後陽成天皇、朝鮮出兵を巡る豊臣秀吉との確執は死後も続いた

2月22日(水)16時0分 NEWSポストセブン

知られざる暗闘があった(写真:アフロ)

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 日本の歴史上、天皇は「神」であると同時に、「司祭者」として神の意思を聞き、穢れを祓い、平安を祈り争いを鎮める地位にある。それゆえ、天皇が時の権力者と対立することは本来あってはならない。だが、歴史上いくつかのポイントで天皇は為政者と衝突した。朝鮮出兵を巡る確執から対峙し続けた後陽成天皇と豊臣秀吉について、歴史家の八柏龍紀氏が解説する。


 * * *

「天下布武」を掲げ、大名・寺社勢力を武力で従えた信長の死後、権力を握った豊臣秀吉は信長とは打って変わり、自らの権力を正当化する論理を朝廷に求めた。


 秀吉は朝廷に取り入って関白の地位を手にすると、京都に“黄金の城”と称される豪華絢爛な平城・聚楽第を築き、後陽成天皇の盛大な行幸を演出した。


 だが秀吉が朝鮮出兵の意思を明かし、「後陽成天皇を北京に遷御して明国の皇帝とし、日本の天皇には政仁親王か智仁親王を置く」と公言すると、秀吉の専横に危機感を覚えた後陽成天皇は再三、秀吉に異を唱えた。


 これを不快に思った秀吉は、秀頼の誕生で邪魔者になった養嗣子・秀次を粛清する機を利用し、朝廷に脅しをかけた。秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ切腹させた上、秀次が後陽成天皇の側近の公家などに進献した金銀や各種道具を没収すると通告。一方で、その後、参内した際には金銀財宝を惜しげもなく贈答し、圧倒的な財力を見せつけ朝廷への圧力を強めたのだ。


 朝鮮出兵を食い止められなかった後陽成天皇だが、秀吉の死後、その影響力の継続を嫌い、秀吉に近い良仁親王ではなく、智仁親王への譲位を図った(*)。


 天皇は決して時の権力者に迎合するばかりではない。


(*第2皇子、智仁親王への譲位は家康に反対され、最終的に第3皇子、政仁親王に譲位した)


■取材・構成/池田道大


●やがしわ・たつのり/秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部・文学部卒業。高校教師、大手予備校講師などを経て、現在、淑徳大学エクステンションセンター講師、京都商工会議所主催「京都検定講座」講師。日本近現代史、日本文化精神史、社会哲学など幅広いテーマで執筆、論評、講演を行う。『戦後史を歩く』(情況出版刊)、『日本の歴史ニュースが面白いほどわかる本』(中経出版刊)など著書多数。近著に『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(双葉社刊)がある。


※SAPIO2017年3月号

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