アントニオ猪木の実弟が語る<1976年6月26日モハメド・アリ戦>。「試合直後は<世紀の凡戦>と酷評された一戦。しかし兄貴にとってアリ戦の意味は…」
2025年3月22日(土)12時30分 婦人公論.jp
モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」<1976年>(写真提供:講談社)
2022年10月1日に永眠された、プロレスラー・アントニオ猪木さん。実弟である猪木啓介さんは2025年2月、アントニオ猪木さんのライセンス運営を管理する「株式会社猪木元気工場」の新社長に就任し、<元気>を発信し続けています。今回は、啓介さんが<人間・猪木寛至>のすべてを明かした書籍『兄 私だけが知るアントニオ猪木』から、一部を抜粋してお届けします。
* * * * * * *
「1976年」の激闘
プロレスラーとしてのアントニオ猪木にとって、特筆される年が1976(昭和51)年である。
「柔道王」ルスカとの初対決(2月)、ボクシング世界王者モハメド・アリとの異種格闘技戦(6月)、韓国の大邱(テグ)・ソウルにおけるパク・ソンナン戦(10月)、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦(12月)など、いまなお語り継がれる伝説の試合がこの年に集中しており、しかも通常のシリーズではタイガー・ジェット・シンやアンドレ・ザ・ジャイアントとも戦っていた。
営業部員だった私にとってもこの頃はもっとも忙しかった時代だった。
プロレスファンは数々の名勝負を思い出にすることができる。しかしプロレス団体の営業をやっていると、試合の観戦を楽しんでいる余裕はない。ビッグマッチになればなるほど仕事量も増えるし、末端の営業部員は海外遠征に必ず同行するわけではないからだ。
私はこの年、韓国遠征(パク・ソンナン戦)は現地に入ったが、パキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)には参加しなかった。6月のアリ戦は日本武道館の客席から見ていたが、2度目のブラジル遠征が8月上旬に入っていたため、こちらの準備に忙殺されたおかげで、試合前後のことはあまり記憶に残っていない。
命懸けだった韓国遠征
韓国遠征は、命懸けの仕事になった。
地元の英雄、パク・ソンナンとの試合は、兄貴が勝敗に関する交渉をハネつけたことから期せずして事実上のリアルファイトになり、兄貴がソンナンに勝利した。
『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(著:猪木啓介/講談社)
試合後、興奮した観衆が私たちの乗ったバスに投石を開始。バチバチという異様な音に包まれながら、バスは猛スピードで発進、会場をなんとか脱出した。
あのときはよく窓ガラスが割れなかったものだと思うが、いまのプロレス界ではまず起こり得ない事件だった。
猪木伝説のハイライト
猪木伝説のハイライトとも言える試合が、6月26日のモハメド・アリ戦である。試合前の兄貴を本当の意味で支えていたのは、妻の倍賞美津子さんだったと思う。
当時は、1人娘の寛子ちゃんが誕生して間もない時期だったが、苦しかった団体旗揚げのときから兄貴を「世界一のプロレスラーにする」と叱咤激励し、協力を惜しまなかった美津子さんは、アントニオ猪木の最大の理解者だった。
どんなに新日本プロレスがアントニオ猪木をバックアップしても、いざリングに上がれば兄貴は1人だ。ファイターの孤独は、誰にでも癒せるものではない。
アリ戦の評価は周知のとおりである。15ラウンド、45分間にわたり退屈な展開が続いたことから、試合直後は「世紀の凡戦」と酷評され、社運をかけてこの一戦に向き合ってきた新日本プロレスも金銭的に大きな痛手を負った。
ただ、この試合によって得た知名度と経験が、兄貴にとって大きな財産となったことも事実だったし、凡戦とされた試合の水面下で、実は高度な攻防が繰り広げられていたことが後年になって再評価されたこともある。
アリ戦の意味
「時はすべての裁判官だ」
生前の兄貴はアリ戦について聞かれるとよくこう語っていたが、その言葉の意味をくみ取れば、この試合の収支決算は「大きなプラス」だったということになるのだろう。
このアリ戦が決まったとき、私がすぐに思い浮かべたのはカール・ゴッチとの旗揚げ戦だった。試合に負けても、必ずそれ以上に輝く何かを見せるのがアントニオ猪木の真骨頂だ。
自分が勝つことだけを第一に考える人間が、アリと戦うことなどできるはずがない。兄貴にとってアリ戦の意味は、最初から勝敗とは別のところにあったはずで、試合開始のゴングが鳴った瞬間、私は兄貴の勝ちだと思っていた。その気持ちはいまでも変わらない。
※本稿は、『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)の一部を再編集したものです。
関連記事(外部サイト)
- アントニオ猪木の実弟が明かす<倍賞美津子との1億円挙式>の裏側。「美津子さんは気さくな人だった。引っ込み思案な兄貴だが、この人ならと」
- 【追悼】アントニオ猪木さん「死んだらどうなるのか、生きるってなんだろう。どんなに年を取ろうが、体が弱くなろうが、チャレンジし続けることが人生」
- 川田利明が経営するラーメン屋の今。「物価高で固定費が1.5倍に。両替の手数料まで…工夫のしようがないからみんな潰れている」【2024年下半期ベスト】
- 川田利明「ラーメン屋はあと5年で20周年だが、多分それまで続かない。『やめないで』と言う人ほど店には来てくれない」【2024年下半期ベスト】
- 「1000万円があっという間に消えた」川田利明が「もう思い出したくもない」と語るラーメン屋開業資金の現実