月100万稼いだキャバ嬢 憧れの海外暮らしで一気に転落

2月15日(水)16時0分 NEWSポストセブン

月収100万円からの転落生活を45才女性が告白

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 どんなに辛いことがあっても、私は負けない──。そんな強い意志を持った林希美恵さん(仮名・神奈川県・45才)が、自らの半生を告白する。


〈本稿は、「自らの半生を見つめ直し、それを書き記すことによって俯瞰して、自らの不幸を乗り越える一助としたい」という一般のかたから寄せられた手記を、原文にできる限り忠実に再現いたしました〉


 * * *

 待ち合わせの駅の改札で、男が私に向かって、会釈ともいえない微かすかな首の動きをし、距離を縮めたら、1時間半で手取り8000円が決定。


 足を止めて男が携帯を取り出したら、1000円にしかならず、交通費をさし引いたら百円玉がいくつかしか残りません。


「う〜ん、ちょっと違うんだけど」


 男は携帯で、別の女に変えてくれと、事務所に「チェンジ」を要求しているのです。


 私の仕事はデリヘル。デリバリーヘルスの略で、男の住まいやホテルで性的なサービスをしています。始めたのは12年前。33才のときでした。なぜ? それをこれから話します。


◆キャバクラで「小林麻美似」とチヤホヤされ月100万円


 バブル──この3文字を聞いただけで切ないような、まぶしいような──私が地元の商業高校を卒業した1990年はその真っ最中でした。


 成績のいいマジメな子は大学に行ったり、高卒で銀行や証券に勤める子もいたけど、私にはムリ。高校時代、友達と繁華街で遊んでいると、「うちの店に顔を出してくれたら、1時間3000円あげるよ」と、まあ、スカウトですよね。店のマネジャーに「きみ、小林麻美に似ているね」と言われ、それからは毎日がお祭り。週3日で、月のバイト料が30万円から60万円になり、3か月目には100万円。「麻美ちゃん」の私を目当てに、オジさんたちが指名合戦をし始めたんです。


 父親は夕方出ていく私に、「今に後悔するぞ」と顔を曇らせていましたが、母親は「好きにすれば」と言ったかどうか。総合病院の看護師で忙しく、私のすることに口をはさみませんでした。


 あの頃の興味は、お金と海外旅行。キャバクラは「月、100万円あげる」という「パパ」が現れたので、あっさり辞めて、そのとき遊びに行ったのがハワイ。初めての海外旅行でした。空も海も、食べ物も車も、目に映るものすべてがおとぎの国のよう。


「パパ」はその後、失踪して行方知れずになりましたが、そんな人は、夜の街にいくらでもいたのです。


 そうなったら、またキャバクラで働けばいいだけ。ちょっとお金がたまると、ハワイやフィジー、ニューヨークを自由気ままなひとり旅です。それが夜の街の流行りというか、私のようなキャバ嬢ってけっこういたんですよ。


◆憧れの海外暮らしで待ち受けていたのは貧困と労働



 のちに結婚することになる中国系アメリカ人のチャンと出会ったのは、アメリカを旅していたときです。駅で電車を待っていたら話しかけてきて、「食事をしよう」「車を借りるから一緒に旅をしよう」と、猛アプローチしてきました。


 結局、1週間べったりと過ごすことになったのですが、それだけではすみません。一度帰国してキャバクラ勤めに戻った私に、「日本は夜でしょ? どこに行っていたの?」と、毎晩電話をかけてきました。


 チャンを好きになった、というよりは海外の暮らしに憧れて、半年後にロサンゼルスに渡り、結婚しました。ウエディングドレスは着なかったけど、両親と兄が渡米して、みんなで食事したのが1994年。まだバブルの泡は、虹色に輝いていました。


 だから、結婚して驚いたのは、車のディーラーをしていた1つ年下のチャンの経済力のなさでした。「お米がきれたから、50ドルほしい」と手を出すと、「今日はない」と言われることがたびたびなのです。


 翌年と、その2年後、日本で里帰り出産をする私に、チャンはとうとう1ドルもくれませんでした。それだけじゃありません。出産して3か月後に戻ってみるとアメリカは日本食ブーム。寿司店、和食店などいつも募集がありました。


「子供は預かるから」とチャンの母親は、私に募集の紙を見せるのです。結局、朝から深夜まで働いて、家計費は私がほとんど出すことになりました。それでもまだ、私はアメリカの一面しか知らなかったのです。


◆高熱なのに莫大な治療費を払えず、病院に行けない


 渡米して10年が経ったときのこと。寒気がして熱を測ったら39度近い。春先に風邪? と仕事を休んでベッドに入ったものの、なかなか熱が引きません。


 症状が治まるのを待って、仕事に出るとまた高熱が出る。それを見てチャンは、「オーケー?」と心配そうに顔を覗き込むだけ。夜中に歯の根が合わないほど震えがきても、「病院に行こう」とは言いません。


 その時になって初めて、「小さな家族保険しか入っていないから、カバーできない」と言い出したのです。つまり、私が病院にかかると莫大な医療費がかかるから、診察は不可能ということ。


「気分が変われば、病気もよくなるよ。食事に行こうよ」


 チャンは私をランチに連れ出しましたが、そのときの不安といったら。明るい陽射しの西海岸の道を歩きながら、私は初めて日本が恋しくてどうしようもなくなりました。


◆腎盂腎炎で人工透析一歩手前の身に離婚を突きつけた夫



 日本で診察を受けると、医師は「なぜここまで悪化させたんですか?」と顔を曇らせました。悪化した腎盂腎炎で人工透析の一歩手前の状態だったそうです。


 親元に身を寄せて、治療が始まりました。アメリカから持ってきたお金はすぐに底をつき、何かと援助してくれていた親は、わけあって離婚。とうとう生活保護を受けながらの治療になりました。無料の治療費がどれだけありがたかったか。


 日本でしっかり治療に専念してからアメリカに帰る。電話でチャンにそう伝えると、「う〜ん」といい返事をしません。


 だけどまさか一方的に離婚をつきつけられるとは…。カリフォルニア州では、半年間の別居で離婚が成立するのは知っていましたが、このタイミングで? と思うと、返す言葉が見つかりません。


 実は、すでに新しい女性がいたのです。


「だってきみは帰ってこられるかどうか、わからないじゃないか」


 これが夫の言うことでしょうか。そっちがその気なら争おうかとも思ったけれど、仕事も貯金もなく、私にあるのは病気だけ。弁護士費用などを考えると、勝ち目はありません。


 ただ気がかりなのは子供のこと。病身の体を引きずるように渡米すると、子供は「日本語が話せないからアメリカに住みたい」と言います。だけど、病身の私が子供2人を引き取りアメリカで暮らすのは不可能です。


 子供は夫がアメリカで育て、私は日本から教育費と養育費を送れば、「子供たちに会わせてやるよ」というのがチャンの言い分。


 中国系アメリカ人だから、とは言いませんが、これほどひどい条件を突きつける日本の男もそういないはずです。


 離婚して帰国した私は、翌月から、2人の子供に月々10万円を送らなければなりません。


 さて、どうする。成田空港に着いた私は、身も心もボロボロ。長い間、ベンチから立ち上がれませんでした。

《次回につづく》


※女性セブン2017年2月23日号

NEWSポストセブン

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