菊川怜、小倉智昭さんお別れ会で号泣 『とくダネ!』で長く共演「その時にすごさに気付いていたかった」
2025年3月17日(月)18時0分 オリコン
小倉智昭さんのお別れ会に出席した菊川怜
献花を終え、目を真っ赤に腫らした菊川怜が取材に応対した。小倉さんが22年にわたり総合司会を務めたフジテレビ系朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』で、菊川は2012年から2017年までMCとして出演した。取材会場では旧知のレポーターと再会し、再び目に涙があふれた。「遺影がいい笑顔だった。穏やかで、楽しいそうな1番いい笑顔だった」と思いの丈を語った。
病を患っていたが、小倉さんは菊川のことを常に気にかけてくれたそう。「最後に(昨年の)11月17日ぐらいに電話したんです。その時、私のことを心配して逆に電話してくれて。その時は、お元気そうな声だった。まさか12月に亡くなるなんて…」と吐露。訃報は『とくダネ!』のグループLINEで知ったそう。「午前3時ぐらいに連絡が入った。私は朝起きて見たんですけど、この日が来ちゃったんだな、と…。この間まで、あんなに話したのに亡くなってしまったのかと悲しかったです」と振り返った。
長く小倉さんの横に立ったが、今は後悔の思いもあるそう。「もっと、その時にすごさに気付いていたかった」と話す。「終わってから小倉さんが皆さんにどれだけ愛されていたのかを知った。仕事ぶりとかも目的意識を持って『これを伝える』という情熱、使命感を持って仕事をされていた。深さがあったことに、どんどん歳を重ねて気付いていく」と偉大さは日々大きくなっているそうで「その経験は今でも残っているから掘り起こして、たどっていける。私の糧。仕事をしていく上で支えてくれるものだと思って感謝しています」と話した。
小倉さんから掛けられた言葉は今も胸の中にある。どんな言葉を掛けられたのか問われると、10秒ほど黙り込むと涙声で「小倉さんが病気でつらい時に私もつらいことがあった。最後まで心配してくれて。甘えちゃったなと思って…。『前向きにやっていけるか自信がない』と言った時に『怜ちゃん、大丈夫だよ』と声を掛けくれて元気付けてもらった。小倉さんの方が大変な時なのに…。本当に心配して支えてもらいました」と感謝する。「『とくダネ』の仲間はみんないますけど、これだけの距離感の近さで接してもらったのは小倉さんだけです。かけがえのない時間だった。いつまでも胸の中には残っている」と口にする。小倉さんという存在は「近すぎて“こういう人”というより、“私の世界にいる人”。常に近くにいて得体の知れない感じで。ずーっと毎日、隣に座っていましたし、過ごす時間が長くなると家族みたいになってくる感じがありました」と話した。
献花する際には「見守ってください。楽しく過ごしてください」と伝えたそう。最後に天国の小倉さんに言葉を掛けるなら、と問われると「小倉さん、本当にありがとうございます。みんな順番なので、いつかは会えると思う。それまで好きなことをやって、向こうでお仲間を作って楽しく過ごしてください。こっちは小倉さんの小倉イズムが残った人たちが頑張っています。どうか仲良く元気にお仕事ができるように見守ってください」と伝えていた。
小倉さんは1947年5月25日生まれ、秋田県出身。獨協大学外国語学部卒業後、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に入社し、その後、フリーアナウンサーに転向。99年4月に始まったフジテレビ朝の情報番組『情報プレゼンター とくダネ!』では22年にわたりMCを務め、フジテレビの朝の顔として親しまれた。2016年に膀胱がんを公表し、18年に膀胱全摘手術を受けた。21年10月には膀胱がんが肺に転移したことを公表していた。
お別れ会が行われたブルーノート東京は、小倉さんが足繁くかよった思い出の場所。祭壇には、アコギ5本、エレキギター2本、エレキベース1本など小倉さんの愛用品が並べられ、大好きだった西武ライオンズのユニフォーム、西武時代の松坂大輔のユニフォームや、レアル・マドリードのユニフォームや、これまで取材に訪れたオリンピックの取材パス、聖火ランナーを務めた際のトーチなどか飾られていた。