死があり、レイプがあり、成功と失敗がある。ポーランド激動の歴史の揺らぎ

2月19日(水)7時0分 文春オンライン


『プラヴィエクとそのほかの時代』(オルガ・トカルチュク 著/小椋彩 訳)


“宇宙の中心”に位置する村、プラヴィエクに生きる人々の姿を数世代に渡って描き出した大河小説……という便利な表現ではとてもとらえきれない、深い奥行きを持つ作品である。確かに、二つの戦争を含むポーランドの激動の歴史や、一族の没落や断絶、再生など、大河小説にふさわしい要素はそろっている。しかし本書の語り手が見つめるのは、流れゆく水面ではない。流れの底に堆積する何層もの地層なのだ。


 語り手は地層を一枚一枚、慎重にはぎ取り、はるかに遠い、いまだ言葉で名付けられていない場所から、視線を注ぎ込む。やがてその視界に、宇宙の中心に取り残された、言葉でかみ砕かれる必要のない世界が浮かび上がってくる。


 一九一四年、製粉所の職人ミハウはロシア皇帝軍に召集され、戦地へ赴く。残された妻は、天使のまなざしに監視されながら、娘のミシャを出産する。天使は赤ん坊の内側に、“浮き草の生い茂る濁った沼のよう”な世界を見る。一方、領主ポピェルスキは信仰を失い、ラビから贈られたゲームに精神を奪われる。ミハウの二人めの子、イズィドルは異形の者として生を受け、屋根の上で生涯を過ごすボスキ老人の息子はミシャと結ばれる。村はドイツ軍に占領され、ユダヤ人は殺害され、やがてロシア軍がやって来る。あちこちの家で子どもが生まれる。死があり、レイプがあり、商売の成功と失敗がある。誰かが旅立ち、誰かが舞い戻って来る。


 こうした出来事が次々地層の片隅に刻まれてゆく。それがどれほど人の魂に残酷な影を落としたとしても、水面には何の印も現れ出ない。語り手にとって大切なのは、出来事の輪郭ではなく、何かが起こり、去っていったあとの、川底の小石の微かな揺らめきであったりする。


 語り手の視線を最も無防備に受け止めるのは、村のはぐれ者たちであろう。例えば月に心を乱された狂女、フロレンティンカ。あるいは動物や植物や悪を体の内側に取り入れることで世界を学ぶ、クウォスカ。その娘ルタ。そして不自由な体を抱えたイズィドル。


 異質な者同士、イズィドルとルタは森をさまよい、キノコの菌糸体が地下に描く模様を感じ取りながら、二人だけの時間を過ごす。決して越えられないはずの境界を抜けてルタが去ったあと、傷心のイズィドルは、郵便を使った独自の方法で外の世界とつながりを持とうとする。全宇宙を整理するという使命に目覚める。


 ラスト、亡き母ミシャの愛用していたコーヒーミルを、娘のアデルカがスーツケースに仕舞う。プラヴィエクを支える法則の一部が、混沌の中から救い出される。語り手が去ったあと、始まりも終わりもない川の流れだけがそこに残される。地層の迷路から抜け出た時、自分が宇宙の中心にいた証拠は、耳に残る小石の揺らぎだけだ。



Olga Tokarczuk/1962年ポーランド生まれ。ワルシャワ大学で心理学を専攻、セラピストを経て作家に。『逃亡派』でマン・ブッカー国際賞受賞。2018年のノーベル文学賞を受賞。他の作品に『昼の家、夜の家』など。本書の原著は1996年刊行。



おがわようこ/1962年、岡山県生まれ。作家。芥川賞、谷崎潤一郎賞ほか受賞多数。近著に『小箱』『約束された移動』など。





(小川 洋子/週刊文春 2020年2月20日号)

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