古谷経衡氏 多摩川の岸辺で西部邁先生の死を思う

3月2日(金)7時0分 NEWSポストセブン

時代の「空気」と戦い続けた(時事通信フォト)

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 1月21日、評論家・西部邁氏が逝去した。東大在学時代に六〇年安保に身を投じ、運動から離れるや、気鋭の経済学者として東大で教鞭を執った。その後、アカデミズムと決別し、在野の保守論客として活躍。安住を求めず、常に前提を疑った西部氏は、「自裁死」という最期を選んだ。保守ならずとも論壇に拡がった虚無感に対し、評論家・古谷経衡氏は何を思うか。


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 西部邁先生が多摩川で入水自殺されたというニュースは、2018年の劈頭(へきとう)、世間一般のみならず私を最も暗澹たる思いにさせた虚無の報であった。


 西部先生と私が最初に邂逅したのは五年以上前、某CS放送局での収録時である。雲の上の人であった。「あ、どうも…」と頭を下げるのがやっとだった。


 高校時代、同世代で熱病のごとく伝播していた小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』ではじめて先生を知った私は、早速著書に手を伸ばしたが、文体が難しすぎてよく分からず、同じ「西」の付く西尾幹二氏の『国民の歴史』に切り替えたという過去があった。


 その後、つい最近TOKYO MXの番組に私が出演していたのを先生が聞かれ、関係者伝手に「古谷さんを褒めていましたよ」と聞き及び、飛び上がるほど嬉しかった。


 さすがに高校生から現在に至るまで私の読解力も進歩した。保守論壇の中では最早異色の「反米」を強く志向した先生の文体には魅了されていたが、正直私と西部先生の繋がりはこの程度の辺境でしか無い。


 入水の後、西部先生を好意的に追悼する論評が現在でも続いている。その最期が自然死や病死では無く自死であることに、「西部邁らしい死に方であった」とか、三島以上の意味を見いだそうとする動きもある。「保守派の大論客の死」は多くの知識人や文化人に感傷と衝撃を与え、「西部邁の死の意味」は今後も長く問われ続けるだろう。前述のようにその辺境でしか交流を持たなかった私が、先生の死の意味を論じる資格は無い。


 が、社会通念上、故人を悼み生前の業績を称揚する風潮は当然のこととしても、なぜ皆もっと昔から、西部先生について語らなかったのか、西部先生の言葉に耳を傾けなかったのかと疑問に思う。


 西部先生は雑誌『表現者』の顧問として長年同誌に密に関与されたが、その商業的経営は極めて難路だったと聞く。実際に『表現者』の版元は二回も入れ替わった。


 TOKYO MXでは『表現者』と提携して毎週土曜日の朝『西部邁ゼミナール』を放送していた。先生が入水された後に、唐突に「西部、西部」と話題になったが、ネット空間では『西部邁ゼミナール』よりも、同じ局で夜に放送されている『ニュース女子』の話題に圧倒され、西部先生を全く顧みることは無かったばかりか、保守論客であることすら、よく知られていなかったのでは無いかと断じざるを得ない。先生が強烈な反米を志向していたことのみをどこかで聞きかじり、「西部は左翼」などと断定していた無知蒙昧の輩もいた。


 保守界隈の人々も、本当にここ最近の西部邁の本を購読し、雑誌を買っていたのか、大変疑わしい。要するに、「西部、西部」と言っておきながら、肝心の保守層は朝日新聞叩きに熱狂し、相も変わらず韓国と中国批判に執心し、沖縄の反基地運動家の策動に注視するばかりで、西部邁が何を言ってきた人で、また西部邁が現在何を言っているのかに、全然注意していなかった様に思える。


 よく言えば余りにも高尚すぎて「いつか読む」枠に入れていたか、悪く言えばその視界にすら入っていなかったのではないか。


 私は、『ニュース女子』が駄目で『西部邁ゼミナール』が良い、といっているわけでは無い。そして朝日新聞を批判するなと言っているわけでも無い。いや寧ろ社会の公器による誤報は糾されてしかるべきであろう。中国の軍拡は脅威では無いという方がおかしい。


 が、先生が入水されてから殊更「西部、西部」というのには違和感を感じる。本当に先生を賞賛するなら、生前からもっと西部邁の本や雑誌を買うべきでは無かったのか。出版不況や雑誌不況が言い訳になるとは到底思えない。書店で『表現者』が平積みでは無く、如何にもムックという扱いでその背表紙のみが陳列されていたのを観たとき、ふと虚しくなったのを覚えている。


 そこには「西部邁」と名前が書かれていたのに、みな素通りしていった。「西部邁」はすでに何年も前から大衆の視界に無かった、というのは些か礼を失し過ぎだろうか。しかし、私以上に熱心な西部先生のファンは、より強い義憤の感情を持ってもおかしくはないはずであろう。


◆グッドバイ、グッドラック


 西部先生が入水されたという多摩川河川敷を歩いた。正確なご遺体の発見場所は警察発表以上のものを知らないし、探るのも失礼だが、おそらくこの辺りであろう、という見当はついた。そこは東京の西の端、東横線多摩川駅近傍である。壮麗な丸子橋を渡河すると、そこにはすぐ川崎市中原区武蔵小杉の「近代的」タワーマンション群が、低層住宅を睥睨するように林立している。この景色を見ながら、西部先生は逝かれたのだ。


 多摩川から北へすぐ行った二子玉川の開発が飽和状態となったことから、マンションデベロッパーが「第二のニコタマ」を目指して武蔵小杉のイメージ向上に躍起となり、瀟洒なカフェやスイーツ店をこれでもかとアピールし、ここに住む人たちを「ムサコマダム」などといって称揚し、即席セレブ気分を味わいたいが為に、不当につり上げられたコンクリートの塊を三十年ローンで嬉々として購入していく。この街に西部邁の読者は何人くらいいたのだろうか。ちなみに庵野秀明の映画『シン・ゴジラ』で、この街はゴジラによって徹底的に破壊されている。


 西部先生の遺作となった『保守の遺言』(平凡社新書)には、明瞭に自裁の決意が述べられている。先生の中では全てが想定されていたことだったのだ。同書最期の言葉はご親族らに向けられた「グッドバイそしてグッドラックと言わせていただきたい」である。しかし、私のような暗愚な大衆に毛の生えたような程度の人間は、いったいどうしていったら良いのだろうか。


 常識を喪失したより醜悪なゴロツキとペテン師と商売屋ばかりが蔓延る界隈の中で、私はどう生きていったら良いのだろうか。無論私だけイノセンスを気取っているのではない。私だってゴロツキの一種である。


 しかしそれは、西部邁という存在が遠くにいる事を前提として、その辺境のさらに端っこで辛うじて成り立つ芸当にすぎない。多摩川を去って帰路、小一時間自問した。が、西部邁先生の代替者の名を、現在の保守界隈に見つけだすことはどうしても出来なかった。


 私には、感傷や衝撃よりも危機感の方が圧倒的に強い。


◆西部邁氏の生涯

1939年 北海道生まれ。

1958年 東京大学入学。同年12月に結成された共産主義者同盟(ブント)に参加。

1960年 六〇年安保闘争を指揮。安保後、運動から離れる。

1964年 東京大学経済学部卒業後、同大大学院進学(経済学研究科修士課程修了)。

1986年 東京大学教養学部教授に就任。

1988年 宗教学者・中沢新一氏を学部助教授に推薦するも、教授会で否決され、東大を去る。以降、保守論客として活躍。『朝まで生テレビ!』出演などで人気を得る。

1994年 言論誌『発言者』を刊行(『表現者』の前身)。

2003年 イラク戦争に際して、「大義なし」として米国、並びに同国に追従する日本を痛烈に批判。

2018年 逝去。享年78。


【著者プロフィール】ふるや・つねひら/1982年北海道生まれ。立命館大学文学部卒業。日本ペンクラブ正会員。主な著書に『左翼も右翼もウソばかり』『草食系のための対米自立論』。最新刊は『日本を蝕む「極論」の正体』。


※SAPIO 2018年3・4月号

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