西岡徳馬「役者人生の始まりは小学生。惜しまれつつ3年で辞めた《児童劇団》。もしあのまま子役を続けていたら…」
2025年4月1日(火)12時30分 婦人公論.jp
文学座に入ったばかりの頃の俳優・西岡徳馬さん(写真提供:『未完成』幻冬舎)
78歳、役者歴半世紀以上でも「まだ、足りねえ……!」喜びも悲しみも、演技こそが己の魂を呼び覚ますと語る、俳優・西岡徳馬さん。新境地を開いたつかこうへい演出の舞台『幕末純情伝』、一世風靡した『東京ラブストーリー』、そして2024年エミー賞最多部門賞受賞『SHOGUN 将軍』など、圧倒的な演技力と、作品に深みをもたらす存在感で幅広く活躍されています。そんな西岡さんが、文学座での初舞台からこれまでの俳優人生を振り返る、初の自伝本『未完成』より一部を抜粋して紹介します。
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小学生で池部良、岡田茉莉子と共演
幼少時に楽しかった思い出といえば、映画好きの両親に連れて行かれた映画館だ。まぁ、映画を観るというより寝かしに連れて行かれたというほうが正しいかもしれない。
映画館に入ってサイダーでも飲ませておけば、暗くなりゃあ子供はすぐに寝てしまうからと、私と弟が日替わりで連れて行かれた。
桜木町駅から日ノ出町駅までの通りにはセントラル劇場、マッカーサー劇場という当時ならではの名前の映画館が並んで建っており、真っ白な建物の前には大きなシュロの木が植えてあって、子供ながら素敵だなあと思っていた。
両親とも洋画好きで、父は西部劇、活劇専門だったように思うが、私が覚えているのは、『キング・コング』と『ターザン』。
母はもっぱら現代劇が好きで、殊にゲイリー・クーパーの大ファンだった。母方の従姉妹といっても14歳も上のタマちゃんが、児童劇団で芝居をしたり、事務の手伝いをしたりしていて芝居の子役を探していた。そこで私に白羽の矢が立った。
「ちょっとノリちゃん、ここからここまで歩いてきて、『どうもありがとうございました』と言っておじぎをしてごらん」と言われてそうすると「うまい、うまい」と褒められ、挙句の果てにはおだてに乗って「東宝児童劇団」というところに入れられたのが役者人生の始まりだ。
1人で通った芝居の稽古
小学校に入ってすぐ毎週日曜日になると、東横線で横浜駅に行き、京浜東北線に乗り換えて東京の上中里という駅まで行き、そこから歩いて15分のところにある幼稚園が稽古場だった。
家を出てから1時間半もかかった。初めの2、3度は母が連れて行ってくれたが、あとは一人で行かされた。
今思えば私もよく通ったと思うし、親もまたよくやらせたものだ。1953年といえばまだテレビも普及していない時代なので、たまに来る仕事は、もっぱら映画ということになる。
オーディションでちょっとした台詞としぐさをやらされて選ばれ、何本かの映画にも出た。覚えているのは、東宝映画の池部良さんと岡田茉莉子さんが主演の『旅路』という時代劇だ。
股旅姿の池部さんと岡田さんが並んで土手を歩くシーンで、向こうから風車を手に持って走ってくる子供の役だった。
片岡千恵蔵さん主演の『三つ首塔』という映画にも出た。
片岡さんが金田一耕助を演じた東映のシリーズの最終作だ。金田一耕助が部屋で捜査中、近くで野球をやっている少年の一人がガラスを割って入ってしまったボールを追って「おじさんボール取っておくれよ」と声をかける役をもらった。
当時のスーパースターの力道山さんが出演していた日活映画にも出たことがある。昼休み中、上半身裸で両手のダンベルを上げ下げしている国民的ヒーローが眩しかった。
『未完成』(著:西岡徳馬/幻冬舎)
学校を休んで参加した、映画の撮影
小学校3年生の時に私は初めて、タイトルに名前が出るような大きな役をもらった。それは全国農村映画協会が制作する、出来たばかりの農協に入りましょうという趣旨の映画だ。
『嫁が来てから』というタイトルだった。母1人、子供が5人の農家に起きる話で、私は1番下の子の役。長野県伊那市の古い農家を1軒借り切って1ヶ月にわたるロングロケが行われることになった。
夏休みが終わって秋になっていたが、私は学校を休んで参加した。撮影の合間には牛舎の牛に餌をやったり、鶏を追いかけたりして楽しかった。
演技も監督に褒められて嬉しかった。中でもとりわけ覚えているのは、兄弟でハーモニカを取り合うシーンだ。
私がハーモニカを吹く順番を待って、「お兄ちゃん早く早く〜っ」と身体を動かして催促する芝居をしていると、若い助監督が「ノリちゃん、おしっこに行きたいんだったら行っといで」と言った。
すると監督が横から「バカ、今いい芝居してるんじゃないか、お前には分からないのか」と怒鳴った。「この監督はよく分かっているなぁ」と私は子供心ながら、この今泉さんという監督が好きになった。
ロケは順調に進んでいたがある日、例の喘息の発作が起きた。宿舎にしていた旅館の廊下で、どうしたらいいかと母に電話をしていた児童劇団のマネージャーのおじさんが電話の後、面倒臭そうに病院に連れて行ってくれた。
そして、私の出番の撮影は3日間も中止になった。子供ながら僕のせいで皆に迷惑をかけてしまったという罪悪感を持った。
全ての撮影が終了して家に帰ると、私は両親に、「もうやりたくないからやめる」と告げた。「何で?」と聞かれたが深くは追及されなかった。
喘息のこともあるが、実は例のマネージャーのおじさんが、「息子の喘息のせいで撮影を中断させて申し訳ないからスタッフの皆さんに何か差し入れを」と、親が送った何なにがし某かの金をくすねて、一人で飲みに行ったりしていたのを知っていたのだ。が、親には申し訳なくて言えなかった。
児童劇団での3年間の子役経験
ちなみにその映画の配役は、母親役が原泉さん(詩人で作家の中野重治さんの奥様)で、長男が鈴木昭生さん、次男が小林昭二さんだったと後になって分かった。新劇界の大先輩たちだった。
文学座に入ってその原泉さんとNHKのドラマでお会いした。お年を召していらしたし、ちょっと厳しそうな方なので恐る恐る「原さんあのー20年前の『嫁が来てから』という映画、覚えていらっしゃいますか?」と質問すると、「覚えてるわよ、今泉ちゃんが監督でね、いい映画だったけど、あの時は喘息の子がいてね。可哀そうで大変だったわ」と仰(おっしゃ)ったので、「その喘息の子、僕です」と言うと、原さんは大いに懐かしんでくれ、「それで喘息のほうは大丈夫かい」と尋ねてくださった。優しいおばあちゃんだった。
小林さんには『ゴジラVSキングギドラ』という映画でお会いして、「あれは君だったのか」と、やはりとても懐かしんでくれた。児童劇団の3年間で、少しだけ大人の世界を垣間見た気がした。
いい役をもらった直後だったので、「ここでやめてしまうのはもったいないですね」と、児童劇団の方から言われたが、「もうやりたくない」とそれしか口にしなかった。
もしあのまま子役を続けていても今のような俳優にはなっていなかったのでないか。ちやほやされて増長し、鼻持ちならない奴になっていたかもしれない。
3年間子役としての経験を積んだ後、一旦演劇から離れたことは結果的に良かったと思っている。
※本稿は『未完成』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。