小倉智昭さんお別れの会「借金、ギャンブル…親孝行したいときに親は亡く、後悔は今も消えず」小倉智昭×青木さやか

2025年3月17日(月)12時0分 婦人公論.jp


昨年12月に膀胱がんのため77歳で亡くなった小倉智昭さん(撮影:初沢亜利)

昨年12月に膀胱がんのため77歳で亡くなったタレントの小倉智昭さんのお別れの会が、2025年1月17日、東京都内で友人や仕事関係者を招く形で行われます。タレントの青木さやかさんと、それぞれの借金や親との関係、闘病についてなど語り合った対談記事(『婦人公論』2021年7月27日号掲載)を再配信します。
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22年間司会を務めた長寿番組『とくダネ!』が2021年3月に終了した小倉智昭さん。タレントとして活動しながら、執筆という新しいジャンルに挑戦、自伝的エッセイ『母』を上梓した青木さやかさん。借金を重ねた過去から、親との別れ、闘病まで、赤裸々に語り合いました(構成=岡宗真由子 撮影=初沢亜利)

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消費者金融に顔が売れていた時期も


小倉 青木さんのウェブの連載エッセイが話題になった時に、『とくダネ!』にご登場いただきましたよね。今回上梓された『母』も、とても読み応えがあって、青木さんと話をしてみたいと思って。

青木 小倉さんのようにたくさんの本を読んでいらっしゃる方に言っていただけると、なおさら嬉しいです、ありがとうございます。

小倉 文章力があって面白いうえに、同業者なので全編を通して自分を振り返るところがありました。僕も結構お金に苦労したんでね。でも、女性タレントさんで、過去の借金やギャンブルの話まで書くって、あまりいないんじゃない? 勇気があると思ったな。

青木 小倉さんはテレビ局のアナウンサーをなさっていましたよね。お金に苦労する時代なんてあったのですか?

小倉 独立して7〜8年は仕事がほとんどなくて、食えなかったんです。しかも競馬とかパチンコにはまって、消費者金融に顔が売れてた時期がありましたよ。

青木 私も消費者金融を「私の銀行」って呼んでました(笑)。芸能界に入って完済できた時には「お願いですからカードだけでも持っていてください」と言われて(笑)。ありがたかったですし、あの頃支えていただいて感謝しています。

小倉 最初はね、あたりを見回してこっそり入店するけど、だんだん慣れてしまうんだよね。(笑)

青木 私も麻痺してしまったのか、「よくあそこまで書いたね」と感想をいただいて驚いたというか。私としては、かつてギャンブルが好きな時期があり、その時は経済的に大変だった、と書いただけのつもりですが、なぜか世間では「ギャンブル依存症を克服した人」ってことになっていました。


意外な共通点が見つかり、盛り上がった小倉智昭さん(左)と青木さやかさん(右)

「お金を増やしたい」とパチンコや麻雀を


小倉 僕は、借金やギャンブルの話なんて、今までしたことなかったよ。苦労しました、とは話してますけど。「若気の至り」じゃ済まされないほど親にも迷惑をかけた。でももう74歳にもなったから、そろそろいいかな。(笑)

青木 私は依存症というより、とにかくお金がなくて、短期でどうにか増やせないかっていう発想でパチンコや麻雀をやってましたね。

小倉 本には、お母さんに借金の無心をするシーンがあったでしょ? 結構強気で。僕は友達に借金するより、親に借金するほうがつらかったな。青木さんは支配的で批判的なお母さんを憎んでいたから、かえって、金の無心ができたみたいなところがあるの?

青木 そうかもしれません。

小倉 僕は母親との確執はなかったけれど、誰からも借りられない時に借金をすることがあった。母親は看護師をやっていた人なの。勤めている病院に訪ねていくと、やや太り気味の母親が、白衣で階段を降りてくるんですよ。手にがまぐち持って。「今日これしかなくてごめんね」って1万円か2万円渡してくれる。「どっちがごめんなさいなんだ」と心の中で思いながら、借りるんです。そのつらさは今でもずっと忘れられない。

青木 私の場合は、当時、自分でお金を稼いでいなかったから、ありがたみがわからなかったのかもしれません。稼ぐようになってから、大変に申し訳ないことをしたとやっとわかりました。母は私に遺産まで残してくれたんです。

小倉 そうなの。お母さんはあなたのこと憎んでいたわけではないんだろうね。

青木 そうかもしれません。

母が認知症に。「もう少し早く親孝行しておけば」


小倉 僕は自分が順調に稼げるようになってきた時、母に「仕事、もうやめたら?」と言ったんです。心臓に持病もあったので。でも、「病院ならいつ倒れても平気だから」と80歳まで勤めあげた。

青木 すごいですね。

小倉 看護師をやめたら張りつめていたものがなくなっちゃって、認知症も進んで施設に入ったの。僕は施設代とか、お袋のぶんのお金は全部払ってはいたんだけど、認知症だし、母はわからなかったと思う。もう少し早く親孝行できればよかったなって思いますよ。

青木 私は父との最後の会話が言い争いになってしまい、後悔として残っていますね。娘のことで「お前の育て方が悪い」って言われてカッとなり、「私には何もしてくれなかったのに、口を出さないで」と言ってしまった。父はその後倒れて、会えた時にはもう話せる状態ではなく……。それもあって、仲の悪かった母とは、なんとか和解しようと思ったのもあります。

小倉 間に合ってよかったね。僕の場合は自分がどん底の時代に父親に死なれて、死に目にも会えなかったものだから、悔やみきれない後悔がある。お金がなくて借金だらけの頃の大晦日、住んでいたアパートに帰ったら小さな重箱と缶ビールの入った袋がドアにかけられてたんです。手紙も入っていました。「お前がうちを訪ねて来られない理由はわかっている。でも正月くらいは、その気分を感じて改まった気持ちで新年を迎えなさい。母さんの作ったお節だよ」と書かれてて。一人で泣きました。

青木 ……そうですか。


『母』(青木さやか:著)

父を絶対に超えられない


小倉 僕はね、今でも一番尊敬している人間は父親なんですよ。

青木 どんな方だったんですか?

小倉 父親は小さい頃台湾で生まれ育ちました。貧乏で、小学生の頃は餅を売ったり、新聞配達をしたりしていたの。小学校は卒業したけど中等学校に進む金はなくて、書生さんをしながら独学で勉強して高等学校に合格しました。

青木 お仕事をしながら勉強を?

小倉 今では台湾一の工業大学になっている学校です。最下位で受かったけど、猛勉強してそれからはずっと満点をとり、総代で卒業しました。すべての科目が1位で、学校側からどれかの賞を他の人に譲ってくれって頼まれたとか。

青木 すごい方ですね!

小倉 これはΝНΚの『ファミリーヒストリー』という番組が調べてくれたことなんだよね。父は「帝国石油」の技術者だったんですけど、戦時中にインドネシアで油田開発に成功、今でもその油田があって、「日本人が石油を残してくれた」というのがちゃんと現地で伝わっている。そんな父親だから、絶対超えられないんです。僕なんか、22年間テレビ番組の司会を頑張ったところで何も残らないから。

青木 そんな。観ていた方の記憶には残っています。それは何か残したことと同じだと私は思います。

小倉 ありがとうございます。

ショートスリーパーだと豪語していたのに


青木 『とくダネ!』を終えられて、体調とか生活はどうですか?

小倉 最初の3日くらいは、司会やってる時と同じく毎朝3時に目が覚めていたんですけど、あっという間に7時8時まで寝られるようになって。「僕はショートスリーパーだ」って豪語してたのに、あれはなんだったんだ、ってね。

青木 逆に素晴らしい適応力ですね。ずっと3時に目が覚めても困るじゃないですか。

小倉 今でもたくさん新聞や本を読む生活は変わらないけどね。

青木 『とくダネ!』で印象深かったのは、私が結婚した時です。冒頭で特集してくださったのに、VTR明けで小倉さんが「そりゃ女芸人だって結婚くらいするだろ、いちいち騒ぐことか?」と……。

小倉 そんなこと言った?(笑)

青木 はい、夫婦でそれを観てて「えー!」って言ってました。

小倉 何年経っても、相手の方は覚えてるんですね。本当に傷ついてる人がいるなら謝罪しなきゃって思いますよ。

青木 大丈夫です。思い出深いというだけで。(笑)

小倉 アハハ。

<後編につづく>

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