実弟が語る<アントニオ猪木に関する最大の誤解>。佐山、長州、前田。兄貴を取り巻く人間が離合集散を繰り返した理由はズバリ…
2025年3月24日(月)12時30分 婦人公論.jp
第1回IWGPリーグ戦。決勝のハルク・ホーガン戦で失神KO負けを喫する<1983年>(写真提供:講談社)
2022年10月1日に永眠された、プロレスラー・アントニオ猪木さん。実弟である猪木啓介さんは2025年2月、アントニオ猪木さんのライセンス運営を管理する「株式会社猪木元気工場」の新社長に就任し、<元気>を発信し続けています。今回は、啓介さんが<人間・猪木寛至>のすべてを明かした書籍『兄 私だけが知るアントニオ猪木』から、一部を抜粋してお届けします。
* * * * * * *
「アントニオ猪木」に関する最大の誤解
私がブラジルに戻った1983(昭和58)年以降、新日本プロレスの人気には陰りが見えるようになっていた。
佐山聡、長州力、前田明(現・前田日明)ら人気の若手選手が団体を去り、選手層が弱体化したこともあるし、40歳を過ぎた兄貴も、肉体的な衰えは隠せなかった。テレビの視聴率も徐々に下降し、さまざまなテコ入れが試みられたが、逆にそれが従来のファンの反発を受けるなど、悪循環を止めることができなかった。
なぜ兄貴の周囲にいる人間は離反するのか。選手しかり、フロントしかり、あるいはビジネス上のパートナーしかり、アントニオ猪木を取り巻く人間は必ずと言っていいほど離合集散を繰り返す。どうしてそれが起きるのかといえば、兄貴の持って生まれた性格を周囲が誤解しているからである。
アントニオ猪木はスター選手であるが、いわゆる「親分」ではない。リングの上では相手の持ち味を引き出し、最高に輝かせることを得意としたが、団体の経営者として部下の能力を引き出したり、人材を育成しマネジメントする力はまったくゼロ。
あくまで自分は神輿(みこし)の上に乗っているだけで、自分のために尽くしてくれる籠をかつぐ人、ワラジを作る人の心の内側には、なかなか思いが至らない人間だった。
スター選手の周辺には、自分が動かずとも向こうから人間が集まってくる。兄貴も子どものころから自分中心の人間だったわけではないが、長きにわたってプロレス界のトップに君臨しているうち、目が曇ってしまった部分は多分にあったと思う。
タテ社会のプロレス団体
タテ社会のプロレス団体には、兄貴に憧れた若者が入団してくるし、社員も「アントニオ猪木のために働きたい」という気持ちが土台にある。
トップの兄貴がもう少し全体に目配りして、たとえば頑張っている若手を抜擢したり、会社に貢献した社員を人事や報酬で報いたりすれば違ってくるのだろうが、「他人の面倒を見る」という親分肌の性格を持ち合わせていない兄貴はいつも「てめえは勝手に生きろ!」と薄情なことを言う。
最初は「一生、猪木さんについていきます!」と心に誓っていた選手たちも、どこかで兄貴の非情な一面に触れ、気持ちが離れていってしまう。アントニオ猪木に幻想を抱き、親分肌の人間であると思い込んでいる人ほど、その傾向が強い。
『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(著:猪木啓介/講談社)
もっとも、自分に弓を引いた人間を許し、水に流すことができるのは兄貴の不思議な持ち味だ。それもまた、ある種のご都合主義だったかもしれないのだが、兄貴は人の悪口をあまり言わなかったし(ときどきは罵っていたが)、どんなにスキャンダルを書きたてられても、雑誌や新聞を敵視することもなく、「あいつらも仕事さ」と大人の対応を見せていた。
いろいろな人間との出会いと別れがあった80年代だが、兄貴にとって最大の意味を持っていたのは、倍賞美津子さんとの別れだった。
倍賞美津子との離婚
兄貴が美津子さんとの離婚を公表したのは1987(昭和62)年10月のことだった。夫婦の関係はその2年ほど前から破綻していたという。兄貴自身が回想しているように、やはりハイセルや団体経営の問題で疲弊していたところに女性問題が発覚し、それが決定打になったようだ。そのあたりのことは、ブラジルを拠点としていた私にはよく分からない。
ただ1986(昭和61)年5月、兄貴が写真週刊誌に不倫をキャッチされたとき、坊主頭になって反省していたのはかなり驚いた。当時、一人娘の寛子さんも物事が分かる年齢になっていたから、父としてケジメをつけようと思ったのだろう。
兄貴は写真週刊誌に撮られた六本木のホステス以外の女性とも交際していた。後援会関係者の娘さんで、ブラジル人のモデルである。
兄貴も結婚するたびに女性観を語っていたようだが、実際は自分から女性にアタックすることはほとんどなく、「来るものは拒まず」の姿勢が基本だ。不倫の言い訳にはならないが、ほとんどの場合は相手の術中にハマっており、このときもそのパターンだったと断言する。
当時はまだハイセルの借金をクリアできるめどがたっていたわけではない。強いストレスのなかで、つい他の女性になびいてしまったのだろうが、このモデルとの不倫も最終的には美津子さんにバレた。兄貴の隠蔽工作は恐ろしく稚拙だから、必ず発覚する。
特別な存在
兄貴は人生のなかで事実婚のダイアナさんを含めると4度の結婚を経験しているが、そのなかでも特別な存在が倍賞美津子さんだった。新日本プロレスを日本一のプロレス団体にできたのも倍賞さんの献身があったからだし、猪木家との付き合いも深かった。
何より、兄貴自身が本当に美津子さんのことを愛していたし、寛子さんのことは「世界でいちばん怖い」と常々語っていた。もちろん、それだけかわいがっているということである。
もっとも苦しく、もっとも輝いた時代を伴走してくれた、いわば戦友でもある美津子さんとの別れは、兄貴にとってひとつの時代が終わるような喪失感があったに違いない。だが、女優の美津子さんはイメージを売りにする仕事だ。離婚は仕方のないことだったが、私も青春時代を過ごした新日本プロレスの灯が、ひとつ消えたような思いがした。
結婚生活には区切りをつけた兄貴だったが、娘の寛子さんとは生涯、良い関係を保っていたし、美津子さんの弟、倍賞鉄夫さんはその後も新日本プロレスで仕事を続けた。美津子さんがサプライズで新日本プロレスのリングに上がったこともあり、兄貴とは良い友人に戻ったような印象だった。
伊勢丹事件や失神事件もそうだったが、兄貴の「人生の要所」にはいつも美津子さんがいた。その意味で、この離婚は兄貴にとって人生の転機につながるできごとだったように思う。
※本稿は、『兄 私だけが知るアントニオ猪木』(講談社)の一部を再編集したものです。
関連記事(外部サイト)
- アントニオ猪木の実弟が明かす<倍賞美津子との1億円挙式>の裏側。「美津子さんは気さくな人だった。引っ込み思案な兄貴だが、この人ならと」
- アントニオ猪木の実弟が語る<1976年6月26日モハメド・アリ戦>。「試合直後は<世紀の凡戦>と酷評された一戦。しかし兄貴にとってアリ戦の意味は…」
- 住所が書かれたメモを紛失したせいで生き別れたアントニオ猪木とその姉。27年ぶりに再会できたのは伝説のあの一戦があったからで…
- 【追悼】アントニオ猪木さん「死んだらどうなるのか、生きるってなんだろう。どんなに年を取ろうが、体が弱くなろうが、チャレンジし続けることが人生」
- 川田利明が経営するラーメン屋の今。「物価高で固定費が1.5倍に。両替の手数料まで…工夫のしようがないからみんな潰れている」【2024年下半期ベスト】