「宮崎駿さんもそろそろ終わりだね」のひと言が変えた……『魔女の宅急便』ヒットの理由

3月27日(金)18時0分 文春オンライン

 スタジオジブリ制作の4作目となる「魔女の宅急便」は逆風のなかのスタートだった。1984年の『風の谷ナウシカ』の公開以降、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)の興行成績が思わしくなく、映画業界での宮崎駿監督作品への視線は冷ややかなものとなっていた。しかしこの『魔女の宅急便』は大ヒットとなり、フリーだったアニメーターの社員化も可能にした。宮崎監督の右腕だったプロデューサー・鈴木敏夫氏が語る制作秘話。


◆◆◆


高畑さんに断わられ、宮さんに持ち込んだ『魔女の宅急便』


『魔女の宅急便』は、スタジオジブリとしては初となる外部からの持ち込み企画としてスタートしました。


 広告代理店を通じて話が来たのは、1987年の春、ちょうど『となりのトトロ』『火垂るの墓』の制作が本格的に始まった頃でした。バブル景気とともに、日本映画も元気になりかけていた時期です。映画制作に企業がタイアップするのが始まったのもこの頃。『魔女の宅急便』はその最初ともいえるかもしれません。なんといっても、原作に「宅急便」がついているということで、広告代理店からすると、これ以上分かりやすい企画はなかったんでしょう。


 じつはこの企画、最初は「高畑勲監督作」ということで持ち込まれました。ところが、高畑さんが断ったので、宮さんに「こういう企画が持ち込まれてるんですけど、どうします?」と聞いてみたんです。そしたら、「おれ読んでる暇ないから、鈴木さん読んでよ」と言われてしまった。


 そういう場合、宮さんという人は必ず次の朝に感想を聞くんですよ。だから、仕事の終わった夜更けにいっきに読みました。もちろん児童文学としては素晴らしいと思いました。でも、それをどういう切り口で映画にしたらいいのかとなると、話はとたんに難しくなる。



鈴木敏夫氏 ©文藝春秋


「田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本」


 悩みながらその日は寝ちゃったんですけど、明くる朝、案の定、宮さんから「どうだった?」と聞かれました。僕もその頃にはずいぶん宮さんに鍛えられていたんでしょうね。そういうときには反射的に言葉が出るようになっていました。


「この原作、見た目は児童文学ですけど、たぶん読んでいるのは若い女性じゃないかと思いますね」


「どうして?」


「たぶん田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本なんですよ。彼女たちは好きなものを買って、好きなところへ旅行し、自由に恋愛も楽しんでいる。でも、誰もいない部屋に帰ってきたとき、ふと訪れる寂しさみたいなものがあるんじゃないかと思うんです。それを埋めることができれば映画になりますよね」


 と、その場の思いつきで言ったんです(笑)。すると宮さんが「おもしろいじゃない」と俄然興味を示しました。自分で言っておきながら、ほんとうにそういうテーマで作るべきなのかどうか、最後まで悩むことになるんですが……。


「言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」


 とはいえ、宮さんは『トトロ』の制作の真っ最中。自分で作業することはできません。と同時に、「いつまでも俺たちジジイが映画を作っていてもしょうがない。若い人に機会を与えようよ」という思いもあった。そこで、自らはプロデューサー兼脚本家を務め、監督には宮さんの元で演出の勉強をしていた片渕須直くんを抜擢することになりました。


『トトロ』の制作が終わると、宮さんはすぐに脚本執筆に入ることになりました。ところが、原作を読んでの第一声は、「鈴木さんの言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」というもの。いや、直接書いてあるわけじゃないんですけれど……と話し合ううち、結局、シナリオを書く作業にぜんぶ付き合うことになってしまいました。


 宮さんの事務所があった阿佐ヶ谷に脚本の完成まで毎日通い詰めましたかね。何か聞かれたり相談されるごとに、すぐにパッと答えられるよう、朝から夜までずっと隣にいました。



 宮さんの執筆というのは変わっていて、僕に向かってあれこれしゃべりながら鉛筆を走らせていくんですよ。そして、1シークエンス終わるごとに、すぐに原稿を見せてくれる。それで「どう?」と聞かれるので、「ここはもう少しこうじゃないですか」と感想を言うと、すぐにパッと書き直す。そんなふうにして書く作家っていないですよね。普通ひとりで書斎に籠もって集中するものじゃないですか。


 書き方のスタイルもそうなんですが、シーンを組み立てる手際のよさにも感心しました。物語の冒頭、13歳になった魔女は独り立ちしなければいけないということで、キキが故郷から旅立っていくわけですが、原作ではけっこうなボリュームが割かれています。凡庸な人がやったら20分ぐらいかかりそうなそのシーンを、わずか5分ほどにまとめてしまったんです。基本設定を手短にまとめて分かりやすく見せるだけでなく、非常に印象的なシーンにもなっています。原稿を読んだ瞬間、思わず「宮さん、これすごいですよ」と言ったのを覚えています。


「世界は男と女でできているんだから、これでいいんだ」


 そして、キキがコリコの町へ着くと、いきなりトンボという男の子に出会う。男女がすぐに出会うというのが宮崎駿の映画の特徴ではあるんですけど、ただ今回はちょっと違うんじゃないかなあと僕は思ったんですね。


「普通はまず同性の子を友達にして、安定を得てから異性に向かうんじゃないですかね」と言ってみたら、「世界は男と女でできているんだから、これでいいんだ」と言われました。宮さんらしいですよね。



 逆にその後、しばらく話が進んでから、森の中でウルスラという女の子と出会うじゃないですか。彼女の設定を宮さんは27歳としていたんですが、僕は同年齢がいいと思っていたので、ずいぶん話し合いました。それで結局、間をとって18歳ということになったんです(笑)。


 ウルスラについて思い出深いのは、なんといっても彼女が劇中で描いていた絵です。じつはあの絵、宮さんの義父が教えていた養護学級の生徒の作品がもとになっているんです。戦争中、反戦活動で投獄された経験もあるという骨のある方で、その後、長く障害のある子供たちの社会復帰に尽力されたそうです。そのつながりで絵を使わせてもらったわけですが、ああいう印象的な小道具の使い方が、宮さんはじつにうまいですね。


キキとトンボのシーン「そんなの書けない!」とギブアップ


 キキとトンボの関係でいうと、物語の中盤でトンボがキキをパーティに誘う場面があります。ところが、“奥様”の作ったニシンのパイを届けているうちに時間に遅れ、雨にも降られて、キキは風邪をひいて寝込むことになります。その後、再会したとき、ふたりの距離はいっきに縮まるんですけど、僕はその前に微笑ましい痴話げんかのようなシーンを入れたらどうかと提案したんです。それを踏まえて2人はより仲がよくなっていくという表現がいいんじゃないかと思ったんですね。


 宮さんはそれを受けて、書き直してはみたものの、「そんなの書けない!」とギブアップしました。宮さんというのは主観的な人ですから、男女関係を客観的に見るのはあまり得意じゃないんですね。そういう人にあえて要求してみると、どんなことになるんだろう? といういたずら心もちょっとあったんですけれど(笑)。


 そうこうしてシナリオはできあがっていき、問題のラストシーンにさしかかりました。ウルスラの小屋から帰ってきたキキは、ニシンのパイを運んだ“奥様”からの思わぬプレゼントに涙ぐみます。当初、宮さんはそこで話を終えるつもりでした。それはそれで非常にウェルメイドないい話でしょう。ただ、僕としてはそれだけじゃ物足りないという思いがあった。やっぱり娯楽映画ですから、最後はお客さんへのサービスとして派手なシーンがほしいと注文を出したんです。それで飛行船からトンボを救うスペクタクルなシーンを付け加えることになりました。後に作画に入る段階で、そのシーンの是非がスタッフの間であらためて問題になっていくんですが……。



原作者の角野栄子さんがどんな映画になるのか心配していると聞いて……


 脚本ができた後、原作者の角野栄子さんが自分の作品がどんな映画になるのか心配しているという話が伝わってきました。


 そのことを宮さんに話したら、「鈴木さん、ふたりで会いに行っちゃおう」ということになりました。そういうとき、宮さんの行動はすごく早いんです。


 角野さんのご自宅にクルマで訪ねていって、「いちどジブリに遊びに来ませんか」と言って、吉祥寺のスタジオまでお連れすることにしました。その道中、普通に行けば15分ぐらいのところをじっくり一時間ぐらいかけて走り、宮さんは角野さんに武蔵野の風景を見せてまわったんです。宮さんはそのあたりの道をすべて知り尽くしていて、どこにどういう緑があるのか、ぜんぶ頭に入っているんですね。


 これには角野さんも「こんなきれいなところがあったんですか!」と喜んでくれて、ジブリに着いた頃にはすっかり心の距離が埋まっていました。


 宮崎駿という人は、計算じゃなく、本能でそういうことができてしまうんです。じつは僕も後に同じことをやってみたことがあります。フレデリック・バックさんというカナダのアニメーション作家をジブリ美術館からスタジオまでお連れするとき、いろんな緑を見せてまわったんです。そうしたら、バックさんも「東京にもこんな素晴らしいところがあるのか!」と喜んでくれました。



 宮さんが脚本執筆に取り組む傍ら、演出の片渕くんや、キャラクターデザイン・作画監督の近藤勝也くんたち主要スタッフは、スウェーデンのストックホルムとゴトランド島へロケハンに出かけました。


 それはかつて宮さんがリンドグレーン(『長くつ下のピッピ』の作者)に会うために訪れた場所でもあります。宮さんにとっては初めての海外旅行。同行した人によると、宮さんは緊張のあまり、右手、右足が一緒に出る、いわゆる「ナンバ歩き」になっていたそうです(笑)。そんな状態で見たものだから、より深く印象に残っていたのかもしれません。自分が初めて触れたヨーロッパの美しい景色を、若い人にも見てもらいたかったんでしょう。


この体制でいいものが作れるんだろうかと不安になったふたり


 スタッフがロケハンから帰国し、脚本も完成。いよいよ本格的な制作に取りかかろうとしていたとき、徳間書店の上層部に企画の説明と監督の紹介をすることになりました。その会を終えてみて、僕としては正直なところ、この体制でいいものが作れるんだろうかと不安になってしまったんです。徳間書店を出て、みんなと別れた後、僕は宮さんを喫茶店に誘いました。


「このままでうまくいくんですかね?」


 率直に聞いてみると、宮さんも、


「俺も同じことを考えていた。どうしようか、鈴木さん」と言います。


「トトロから連投になってもうしわけないですけど、やっぱり宮さんがやってくれないですかね」


 そうお願いすると、宮さんはその場で「分かった」と了承してくれました。


 数日後、スタッフを集めてそのことを話し、片渕くんには引き続き演出補として仕事を続けてもらうことになりました。


宮崎駿は、ものを教える人間としてはあまり優秀じゃないけれど


 僕が見る限り、宮崎駿という人は、ものを教える人間としてはあまり優秀じゃないんです。たとえば、当時ジブリには録音スタジオがなかったので、外のスタジオに行かなきゃいけなかったんですが、そのとき宮さんをクルマに乗せていく人は大変な目に遭っていました。どのルートを使うか、どのタイミングで方向指示器を出し、どこでブレーキを踏むか、一挙手一投足すべてにわたって細かく口を出すんですね。これにはたいていの人がノイローゼになっちゃう。その結果、あるときから宮さんを乗せて運転するのは僕の担当になりました(苦笑)。


 その性格は当然、絵を描くときにも出ますから、宮さんが顔を出すと、みんな落ち着いて作業できないんです。宮崎駿がスタッフに求めているのは、その人の中にいいものを見つけて伸ばすというよりも、“自分の分身”なんですね。だからこそ、いい映画が作れるという面もあって、そこのところはなかなか難しい問題ですが……。



3時間ぐらい散歩をして「何をやったらいいんだろう?」と


 監督交代が決まった後、宮さんがめずらしく「鈴木さん、散歩に行こう」と言い出しました。3時間ぐらいほとんど無言で吉祥寺の街や井の頭公園を歩きまわったでしょうか。それから、喫茶店に入ってコーヒーを頼むと、「何をやったらいいんだろう?」と言うんです。こういうときはやはり即座に具体的な答えを言わなきゃいけない。


「思春期じゃないですか」


 僕は反射的に答えていました。


「宮さんはこれまで、コナン、ナウシカ、ラピュタと少年少女は描いてきたけれど、“思春期”は扱ってないですよね」


「思春期か……」と宮さんは唸っています。


「まだ何者かになっていない猶予期間ってことなんじゃないですかね……」と話していると、ふいに宮さんは「分かった」と言って、ナプキンにキャラクターを描き始めました。キキの髪にはすごく大きなリボンがついていました。僕は鈍感で、そのときは理解していなかったんですけど、あのリボンはまだ自分を守ってくれる確かなものを持っていない思春期の象徴だったんでしょうね。



「13歳の女の子ってどういう感じなんだろう?」


 宮さんから聞かれて、ちょうどそのときうちの娘が13歳だったこともあって、あれこれ具体的な話をたくさんしました。


 思春期について考える中で、ジジの役割もすごくはっきりしていきました。あれはただのペットじゃなくて、もうひとりの自分なんですね。だからジジとの会話っていうのは、自分との対話なんです。ラストでジジとしゃべれなくなるというのは、分身がもういらなくなった、コリコの町でちゃんとやっていけるようになりました、という意味を持っているわけです。


ラストシーンをどうすべきかという議論


 絵コンテと作画の作業を進めていくうちに、あらためてラストシーンをどうすべきかという議論が起きました。メインスタッフの間では、キキが奥様からケーキをプレゼントされるシーンで終わったほうがいいという意見が大勢を占めていました。


 そこで僕は宮さんのいないところでメインスタッフを集めて説得することにしました。


「監督が宮さんじゃなかったら、僕も飛行船のシーンはないほうがいいと思う。でも、宮さんがやるなら、必ずおもしろいシーンになるはず。しんみり終わる映画もあっていいけれど、娯楽映画というのは、やっぱり最後に“映画を見た”という満足感が必要なんじゃないか。そのためには、ラストに派手なシーンがあったほうがいい」


 そんなことを話すうちに、いままで反対していたスタッフも納得してくれました。


 ただし、この問題については後日談があります。映画が公開された後、『キネマ旬報』の映画評にこう書かれていたのです。


──いい映画だったが、ケーキのシーンで終わっていたら、もっと名作になっていただろう。


 僕もまだ若かったから、「何言ってんだ。お客さんの気持ちが分かってないな」と反発しつつも、心の底では「これを書いた人はすごいな」と感心しました。


 たしかにウェルメイドなストーリー構成という意味ではそのほうがいいのかもしれません。でも、僕は映画っていうのはワンシーンごとに釘付けになってワクワクしながら見るものだという気がするんです。お客さんの満足度という観点でいえば、あれでよかったんだといまでも思っています。


「僕はヤマト運輸の社員教育のための映画を作るつもりはありません」


『魔女の宅急便』では、企業との本格的なタイアップにも取り組むことになりました。それを受けて、プロデューサーとしての僕の仕事も、この作品から大きく変わっていくことになります。


 制作が始まる前の顔合わせで、ヤマト運輸の社長さん以下、幹部のみなさんがジブリにお見えになったことがありました。そのとき宮さんは開口一番こう言ったんです。


「僕はヤマト運輸の社員教育のための映画を作るつもりはありません」


 あくまでお客さんのための映画として作るという宣言です。その一点をはっきりさせた。それを聞いて、やっぱりすごい監督だなと思いました。



映画にはそれまでタイアップという発想があまりなかった


 ヤマト運輸の都築幹彦社長も、それを受け止める度量のある方でした。喜劇役者のエノケン(榎本健一)の甥にあたるそうで、映画というものに対して非常にご理解がある方で助けられました。


 そんなわけで出だしはよかったものの、その後は苦労の連続でした。当時の僕はまだタイアップというものに対する認識が甘かったんでしょうね。


 テレビというのはそもそもコマーシャルを前提にしているわけですから、最初からタイアップありきで作られます。それに対して、映画にはそれまでタイアップという発想があまり入ってきていませんでした。この『魔女の宅急便』あたりから、ようやく商業主義がスタートしたといってもいいぐらいです。


 いちばん大きく変化したのは宣伝のあり方でした。映画の世界には古くから松竹、東宝、大映、東映、日活という大手5社があって、制作・配給・宣伝を管理していました。お客さんはある映画を見に行ったときに次の映画の予告編を見て、また劇場に足を運ぶ。それが宣伝として非常に大きな役割を担っていたんです。


 ところが、80年代にはもう映画を習慣的に見に行くという人がかなり減っていました。いくら一生懸命作っても、作品を知ってもらうのが難しくなっていたんです。そこで出てきたのが、企業とのタイアップを使った宣伝です。


 僕としては、ヤマト運輸のテレビCMなどの力を借りて、『魔女の宅急便』を多くの人に知ってもらいたい——そんなふうに単純に考えていました。ところが、いざ広告代理店との交渉が始まってみると、向こうの無理な要求や、こちらの認識不足もあって、ずいぶん揉めることになりました。結局、代理店とは正式な契約が成立しないまま、仕事を進めていくことになりました。


映画会社の担当者から言われた「宮崎さんもそろそろ終わりだね」


 ヤマト運輸とのタイアップでもいろいろなことがありました。東映としては、ヤマト運輸の全国の営業所を利用して、数万枚単位の前売り券を販売しようと考えていたんです。ところが、結果的に販売できないということになって、「なんのためにタイアップしているのか分からないじゃないか」と、僕は東映の担当者、原田宗親さんから怒られる破目になりました。僕も懇意にさせてもらっていた方でしたが、その原田さんが続けて、こう言ったのです。


「宮崎さんもそろそろ終わりだね」


僕がびっくりして「え、どういうことですか?」とたずねると、「いや、だって興行成績がどんどん下がっているじゃない」と言うのです。


 腹は立ちましたけど、原田さんはあくまで事実を教えてくれたんです。映画というのはいいものを作るのも大事だけど、興行成績も大事。いま考えればあたりまえのことなんですけど、僕はともかく作ることが楽しくてやってきたというところがあった。でも、原田さんの一言で、初めて映画の成功には2つあるんだということを思い知らされたわけです。



厳しい言葉に頭を殴られたようなショックを受けた


 親しい人から厳しい言葉を突きつけられて、僕は頭を殴られたようなショックを受けました。そして、その足ですぐ日本テレビへ向かったんです。観客動員を上げるには、ともかく宣伝が大事だということは分かっています。でも宣伝の具体的なことについては右も左も分かりません。とりあえず、テレビで何かやってもらえば宣伝になるだろうという素朴な発想でした。


 そこで、『ナウシカ』以来、ジブリ映画のテレビ放映でお世話になっていた映画部の横山宗喜さんと会って、相談に乗ってもらいました。いろいろと話し合う中で、急きょ日本テレビにも出資の仲間に加わっていただくということが決まったのです。


 これで宣伝も大いにしてもらえるだろう、と安心したのも束の間、横山さんの部下の奥田誠治さんから連絡が入りました。


「鈴木さん、ジブリのいろんなグッズがありますよね。それを大量にもって来てくれませんか」


 なんでそんなものが必要なんだろう? と不思議に思って聞くと、「出資が決まったからといって、それですぐに日テレの全員が協力してくれるわけじゃないんですよ」と説明してくれました。要するに各番組のプロデューサー、ディレクターにグッズを渡しながら挨拶まわりをしなければならないというんです。それで僕は奥田さんといっしょにグッズを持って、日本テレビの局内を歩いてまわりました。そうか、こういうことをしなきゃいけないのか、宣伝って大変なんだなと気づいた瞬間でした。



“魔女の宅急便ごっこ”をやる


 その甲斐あってか、日本テレビで『魔女の宅急便』の特別番組を作ってくれることになりました。これはすごい宣伝になりそうだと喜んでいたら、番組の枠が30分しかないことが分かりました。しかも、奥田さんが言うには「じつは予算もないんです」とのこと。


「え、じゃあどうするの?」


「鈴木さんの娘さんとその友達に出てもらって、“魔女の宅急便ごっこ”をやるってのはどうですか?」


「それで特番になるの……?」


 そんなわけで、「テレビに出られるぞ」と娘を説得して、その友達にも協力してもらうことになりました。“魔女の宅急便ごっこ”と13歳の女の子たちが考えていること、さらに本編映像の一部と制作現場の様子を合わせて、何とか特番はできあがったものの、僕にとっては宣伝の仕事の洗礼のようなものでした(苦笑)。


ヤマト運輸とのタイアップでうまれた大きな効果


 前売券はだめでしたが、宣伝においてはヤマト運輸とのタイアップは大きな効果を発揮しました。各営業所にポスターを貼ってもらい、さらに『魔女の宅急便』の映像を使ったテレビのスポットCMもオンエアされることになったのです。


 CM制作についても勉強の連続でした。ユーミンの「やさしさに包まれたなら」をバックに予告編の映像が15秒間流れて、原作・角野栄子/福音館書店というテロップが入るんですが、これが映画と書籍のダブルスポンサー、さらに歌も入れるとトリプルにあたるのではないかという問題が出てきたのです。そこで各テレビ局の考査部門との話し合いになりました。原作まではいいけれど歌はだめだとか、その逆だとか、テレビ局によって結論が違うので、CMもそれに合わせてさまざまなバージョンが作られることになりました。


あの一言が僕の人生を変えた


 映画と企業のタイアップといっても、当初はこんな次第で、けっして整ったシステムや戦略があったわけじゃないんです。すべては手探りの状態でした。



 僕自身、当時はそういうことに疎かったということもあるし、本当のことをいうと、映画を作ることに専念したいのに、なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ? という気持ちもありました。でも、制作プロデューサーから宣伝プロデューサーの領域に足を踏み出して、いろんなところに頭をぶつけながら進む中で、たくさんのことを勉強させてもらいました。そうすると、人間、次からはもっとよく考えてうまくやろうという気持ちも出てきますよね。


 原田さんの一言で発奮し、大事なことに気づかされて、生まれて初めて「当てなきゃいけない」という気持ちになった作品が『魔女の宅急便』でした。あの一言が、ある面では僕の人生を変えちゃったんです。


「いったんここを閉じようよ」と言い出した宮さん


 おかげさまで映画は大ヒットしましたが、その一方で、大きな課題も抱えることになりました。制作の最中、宮さんが「いったんここを閉じようよ」と言い出したのです。


宮さんはジブリの設立当初から、「ひとつのスタジオで映画を作るのは3本まで、3本も作ると人間関係がぐちゃぐちゃになってきて、ろくな作品が作れなくなる」と言ってきました。それなのに『魔女の宅急便』は、もう5本目。


 でも、僕としてはタイアップをはじめ、新たに覚えたことを活かしてもっと作りたいという思いが強くあった。そこで、宮さんを説得したところ「だけどいまの現実はどうするの?」と言われました。


 現実というのは、ストレートにいうとお金のことです。『魔女の宅急便』の制作費は4億円かかりました。一億円も行かない映画が多かった時代、それはすごい金額です。それだけ用意しても、宮崎駿の求めるクオリティで仕事をしていくと、出来高払いのアニメーター一人あたりの報酬はだいたい月に10万円。一年かけて全身全霊で仕事に打ち込んでも120万円にしかなりません。当時でいっても普通の仕事の半分ぐらいですから、宮さんはすごく心苦しく思っていたんです。


 そこで、ジブリではスタッフの社員化と“所得倍増計画”を打ち出しました。ただ、全制作費の90%以上が人件費ですから、単純にいうと4億円の制作費が8億円になるということです。それをいったいどうやって工面すればいいのか? 『おもひでぽろぽろ』で僕たちは新たな課題に取り組んでいくことになります。




取材・構成 柳橋閑



すずき・としお

1948年名古屋市生まれ。株式会社スタジオジブリ代表取締役プロデューサー。慶應義塾大学卒業後、徳間書店入社。『アニメージュ』編集部を経て、84年『風の谷のナウシカ』を機に映画制作へ。89年よりスタジオジブリ専従。著書に『仕事道楽』『ジブリの哲学』『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』『風に吹かれて』『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』など。



このインタビューは『ジブリの教科書5 魔女の宅急便』(文春ジブリ文庫)と『 天才の思考 高畑勲と宮崎駿 』(文春新書)に掲載されています。



※文春文庫編集部は、Twitterで新刊・既刊情報や編集部の日常をつぶやいています。 @bunshunbunko のフォローをお願いします。



(鈴木 敏夫)

文春オンライン

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