「男性サポート役」がいない『ハーレイ・クイン』が見せた、女性主人公物語の“第三段階”

3月27日(金)18時0分 文春オンライン


*以下の記事では、現在公開中の『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』の内容と、『ターミネーター:ニュー・フェイト』の内容と結末が述べられていますのでご注意ください。



 3月20日に公開された映画『 ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 』は、痛快そのものの映画である。さらに言うなら、これは痛快なフェミニズム映画だ。


 この映画の主人公ハーレイ・クインは、『バットマン』シリーズの最大のヴィラン、ジョーカーのパートナーである。初登場は1992年、アニメ版『バットマン』の第7話であった。彼女はゴッサム・シティのアーカム精神病院の精神科医で、患者であったジョーカーに魅入られ、彼の脱走を手助けする。


 マーゴット・ロビーがハーレイ・クインを演じて、今作でも炸裂したワルなガールのキャラを確立したのは、前作の『スーサイド・スクワッド』(2016年)であった。ただし、あくまでジョーカーという絶対的ヴィランの従属的なパートナーという位置からは逸脱しなかった前作とは違い、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』では、彼女は物語の前にジョーカーにふられている。



『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』より(C) 2020 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics


 私はこの映画をフェミニズム映画と呼んだ。それは、邦題では隠れてしまっているタイトルの意味を見ることで分かるかもしれない。


邦題で隠されてしまったタイトルの意味を読み解くと……


 原題はBirds of Prey (and the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn)。無理矢理に直訳するなら、『バーズ・オブ・プレイ(とハーレイ・クインって子のものスッゴい解放)』とでもなるだろうか。


 私は邦題を批判するつもりはない。それどころか、原題のコミカルさを残しつつ、『トム・ジョーンズの華麗な冒険』との連想関係でこの映画がピカレスク小説(悪漢小説)の系譜にあることを示唆するなど、最大限うまい邦題になっていると思う。ただ、この原題からどうしようもなく欠落してしまったものがある。


 ポイントは二つある。ひとつは、「覚醒」と訳されているのがemancipation(解放)という言葉であること。「解放」はliberation(これも解放)とともに、フェミニズムの文脈でよく使われる言葉だ。この映画の物語の軸、つまりハーレイ・クインが「ジョーカーの彼女」であることをやめて、つまりそこから解放されて立派なヴィランとして(という表現もどうかと思うが)独り立ちする物語なのだ。この映画が、悪者の成長を描くピカレスク小説の伝統に属するというのはそういうことだ。



 とはいえ、この物語はハーレイ・クインが独力で、個人の力で成長していく物語ではない。ひと言で言えば、彼女の解放は女たちの連帯のなかにこそある。そこが重要だ。


 なぜ重要なのかはこの後説明するとして、タイトルがそのような連帯のテーマをちゃんと含みこんでいることを確認しておく。ひとつには邦題では副題にまわっている「バーズ・オブ・プレイ」(直訳は「猛禽類」)であるが、これはDCコミックスのスーパーヒロインたちのチームの名前だ。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』は、ヴィランであるはずのハーレイ・クインとスーパーヒロインたちとの連帯がテーマになっている。



 もうひとつは原題にあるoneである。少し英語を知っている人であれば、固有名詞にoneがついているのはおかしい、と感じるだろう。さらに英語を知っていれば、固有名詞にoneをつけるのは、「〜という人」くらいの意味になるというのをご存じかもしれない。つまりこのoneが示すのは、ハーレイ・クインは飛びぬけた、孤高の個人ではなく、ふつうの女の子だ、ということなのだ。ふつうである、というのは、彼女をおとしめることではない。それはむしろ、彼女がこの映画の他のヒロインたちとの連帯のうちにあることを強調している。


強い女性主人公の物語の三段階


 私はタイトルだけからそのことを言っているのではない。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』は、近年のスーパーヒロインもの、そしてさらに広く、強い女性(たち)の物語の中でも、最新版として評価できるのだ。


 ここで、強い女性主人公の物語の系譜を三段階に分けて考えてみたい。そして『ハーレイ・クイン』を三段階目の始まりを宣言する作品として考えたい。簡単にまとめるとその三段階とは下記のようなものだ。


(1)個人として秀でた女性主人公の物語


(2)女たちの連帯の物語


(3)新・女たちの連帯の物語



第一段階:個人として秀でた女性の物語


 映画やアニメなどの文化においては、1980年代以降、女性が主人公となって、主体性をもって活躍する物語がしだいに増えていった。ディズニーに何もかもを代表させるのもどうかとは思うが、そうした変化が典型的にあらわれているので、ディズニー映画を例に見ていくと、1930年代から1950年代の福祉国家期には、『白雪姫』『シンデレラ』といった、女性が白馬の王子様に出会って「主婦」に収まってめでたしめでたし、という物語を、ディズニーは供給した。


 しかし、1990年代のディズニー・ルネサンスと呼ばれる時期には、女性キャラクターたちは、基本的には自分の自由を束縛するものからの解放を目指すことになる。『リトル・マーメイド』(1989年)しかり、『アラジン』(1992年)しかり。もっとも先進的だったのは、男装して戦う女主人公の物語『ムーラン』(1998年)であった。


 ディズニーから目を離したとき、重要な作品とキャラクターとして指摘したいのは日本であれば『風の谷のナウシカ』(映画版1984年)であり、またハリウッドでは『ターミネーター』(第一作が1984年)のサラ・コナー、『エイリアン』(第一作が1979年、第二作が1986年)のエレン・リプリーである。いずれも戦闘力や知力でなみいる男性キャラに優り、みずから道を切り開く戦う女たちであった。


 こういった物語とキャラが隆盛した背景には、ひとつには第二波フェミニズム、もしくはウーマンリブと呼ばれる女性の権利運動とその成果があった。第二波フェミニズムは1960年代から80年代にかけて盛り上がったフェミニズムである。



第二段階:女たちの連帯へ


 だが、2000年代から2010年代にかけて、そういった秀でた個人としての女性の物語への疑念が生じ、その再検討が行われたように思う。それをもっともよく表したのが、2013年の『アナと雪の女王』であった。


 『アナ雪』のダブル主人公、エルサとアナのうち、エルサは第一期の「戦う女性キャラ」を引き継ぐものだっただろう。彼女は圧倒的な魔法の力を持つ美女である。だが、彼女は同時に自らの力の制御に悩み、そのために孤独の苦しみに陥っている。



 対するアナは、ディズニー自身の過去作品を相対化する存在だ。彼女はシンデレラ的な「運命の人との出会い」の物語(つまり専業主婦的な物語)をいまどき信じてしまう、ある種時代遅れな人として表象される。


 『アナ雪』は、アナによって専業主婦的女性像を否定し、また1980年代以降の「戦う個人としての女性」の苦難をエルサで表現し、最終的にはそれぞれの苦境を二人の愛=連帯によって解決する。『アナ雪』は、80年代以降のポピュラーカルチャーで一般化した個人主義的なフェミニズムの限界を乗り越えようとする作品だったといえるだろう。その結論には女同士の連帯が置かれた。


第二段階が手放さなかった「男性キャラクター」たち


 あにはからんや、その後2010年代には、女たちの連帯をテーマにした作品が量産されることになる。先ほど示した三段階のうちの第二段階の到来だ。だが私はこの段階を最新・最終の段階とは見なかった。あくまで二段階目として見た。なぜならこの時期の作品は、女の連帯を描きつつも、「助力者」としての男性キャラクターを手放すことはないからだ。


 女たちの連帯をテーマにした二つの作品、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年)と『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2019年)を例に考えてみたい。



 この二つの作品は、女たちの連帯がその物語の中心に据えられ、感動を与える作品になっている。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、核戦争後の世界で水資源を独占する独裁的首領イモータン・ジョーのハーレムに囲われた女性たちを、ジョーの軍隊を率いる女性隊長のフュリオサが脱走させ、フュリオサが子供時代を過ごした「緑の地」を共に目指すという物語である。


 一方の『ターミネーター:ニュー・フェイト』は、ジェームズ・キャメロン監督の「オリジナル」である『ターミネーター』(1984年)と『ターミネーター2』(1991年)の正嫡の続編として作られた新作であるが、大きなトピックとしては、「オリジナル」の二作で魅力を放った「戦う女」であるサラ・コナーが、歳を重ねつつも往年の胆力と戦闘力もそのままに大活躍をすることだった。それだけではなく、『ニュー・フェイト』の新キャラたち、つまり未来の世界で抵抗軍のリーダーとなるべきメキシコ人女性のダニーと、ダニーを守るためにその未来から送られてきた強化人間の女性兵士であるグレースとの、タイムパラドクスのプロットが編み出す守る者と守られる者の交代も含んだ連帯が、印象的かつ感動的な作品になっている。



男たちはどうなった?


 今挙げた二作では、こういった女たちの連帯の物語が特徴的に出てきているのだが、『マッドマックス』と『ターミネーター』というこの二つのエポックメイキングなシリーズ作品の、元々の中心キャラ、それも男性キャラはどうなってしまったのか。ここで言っているのはもちろん、かつてはメル・ギブソンが、そして今回はトム・ハーディが演じたマックスであり、アーノルド・シュワルツェネッガーが演じたターミネーター(T-800)である。


 結論から言うと、女性の連帯を中心とする物語の中で、彼らは「サポート役に回る」。


 私にとっては、女性主人公(たち)をサポートする男性キャラの原型は『風の谷のナウシカ』のアスベルだ。アスベルは、(漫画版ではより明確だが)あらゆる点で彼よりも秀でている主人公ナウシカを恋慕しつつも、最終的には遠くから見守るといったポジションをとって終わる。宮崎駿作品で言えば、このアスベルのなれの果てが『千と千尋の神隠し』(2001年)で主人公の千尋を助力しようとして空回りするカオナシではないかと思う。カオナシは、女性が中心となった物語の中で自分の存在価値についてのパニックに陥った男性性の暴走と断末魔のようなものだ。



  こちらの記事 でも述べたが、このような男性の系譜には、『アナ雪』『アナ雪2』のクリストフ、『スター・ウォーズ』新シリーズのフィンなどがいる。


 『マッドマックス』『ターミネーター』についても同じである。マックスはフュリオサとハーレムの女性たちを、最初は出しぬこうとするものの、結局は彼女たちを助力し続ける。フュリオサへの輸血はその集大成だ。また、『ターミネーター2』では少年ジョンの擬似的な父親となったT-800は、『ニュー・フェイト』においては(といっても『ターミネーター2』とは別の個体なのだが)人間の妻・子と家族をつくっているが、それを捨てて主人公の女性たちを助ける役割を果たす。


男性キャラが助力者に回ることで「保存」されたもの


 さて、このような「サポート役としての男性」という類型を提示されて、男性読者はどう感じるだろうか? フェミニズムの隆盛のお陰で女性たちは大活躍し、男性はそのサポート役しか残されていないなんて、俺たちかわいそう、と感じるだろうか。そう感じるとしたら、それはちょっと現代という時代が分かっていないと、申し訳ないが言わなければならない。


 まずひとつには、ここで話しているのは映画というポピュラーなメディア上の物語の話である。現実には男性優位の社会は大まかにはひっくり返ってはいない。だから、上記のようなことを知ったからといって「男がかわいそう!」とパニクる必要はない。


 それとは別に、男性キャラが助力者に回るというのは、じつは男性性の「保存」のための手段だとも言える。男性優位の社会が大きなところで変わっていないとはいえ、旧来的な男性性がそのまま通用可能なわけではない。そこで「やさしい助力者」という新たな男性性が発明される。そういうポジションにつける男性は「先進的で意識が高い」とみなされる、というおまけまでつく。イクメンという言葉で思い浮かぶ男性像はどのようなものだろうか。



 フェミニズムの側から見ると、この第二段階、つまり女性たちの連帯を描くけれども、男性キャラがあくまで助力者として保存される物語は、ある種の「男性に忖度したフェミニズム」を想起させるかもしれない。私たちは女同士で連帯しますが、男の役割も否定しませんよ。そういう、男の「お気持ち」は傷つけないフェミニズム。



第三段階:新しい女の連帯へ?


 さて、第三段階、「新・女たちの連帯の物語」である。ここまでくればもう分かっていただけるだろうか。『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』がこれまでの女の連帯の物語と一線を画しているのは、この映画がもはや助力者としての男性キャラを必要としていないためだ。ハーレイとバーズ・オブ・プレイの連帯に、マックスやT-800のような「力仕事をする男の人」はもはや必要ない。それがこの映画の「痛快さ」の根源にある。


 このように見てこそ、ハーレイ・クインを演じたマーゴット・ロビーが、セクハラをされる若いジャーナリストを演じた『スキャンダル』(2019年)は、『ハーレイ・クイン』とセットにして観るべき映画として立ち現れる。


 FOXニュースの創立者ロジャー・エイルズのセクハラ(ちなみに彼によるマーゴット・ロビーへのセクハラのシーンは、『ハーレイ・クイン』でユアン・マクレガー演じる悪役ブラックマスクによる「セクハラ」の場面とそっくりである)を告発した女性たちの物語である『スキャンダル』は、#MeToo映画と呼ぶことができるだろう。そして、女たちによる、女たちのための連帯が#MeToo運動であるとするなら、『スキャンダル』と同様に『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』もまさにそのような意味での#MeToo映画なのだ。




(河野 真太郎)

文春オンライン

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