女人禁制は因習・宗教・天皇制だけの単純な枠組ではない

2月26日(月)16時0分 NEWSポストセブン

呉智英氏が「女人禁制」を論ずる

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 不祥事続きのために、角界は現代に合わせて変わるべきだとの声もある。だが、そこには改革が容易なものと、難しいものがあるだろう。改革が難しいものの中でも象徴的な「女人禁制」の慣わしについて、どのような思想が重なり合っているのか、評論家の呉智英氏が解き明かす。


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 年末年始、角界の不祥事が続いた。下位力士への暴行事件。横綱白鵬の品格に欠けるふるまい。いずれも近代スポーツではない伝統体技だからこそ起きる問題だ。教育にも取り入れられている陸上競技や球技では、こんなことはない。暴力事件があれば関係者の処分は当然。競技に求められるのはルールを守ることのみ。しかし、大相撲は伝統体技だから近代スポーツとは違う思想に貫かれている。現代の良識との齟齬も生じる。


 だが、暴力や品格の問題は比較的簡単に改革が可能だ。暴力をやめたところで困ることは何もないし、品格も単にルール化すればすむ話だろう。しかし、これまでも度々問題になった「女人禁制」はそう簡単に「改革」はできまい。


 二月十一日付朝日新聞(東京本社版)は、この問題を取り上げている。


 それによると、江戸期までは千秋楽以外女性の相撲観戦はできなかったという。幕末の四賢侯と称される山内容堂の助言で明治初年から女性の観戦ができるようになる。しかし、今も土俵には女性は立てない。一九九〇年森山真弓官房長官は総理大臣杯授与に際し土俵に立てなかったし、二〇〇〇年太田房江大阪府知事も府知事賞授与に際し同じことを体験した。


 この女人禁制は、能力論ではなく、宗教的な「穢れ(けがれ)」思想から来ている。能力論なら科学的論証によって改革を促すこともできようが、宗教に対して科学的論証は無意味だ。神事に起源を持つ相撲であれば、改革は容易ではない。


 この女人禁制を因習・宗教・天皇制・政治権力という枠組でとらえる人も多かろうが、ことはそう単純ではない。


 佐藤健『南伝仏教の旅』(中公新書)という興味深い旅行記がある。1989年の刊行だから、情報は少し古いし、何より古書価が高くなっている。それでも読んで損はない好著だ。


 この中にタイについての一章がある。タイでは憲法で信教の自由は認められているが、小乗仏教(いわゆる上座部仏教)が国教となっている。国王は仏教の守護者であり、国民の九割以上が熱心な仏教徒である。国民の王室への敬慕の念も強い。しかし、そうであるからこそ、我々にとって意外に思えることもある。


 プミポン国王(当時)の二女シリントーン王女は、美貌と気品で絶大な人気を誇る。王女が国民的功労者を表彰する時は延々二時間もテレビ中継が行なわれる。表彰される人は恭しく拝礼し賞を戴く。しかし、受賞者が僧侶の場合はちがう。僧侶は一礼もせず、手ずから賞品を受け取ることもしない。逆に王女が僧侶に拝礼し、賞を「もらっていただく」のだ。


 佐藤は、ここに王権と宗教権威の拮抗関係を見る。しかし、さらに穢れ思想も指摘しないわけにはいかない。僧侶は、たとえ王女であろうと「穢れである女」に触れられないのだ。最も反動的である女性蔑視思想が王権思想に楔を打ち込む逆説がここにある。


●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。


※週刊ポスト2018年3月9日号

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