住所が書かれたメモを紛失したせいで生き別れたアントニオ猪木とその姉。27年ぶりに再会できたのは伝説のあの一戦があったからで…
2025年3月23日(日)12時30分 婦人公論.jp
(写真提供:講談社)
2022年10月1日に永眠された、プロレスラー・アントニオ猪木さん。実弟である猪木啓介さんは2025年2月、アントニオ猪木さんのライセンス運営を管理する「株式会社猪木元気工場」の新社長に就任し、<元気>を発信し続けています。今回は、啓介さんが<人間・猪木寛至>のすべてを明かした書籍『兄 私だけが知るアントニオ猪木』から、一部を抜粋してお届けします。
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生き別れた姉を訪ねて
プロレスファンにはあまり知られていないことであるが、兄貴は1977(昭和52)年6月、カリフォルニア州・ビバリーヒルズで執り行われたモハメド・アリの結婚式に夫婦で招待されている。実はこの直前、兄貴はアメリカで「ある人物」と27年ぶりの再会を果たしていた。
その人物とは、9人いる私たち兄弟のいちばん上の姉、千恵子である。
1950(昭和25)年、21歳だった千恵子は1歳年下のアメリカ人軍医、ベンジャミン・フランクリン・ニコルソン氏と結婚し、その後渡米した。それは私が2歳、兄貴が7歳のときのことだったが、祖父や母は当時、アメリカ人との国際結婚に賛成していなかった。当時の時代状況を考えれば、それは無理のないことだったともいえる。
しかしフェリス女学院に学んだ千恵子は、なかば押し切るような形で結婚、そのまま夫とともにアメリカに渡ったのである。とはいえ、その後しばらくは横浜の家族と定期的に手紙のやりとりをしていたし、関係が断絶していたわけではない。
それから7年後、私たちは一家でブラジルに移住した。そのとき、考えられないことが起きた。すべてを整理して移民船に乗ったとき、アメリカにいる姉の住所が書かれたメモを紛失してしまったのである。
後で分かったことだが、姉は夫の仕事の関係上、アメリカを離れて西ドイツやベトナムを転々としていた時期もあった。そして、日本から手紙が届かなくなったのは、家族の反対を押し切って結婚したためだと思い込んでいた。
それ以降、千恵子と私たち一家は連絡が取れなくなり、そのまま「生き別れ」の状態になっていたのである。
兄貴は千恵子姉さんを忘れたことはなかった。米国武者修行をしていた時代、各地をサーキットしながら消息を追いかけていたものの、有力な手掛かりは得られなかった。ブラジルにいた私たちも、気にはかけていたが広大なアメリカに住むたった1人の女性を、どうやって捜すことができるのか、見当もつかなかった。
兄貴の執念
アリ戦が終わった1976(昭和51)年の夏、兄貴はこう切り出した。
「おふくろもいい年になった。早く千恵子姉さんを見つけないと、本当に生き別れになってしまう。俺もアリと戦って、少しは有名になった。向こうの弁護士に依頼して、本格的に捜してもらおう」
弁護士は、「日本人」「チエコ」「旧姓はイノキ」「夫は医師」といった断片情報をもとに全米に照会をかけ、翌年5月になって「メリーランド州にチエコ・ニコルソンという日本人女性がいる」という情報をつかんだ。
私は当時、ブラジルに滞在していた。新日本プロレスの営業と並行して「アントン・トレーディング」という貿易会社を任され、日本企業のブラジル進出を手伝う仕事も引き受けていた。
『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(著:猪木啓介/講談社)
このときは熊谷組の経営幹部と現職のエルネスト・ガイゼル大統領を引き合わせるため現地にいたが、そこに兄貴から国際電話がかかってきた。
「啓介、姉さんの居場所が分かったようだ。俺もアリの結婚式でアメリカに行くから、お前もブラジルから来い」
その話を聞いたときは本当に驚いた。私にとって千恵子姉さんは、2歳のときに別れているため記憶が残っていない。しかし兄貴は姉さんをよく覚えている。
「兄貴、本当にその人は姉さんなのかい?」
「分からない。実際に行くしかないだろう」
私は、英語の話せる熊谷組の部長とともに、ニューヨークへ飛んだ。さっそくタクシーに乗ったところ、部長の英語が運転手にうまく通じない。
「啓介さん、この人ブラジル人だって。僕が来なくてもよかったですね」
部長はそう言って苦笑した。私はニューヨークで兄貴と合流し、日を改め、約300キロ離れたメリーランド州の田舎町に向かうことになった。
27年ぶりの再会
それは人口500人ほどの小さな田舎町だった。私と兄貴が車内で待機していると、夕方になって目的の家の中に、1台の車が入っていった。
「帰ってきたみたいだ」
兄貴と私は車を出ると、ゆっくりと家に向かって歩き出した。もし私を見ても、姉さんは誰だか分からないだろう。大きな兄貴の後ろをついていくと、日本人と見られる中年の女性が玄関のところに立っていた。
「姉さん?」
「……寛至。寛至なのね」
すでに弁護士から、私たちの来訪が伝えられていた。兄貴と抱擁を交わした姉さんは、その腕の中で泣いているように見えた。
「さあ、入ってちょうだい」
姉さんが、兄貴と私を招き入れた。実に27年ぶりの再会だった。姉の夫、ニコルソン氏は狩猟が趣味らしく、地下室の大きな冷蔵庫には骨付きの鹿肉が保存されていた。
その晩、私たちはすべてを語り合った。ブラジルへの移住、祖父の死、プロレス入り、そしてモハメド・アリとの戦い。長すぎた空白のすべてを一晩で埋めることはできなかったが、それでも兄貴があれだけ話した姿を見たことがなかった。
アリ戦をテレビで見ていた姉さん
「寛至、あなたがこんなに大きくなっていたなんて、本当に驚いたわ」
姉さんは、何度もそのことを言った。無理もない。生き別れた7歳当時の兄貴はごく普通の体格だったからである。
姉さんは前年、アメリカでも放送されていたアリ戦をテレビで見ていた。「イノキ、イノキ」とアナウンサーが叫んでいたにもかかわらず、体が大きすぎたために、まさか画面に映るアントニオ猪木が自分の弟であるとは思わなかったという。
「アナウンサーが“イノキは日本のカワサキに生まれた”と解説していたので、ああ、鶴見じゃないんだ、川崎の猪木さんだと思ったのね。あれが間違えていなければ寛至のことだと気がついたかもしれないのに……」
姉さんはそんなことも話していた。私は提案した。
「母さんはいま、サンパウロにいる。いま体調があまりよくないが、一刻も早く会いたいと思っているはずだ。行ってあげたらどうだろうか」
姉さんはその翌日、サンパウロに旅立った。27年間、姉のことを思い続けた兄貴の執念が、家族の絆を取り戻した。まるでドラマのような物語だが、これは紛れもない実話なのである。
※本稿は、『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)の一部を再編集したものです。
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