はスキー。スポーツ少年でした」(撮影:岡本隆史)

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第36回はテノール歌手の笛田博昭さん。今では歌劇の名優と言える笛田さんだが、オペラとの出会いは高校2年の時。そこから、翌年にコンクール優勝、音大合格と快進撃は続き——。(撮影:岡本隆史)

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流行歌ではなくオペラを口ずさむ少年


たとえば『カルメン』(ビゼー)の竜騎兵伍長のドン・ホセが、野性的で奔放なカルメンに自らの心情を訴えて切々と歌うアリア「花の歌」。また、『ラ・ボエーム』(プッチーニ)ではパリの屋根裏部屋で、詩人のロドルフォがろうそくの火を借りにきたミミの手に思わず触れて歌う「冷たい手を」。そして最も有名なオペラ『椿姫』(ヴェルディ)の終幕では、瀕死の恋人ヴィオレッタを抱き寄せて青年アルフレードが歌う「パリを離れて」。

テノール歌手の笛田博昭さんは「歌劇」の名優と言える。説明的な演技はしないで、ひたすらまっすぐに伸びてくる歌声に客席は心地よく射抜かれて、じんわりと涙ぐんでいたりする。この陶酔は台詞劇ではまず得られない。

でも、笛田さんのオペラとの出会いはかなり遅くて、高校2年の時、音楽の時間だとか。

——そうなんです。子供の頃は、少年野球、水泳、それに越後湯沢で生まれ育ちましたから冬はスキー。スポーツ少年でした。とはいえ、うちはロッジを経営していたので、冬になると毎日必ず有線が流れてて。

で、いろんな曲が流れるんだけど、僕はなぜか『トラヴィアータ』(『椿姫』)の「乾杯の歌」を自然に覚えて、小学校4年生くらいの時にそれを口ずさんでた。母親か誰かがそれを撮った映像があるんですよ。流行歌とかも流れてたのに、やっぱりオペラが心に響いたんですね。

それからずっとたって、高校2年の音楽の授業で、先生がオペラ『トゥーランドット』(プッチーニ)のレーザーディスクを見せてくれたんです。パヴァロッティのカラフ王子が有名なアリア「誰も寝てはならぬ」を歌うところで、打ち震えましたね。あの衝撃はすごかった。とにかく感動して、いつか自分もこうなりたい、って(笑)。

それですぐにCDを買って、その日から真似。でも音域が高すぎて、そう簡単に出るもんじゃない。もうちょっとやさしいものからというので、「オー・ソレ・ミオ」とか「カタリ・カタリ」を歌ってました。

どうやらそのパヴァロッティの衝撃が第1の転機らしい。そして翌年にはもう地元の新聞社、新潟日報社主催の歌曲コンクールの高校生部門に出場して、なんと、優勝してしまう。

——コンクールを受ける人たちって、大体、審査員のお弟子さんとか、何かつながりがあるんですよ。僕は何のつながりもなかったんで、誰だあいつ、みたいな感じ(笑)。

高校の音楽の先生も、何十人も受けて本選に行けるのは3人なんで、そこまで行ければいいね、って言ってました。課題曲は「ニーナ」……♪トゥレ ジョール ニ ソン ケ ニーナ、っていうのと、自由曲に「カタリ・カタリ」。

結果は一位でした。それが高3の7月で、そこから音楽大学へ行こうと思っても、ピアノは弾けないし、ソルフェージュ(音感レッスン)なんかもできないし。

でもどこの音大も受験科目にピアノの試験がある。浪人するのはいやだしな……と思ってたら、名古屋芸術大学は推薦枠があって、面接と実技、つまり歌うだけでOKだった。ここしかないと思って受けましたね。

その名古屋芸大を首席で卒業。さらに同大学大学院へ進むが、大学在学中にはまた素晴らしい出会いがあった。

——オペラ歌手になりたいと思って入ったのに、なぜかオペラ科じゃなく声楽科に。そこで第2の転機となる恩師の中島基晴先生に出会ったんです。

その頃の僕は、どっちかというとバリトンだったけど、テノールになりたいです、って言ったら、最初に渡されたのがオペラ『アドリアーナ・ルクヴルール』(チレア)のマウリーツィオのアリア「君の優しく微笑む姿に」でした。

それですぐにCD買って勉強して。でもCDだとその人の癖があって譜面と違ったりすることもあるんで、譜面見て、ピアノを片手でポンポンとやって(笑)、確かめたりしてね。

中島先生はもともとオペラ歌手だったけど、かなり小柄な方だったんで、成功は難しいかなとお考えになったのかどうか、30代くらいからもう名古屋芸大で教えていらっしゃいました。

僕はまともなレッスンというのを大学に入って初めて受けたんですけど、先生がこう、♪ララララーとか♪アアアアーとか歌って、ほら行け、そら行け、っていうのに素直に従ったら、先生の乗せ方も上手なせいか、もう2回目のレッスンくらいからハイC(チェー)が出ましたからね。僕、素直なんですよ、今でも。(笑)


筆者の関容子さん(左)と

人の背丈は声帯の長さに比例するとかで、声帯が短いテノールは比較的小柄な人が多いようだが、笛田さんは身長180センチの堂々たる体躯。

——今はそれでも僕くらいの身長のテノールもいっぱいいますけど、まぁホセ・カレーラスとかは小柄ですね。

それで一概にテノールと言っても、声の質が重い軽い、暗い明るい、といろんな要素があるんです。パヴァロッティは明るくて軽い、リリコ・レッジェーロ。カレーラスはリリコ、ドミンゴは少し重くて、ドラマティコですかね。

僕はドミンゴに一番近くてドラマティコなんですが、割と声が柔らかいのでリリコ・スピント(リリコより力強い)のものもレパートリーです。

笛田さんの本格オペラデビューは25歳の時、演目は因縁のあの『トゥーランドット』だった。

——大学院を卒業した次の年です。大学の特別公演ですけど、今考えるとすごいですね。愛知県芸術劇場って、2400名くらい入る大ホールで、装置も衣装もちゃんとつけて本格的にやりましたから。

その後、27歳の時に、藤原歌劇団から電話があって、「今度『ラ・ボエーム』をやるんで声を聴かせてください」と。

その時は、「いや、僕のレパートリーじゃないんで……」って断ったら、しばらくしてまた電話があり、「オーディションやったけど決まらなかったんで、ちょっと声だけ聴かせてください」って。それで中島先生に相談したら、「じゃあ聴かせてあげなさい」って。(笑)

僕は名古屋の居心地がよくて、卒業してもずっと名古屋にいましたから、藤原歌劇団という名前も知らないほど無知でした。

それからずっと、現在も「藤原」に属していますけど、藤原義江というかっこいいテノールが戦後、日本のオペラ界を牽引した人だということも知らなかったほどなんです。藤原歌劇団での僕のデビューは、その時の『ラ・ボエーム』ロドルフォでした。

<後編につづく>

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