BUMP OF CHICKENは「野生のブッダ」? 『天体観測』には仏教のすべてがあった

3月24日(日)17時0分 文春オンライン

「もはや、お経の代わりに『天体観測』を唱えたい」


 僧侶の僕がそう言いたいくらい、「BUMP OF CHICKEN」の曲に毎日心を救われている。そんなBUMP OF CHICKENの代表曲『天体観測』(2001年)は、メジャーでありながら実は謎の多い異質な曲だ。


 その理由は「歌詞」にある。



〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ

 静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ〉


(『天体観測』作詞:藤原基央/以下、特に断りがない場合には歌詞の引用は『天体観測』より)




BUMP OF CHICKENのメンバー。右から2人目がボーカル&ギターの藤原基央 ©getty


 その歌詞は、様々な解釈がなされていて、例えば「離ればなれになった幼なじみへの曲」という人もいれば、「僕と君のラブソング」だという人もいる。思えば、高校時代に現代文の授業で歌詞がプリントアウトして配られ、その解釈を課題にされたこともあった。『天体観測』には解釈の余白が多く、文学的な魅力があるのだ。


 はたしてBUMPが望遠鏡で覗くものとは何なのだろう。


 僧侶である僕が導いたのは『天体観測』は「悟りを目指す物語」なのではないかということだ。


藤くんは「野生のブッダ」だ


 というのも、僕はボーカルで楽曲のほとんどの作詞作曲を担当している藤原基央さん(リスペクトを込めて「藤くん」と呼ぶ)を「野生のブッダ」だと思っているからである。


 学生時代からBUMPを聴いていた僕にとって、BUMP OF CHICKENは仏教よりも先にあったものだ。


 その後、仏教を知るようになり、様々なブッダの言葉に触れていく中で、経験したのは「あれ? ブッダ、藤くんと同じこと言ってない?」と思う瞬間だった。普通の僧侶は逆だと思う。


 もちろん、どれだけリサーチしてみても「藤くんが仏教に触れた」という情報は見つからない。ということは、藤くんは仏教を意識せずに、ブッダと同じ「悟りの境地」に至っている。すなわち、藤くんは「自然発生的なブッダ」なのではないかと僕は思っているのだ(「藤くん=野生のブッダ」の分析については、 過去の記事 を参照してほしい)。



『天体観測』は「僕」の成長物語である


 そんな野生のブッダこと、藤くんが唄う『天体観測』には、「(1)諸行無常 (2)諸法無我 (3)涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の3つの仏教の奥義(三法印)が描かれているのではないか、と僕は考えた。


 注目ポイントは、『天体観測』が過去から現在へと時系列が進んでいくことから、「僕」の成長物語であるということ。


 ちなみに、藤くんは『天体観測』についてインタビューで「答えがないところに答えを見つけようとする歌」と言っている。中でも、フォーカスを絞りたいのは、歌詞の最後、つまり物語の結末であるこのフレーズである。



〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも

 「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉



 この結末に「僕」の成長が一番現れているのである。


 はたして「僕」は物語の中で、どのような答えを知り、どのように成長していったのだろうか?


※読み進める前に、一度 歌詞の全文 に目を通しておいた方が理解しやすいと思います



「イマ」というほうき星=諸行無常



〈「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた

 (中略) 

「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけている

 (中略) 

「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉



 結末だけではなく、曲中に何度も登場するフレーズ「『イマ』というほうき星」。




『天体観測』のミュージックビデオ(BUMP OF CHICKEN公式チャンネルより)


 藤くんは、この言葉で一体何を表現しようとしているのだろう。ここで、紐解きたいのが、藤くんがこれまで何度も唄にしてきた「今」についてである。



〈ボクはイマをサケブよ〉


(『ガラスのブルース』作詞:藤原基央)




〈そこに君が居なかった事 分かち合えない遠い日の事

 こんな当然を思うだけで すぐに景色が滲むよ

 (中略) 

 そこに僕が居なかった事 今は側に居られる事

 こんな当然を思うだけで 世界中が輝くよ〉


(『R.I.P.』作詞:藤原基央)



「僕」はそんな「今」をずっと探し続けている


 藤くんの唄う「今」は決して単なる時間的な観念ではなく、もしかしたら存在したかもしれないし、存在しなかったかもしれない、そんな脆くも尊い「今」なのである。


 すなわち「あれがあったからこれがある」そんな因果で繋がった過去と地続きの「今」を唄っているのだ。これは仏教では「諸行無常」という言葉で表現される世界観である。藤くんは、そんな諸行無常で生きる「今」を「『イマ』というほうき星」という言葉で表現しているのだと推測している。



 ほうき星の光が見えた時、確かに今、目の前で光っているような感覚を覚える。しかし、星そのものは何光年と遥か遠い先で光っており、光が地球に届くまでには時差が生じている。僕たちが見ているのは、現在の光ではないのだ。


 とはいえ、今光が見えているのは、間違いなく何秒か前に星が光を放っていたという事実があるからに他ならない。そして、そんなほうき星の光も瞬く間に夜空に消えてしまうのである。


 すなわち、「『イマ』というほうき星」とは、過去から現在へ届く一瞬の彗星の光のように、「あれがあるから今がある」という因果でつながった一瞬一瞬の「今」を表現しているのではないだろうか。


 と考えれば、物語の「僕」はそんな「今」をずっと探し続けていることになる。


「僕」が「明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしない」理由は、不確かな未来ではなく「今」を見つめたいからとすれば、話の筋も通る。



「君」がいないのに二人追いかけている=諸法無我



〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも

「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉



 この結末は『天体観測』の解釈でも謎とされている部分である。なぜ二分後に君が来ないのに、僕は君と二人ほうき星を追いかけられているのだろうか?


 ここで、再び紐解きたいのが、藤くんがこれまで他の楽曲で表現してきた「僕」と「君」とのあり方だ。



〈僕がここに在る事は あなたの在った証拠で〉


(『花の名』作詞:藤原基央)




〈君といた事をなくさないように なくした事をなくさないように

 どれだけ離れてもここにある 君がいるからどこまでだって〉


(『トーチ』作詞:藤原基央)



 このように、藤くんは「自分」と「他者」との間で、明確に境界線を引かない。


 闇がなければ光は見えず、死がなければ生も感じられないように、「僕」もまた「君」がいるからこそ存在することができるのだと唄う。そんな自他で相互に存在を共鳴させるような感覚が、藤くんの生きる世界観である。



 それはブッダが言う「諸法無我」(もしくは「空」)という世界観と似ている。藤くんは、そんな諸法無我な存在の捉え方を「『君』がいないのに二人追いかける」結末で描こうとしたのではないだろうか。


 もはやブッダも藤くんも「君が物理的に存在するかどうか」は問題としない。「君」がいたことで今存在している「僕」や、「君」を失ったことで今存在している「僕」がもはや「君」なのである。


 『天体観測』の結末で「僕」が「君」がいないのに二人追いかけられていたのは、そんな風に存在を捉えることができた「僕」の成長を描いているのではないだろうか。


 さらに言えば、二人で追いかけるものは、諸行無常である「イマ」というほうき星。


 因果でつながった一瞬一瞬の「今」も、過去に「君」がいたからこそ存在する。そんな諸行無常・諸法無我な世界に、「僕」が気づくシーンが結末で描かれていたのだ。


「僕」が涅槃寂静するまでの物語


『天体観測』を「僕」が答えのないところに答えを見つけるまでの成長物語として、その結末がどうなったのかを考察してきた。


 まとめるなら、『天体観測』とは「僕」が「他者がいるからこそ自分がいる」という存在のあり方(諸法無我)に気づき、様々な因果でつながった「今」という一瞬(諸行無常)に到るまでの物語として読むことができる。


 順番が逆になってしまったが、そんな結末に導くためのキーアイテムが、サビで唄われる「望遠鏡を覗き込む」行為である。



〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ

 (中略) 

 知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ〉



 すなわち、望遠鏡で覗こうとしているものとは、見ようとしても見れない「今」という時間のあり方。さらには、知ろうとしても知れない「存在」のあり方なのではないだろうか。



 そう思えば、1番や2番のAメロやBメロは、見ようとしても見れない、知ろうとしても知れない「迷う姿」として描かれているように感じられる。



(1番)

〈深い闇に飲まれないように 精一杯だった

 君の震える手を 握ろうとした あの日は〉



 これは「なぜ雨が降ってしまったのか?」という思い通りにならない現実に対する苛立ち、さらには「なぜ僕は君の手を握ることができなかったのか?」という過去に対する執着を表現している。



(2番)

〈気が付けばいつだって ひたすら何か探している

 幸せの定義とか 哀しみの置き場とか〉



 具体的表現が多い歌詞の中で、ここだけかなり抽象的な言葉が使われているのが印象的だ。これは大人になるにつれて覚えていった、思い込みや固定観念を表現するため、あえて仰々しい言葉を選んでいるのではないだろうか。


望遠鏡を覗く行為とは「禅」なのではないだろうか


 こうしたAメロBメロの「迷い」がサビの「望遠鏡」で解き放たれていくのである。



 そんな迷いの世界で「今」と「自分」を見つめ直し、本当の「時間」のあり方、本当の「自分」のあり方を見つけようとする行為を、この世に存在する言葉で表現するなら、たった一つしか僕は持ち合わせていない。


 「禅」である。望遠鏡を覗く行為とは「禅」なのではないだろうか。



(1番)

〈見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ

 静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ〉



 ここでは、心を空っぽにしようとすればするほど、自分の心が煩悩に溢れていることに気づいていく様子を「静寂を切り裂いて生まれる声」という言葉で表現している。



(2番)

〈知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ

 暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ〉



 思い込みや固定観念にとらわれて、知った気になっていた自分自身の心を見つめ直していく様子が「暗闇を照らす光」として表現されている。ちなみに、仏教では知った気になったような無知な状態を「無明」といい、「暗闇」とのイメージのリンクが垣間見える。



(3番)

〈見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで

 静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた〉



 3番では、見えているものが見えなくなって、再び禅を行う姿が描かれる。1番2番の煩悩めいた過去の姿が「静寂と暗闇の帰り道」として表現され、そんな過去の痛みも、「今」を見つめるためのきっかけに変えていこうとする姿勢が見られる。


 そして、何度も禅行を繰り返し、最後のサビで「僕」はやっとたどり着くのである。



〈始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも

「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている〉



 君がいないのに君と二人でほうき星を探す行為である。



「本当のもの」を見つけながら「僕」が涅槃に至るまで


 繰り返しになるが、この行為は、時計で表示されるような時間的な観念を超え、目に見える物理的な存在を超えた、様々な過去の因果でつながった「今」という時間のあり方(諸行無常)や、他者がいるからこそ自分がいるという存在のあり方(諸法無我)に「僕」がたどり着いたことを表現している。


 言い方を変えれば、「僕」が迷いの世界から「諸法無我」や「諸行無常」という仏教の奥義を自覚し、ブッダと同じ境地に至ったということである。


 仏教では、悟りに至ることを「涅槃寂静」といって、それが修行者の最終目標であるとされる。



 つまり、『天体観測』とは、思い通りにならない迷いの世界で、望遠鏡という「禅」を通して、諸行無常や諸法無我の境地から見える「本当のもの」を見つけながら「僕」が涅槃に至るまでの成長物語なのである。


 言い換えるなら、「僕」が藤原基央(仏)になるまでの物語といえるだろうか。


 これが藤くんの言う「答えがないところに答えを見つけようとする歌」だと僕は思うのである。


3つの奥義が一つの物語の中で表現されている


 藤くんの思想を紐解きながら、ブッダの言葉を借りて『天体観測』の意味を解釈してきた。


 もちろん、『天体観測』が仏教そのものをテーマにしているわけではない。藤くんの生きている世界観を、この世に存在する言語で表現するならば、仏教だということだ。本当に「僕」が見えないモノを見ようとして座禅を組んでいたとしたら、それは絶対に嫌だ。


 とはいえ、僧侶視点からすると『天体観測』という曲は「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つの奥義が「文学」として一つの物語の中で表現されていて、BUMPファンの僧侶としてはもう感無量である。


 もはや、お経の代わりに『天体観測』を唱えたい。南無天体観測。南無オーイエーアハンである。




『天体観測』のスペシャルMV(BUMP OF CHICKEN公式チャンネルより)


 だがしかし、こんな解釈も一つの見え方にすぎないことを理解していただきたい。当然だけど、曲の解釈は人それぞれに委ねられているし、BUMPのメンバーもそれを望んでいる。


 そう言えば、自分たちの音楽について、藤くんはこのように語っていた。


「(BUMP OF CHICKENの音楽は)たとえばその曲と聴く人の間に10歩距離があったとすると、そのうちの5歩分しか近づいてこないような音楽。残りの5歩分は、聴く人のほうが近づいていかなきゃいけない。そして、そうやって5歩分近づいていくということに意味がある音楽だと思うんです」(『MUSICA』2011年1月号、p.35)


 僕たちがBUMP OF CHICKENの音楽を聴いて感じる宇宙のような世界。


 ああでもないこうでもないと、自分の感受性を頼りに宇宙を泳いだその5歩先に、きっと彼らが待っていてくれている気がするのだ。オーイエー涅槃。



(稲田 ズイキ)

文春オンライン

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