酒と人類の闘いの歴史——なぜ人は「ほどほど」でやめられないのか

3月3日(日)17時0分 文春オンライン


『酔っぱらいの歴史』(マーク・フォーサイズ 著/篠儀直子 訳)


 人類、酔っぱらい過ぎである。


 なにしろ有史以前から、いや、人間が木から下りて二足歩行を始めた時から、人類は酔っぱらっていた。最初は、熟して発酵した果物。次に、大麦と水を混ぜた原始ビール。そこから人類は糖分やビタミンBを摂取し、アルコールで殺菌された飲料を得ていた。つまり酒は栄養と安全を満たすための必需品であり、我々は酒を飲むために進化したのである。


 そんな大胆な仮説から始まる本書は、時代や場所によって変化する酔っぱらいの姿をひたすら追っている。女主人の経営する酒場でスパイスや子ブタと引き換えにビールを飲むシュメール人、神を讃えて暴飲と嘔吐と性交を繰り返す古代エジプト人、ギリシャ人は形式張った酒宴を開き、古代ローマ人は富と力を誇示しながらワインの薀蓄を傾ける。他方、古代中国では、聖書では、修道院では、イスラム社会では、ヴァイキングでは、ウェスタン・サルーンでは……と、読者はまるで古い世界の酒場を旅するように眼の前に広がる宴席を体験するのだ。


 世界がひたひたと酒に浸っていく様を目撃するかのような本である。悪いことにというか素晴らしいことにというか、途中「蒸留」という技術を手にすることで、世界の酒浸り化はさらに加速していく。ジンもウオッカもずいぶん多くの人を楽しませ、そして死なせた。歯止めとなるのは、時々現れるしらふの人間だけだ。彼らは「おまえらちょっと正気に戻れよ」とばかりに酒の禁止を試みる。「酒飲んで暴れて死んでる場合じゃないだろう」と、法の力で肩を揺さぶるのだ。


 賢明な判断だと思う。思うが、なにぶん相手は酔っぱらい。人の話は聞かないし、酒のためならどこまでも行く。結局、人類は酒を手放すことができなかった。修道院でもワインは飲まれたし、イスラム教徒も「酒を飲んで後悔すること」が許されていた。誰かにとっては祝祭であり、ほかの誰かにとっては権威であり、また別の誰かにとっては貧困からの逃避である酒は、あまりに変幻自在なのだ。どんな隙間からもするりと入り込んできてさまざまな境遇の人々を呑み込んでしまう。さらに厄介なのは、お金を生み出すことだ。禁酒の地となるはずだったオーストラリアでは、酒が禁じられたが故に酒の価値が上がり、権力と結びついてあっという間に大陸を支配した。「オーストラリアはラム酒によって築かれた」のである。


 そうして世界の隅々にまで酒は満ちた。本書の言う「酔っぱらいの歴史」とは、暴れ馬のような「酒」をなんとか飼い慣らそうとする人類の苦闘の歴史でもある。今も、私を含めた世界中の酒好きが「ほどほど」や「適量」を探す旅に出ている。幻の「ほどほど」。それがいつか見つかる日は来るのだろうか。いずれにせよ、人類、ほんとに酔っぱらい過ぎである。



Mark Forsyth/1977年、ロンドン生まれ。オックスフォード大学で学ぶ。言葉について綴ったブログが話題になり、2011年、初の著書『The Etymologicon』(未邦訳)がベストセラーに。深い薀蓄で人気作家のひとりとなる。



きたおおじきみこ/1963年、北海道生まれ。作家。著書『枕もとに靴 ああ無情の泥酔日記』、『すべて忘れて生きていく』など。





(北大路 公子/週刊文春 2019年3月7日号)

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