マキタスポーツが語る「ゴールデンボンバーに近いことをやろうとしてた」デビュー前夜

4月14日(日)11時0分 文春オンライン


 芸人、俳優、ミュージシャン、文筆家と、業界やジャンルを横断しながら活躍中のマキタスポーツさん。芸能生活20周年という節目の年、48歳にして所属事務所の退所を発表しました。「テレビブロス」でおよそ8年にわたって連載しているコラムと、その連載をまとめた書籍『 越境芸人 』の担当編集者・おぐらりゅうじさんとマキタさんが、“越境”しながら考えたことを語ります(全5回の1回目/ #2 、 #3 、 #4 、 #5 が公開中)。



◆ ◆ ◆


70年生まれと80年生まれの二人


マキタ この本『 越境芸人 』は、雑誌「テレビブロス」に連載していたコラムがもとになっているんだけど、6年ぐらいやってたのかな。


おぐら 連載の開始が2011年の10月で、終わったのが2018年の3月ですね。


マキタ 始まった時は41歳か。俺は1970年生まれで、おぐら君は1980年生まれだから、ちょうど10歳違うんだよね。世代差による感じ方の違いはもちろん、生きてきた環境の違いもあって、おぐら君のことは刺激を与えてくれる供給源みたいに思ってる。だからブロスの連載がリニューアルするタイミングで、次は書き下ろしの原稿ではなく、おぐら君との対談形式にしたかった。





おぐら 今回の書籍化もありつつ、ブロス本誌がリニューアルしたのを機に、マキタさんのコラム連載は一旦終了しましたが、今は僕が相手になって対談連載という形で引き継いでいます。


マキタ 本の中でも発揮されているように、俺なんかはつい頭でっかちに考えちゃうんだけど、おぐら君はフットワークも軽いし、興味・関心領域も広範囲で、ちょうどいいチャラさなんだよね。


おぐら 編集者が本業ではあるんですが、この文春オンラインでも速水健朗さんと時事対談をやっていたり、映画『 みうらじゅん&いとうせいこう 20th anniversary ザ・スライドショーがやって来る!「レジェンド仲良し」の秘密 』の構成と監督をしたり、最近は お笑いライブ のプロデューサーみたいなこともやっているので、まわりからは浮ついてると思われてるだろうなっていうのは感じています。



マキタ 本のタイトルになった「越境」というのは、俺自身が芸人という出自を持ちながら、同時に音楽活動もしていて、ひょんなことから俳優業もやるようになり、どこへ行っても専業で定住している人たちとは違うんだっていう実感から付けたんだけど、そういう意味ではおぐら君も立派な「越境編集者」だよ。言ってしまえば、怪しい業界の人間。


おぐら でも僕が編集者を目指すきっかけになった、いとうせいこうさんも当たり前のように越境していたので、なんとなくそういう立ち位置に憧れていたところはあります。


マキタ リリー・フランキーさんとかね。


おぐら ケラリーノ・サンドロヴィッチさんとか。


マキタ そういう一般社会から見れば何が本業なのかわからないような動きをしながら、結果、文化の中心で確固たる地位を築いた先人たちは、名前こそ平仮名やカタカナで人懐っこく見せているけど、相当ヤバい人たちだからね。



バブルを体験すべく、1988年に上京


おぐら うちの実家は埼玉で代々続く床屋なんですが、僕が会社に就職しないでこういう道に進んだのは、両親が自営業だったことも影響しているのかもなって。


マキタ サラリーマンがいない家庭で育ったことは関係あると思う。


おぐら マキタさんのご実家も自営業ですし。


マキタ 山梨の「マキタスポーツ店」だからね。商店街にあるスポーツ用品店で、まわりは八百屋に肉屋に金物屋とか。近所にもサラリーマンがいなかったから、勤め人がスーツ着てネクタイ締めて出かけていく姿を見かけると、子供ながらに「仕事しにどっか行くんだ。すげー」って思ってたよ。



おぐら 僕の両親もずっと家で仕事をしていたので、子供の頃はスーツ着て出社する姿には憧れてました。でもそれを父親に言ったら「サラリーマンなんかになるな」「組織に頼らないで自分で稼げ」って返されました。


マキタ とはいえ、俺の育った時代は都市型ニューファミリーでしょう。休日になると父親はマイカーでゴルフに行き、母親は庭で花に水をやり、レースのカーテンの向こうから娘の弾くピアノの音が聞こえてくる、みたいなさ。



おぐら 90年代のはじめくらいまでは床屋もバブルでした。うちは本職の方も多く来店する土地柄だったので、パンチパーマやアイパーを注文する人がたくさんいて、僕が店で本宮ひろ志の『ドン 極道水滸伝』とかを読んでると「おい坊主、しっかり勉強しろよ」って1万円くれたりしました。さすがに小学生だったので、すぐ親に没収されましたけど。


マキタ いい話だなぁ。そんな中、俺は大学入学を機に東京でバブルを体験すべく、1988年に上京した。


おぐら バブルの時代に大学生はうらやましいです。


マキタ 全然だよ。当時俺が住んでいたのは、ドブ板みたいな裏東京だから。山梨では抜群の存在感を放っていたのに、東京の大学に入ったらまったく友だちができなくて、だんだん学校にも行かなくなり、結局ノイローゼになった。


おぐら それはどのくらい続いたんですか?


マキタ 丸1年くらいかな。その時期までは東京に来たこと自体のショックも大きくて、世の中の景気とかわかんなかった。それでようやく社会復帰して、歌舞伎町でバイトを始めたの。髪の毛にメッシュ入れて、サパークラブで働いてた。


おぐら いきなりメッシュでサパークラブ! 振り幅がすごい。



東京に来て、俺のことを知ってるやつが誰もいない


マキタ 東京に来て何がびっくりしたって、俺のことを知ってるやつが誰もいないんだよ。


おぐら 当然そうなりますよね。


マキタ いま考えると当たり前なんだけど、当時は本当にそれが衝撃で。ずっと田舎の狭いコミュニティの中にいたから、自分のことは説明不要だったわけ。新しいコミュニティに行ったとしても、あいつは山梨北中出身で超おもしろいんだぜって、必ず説明してくれる人がいたから。東京に来て初めて、自分が見知らぬ人に対するプレゼン能力が極めて低いことがわかった。



おぐら ただ、上京した人の中にも、地方出身であることが強みになる人もいますよね。


マキタ いるんだよ。この前、地方出身の元営業マンに聞いたのは、東京では積極的に、むしろ地元にいた時よりもキツく訛るようにしてたって。そうすると名前を覚えてもらえるから。コンパとかでも訛りでしゃべると「何言ってるかわかんねーよ!」ってツッコミが入ることで場が盛り上がったり、かなり有利だって言ってた。


おぐら タレントでもそういう売り方はよくあります。


マキタ タレントもそうだし、もはや戦略としては政治家。東さん(東国原英夫)が宮崎県知事に立候補したとき、急に訛りはじめたでしょ。


おぐら それまで「どげんかせんといかん」なんて言ったことなかったのに。


マキタ 芸人になるためにとっくに捨てた故郷を、政治家になった途端、利用するっていう。



おぐら いまでいうセルフブランディングの一環ですよね。


マキタ 東京の人は方言に限らず、風習でも何でも、得体の知れない田舎に満足するんだって。


とにかく都会の人間は秘境が大好き


おぐら バラエティ番組でも『秘密のケンミンSHOW』とか『ポツンと一軒家』とか、その最たるものとして『クレイジージャーニー』みたいな異国の少数民族とかに行き着くわけで。もっと言えば、場末のスナックとかに興味を持つのも同じ流れかなと思います。とにかく都会の人間は秘境が大好き。


マキタ 実際に現地で暮らしている人たちから見ると「そんな方言もう使ってない」とか「そんな風習とっくに廃れてる」とか、いろいろ言いたいことはあるんだろうけどね。



おぐら 興味本位の人たちやメディアにとっては関係ないですから。自分たちはどんどん新しいものを取り入れていくのに、秘境には発展してほしくない。ノスタルジーの押し売りですよ。


マキタ その元営業マンいわく、なかには田舎者に対して嫌悪感を抱く人たちもいて、反応は真っ二つにわかれるらしいんだけど、ネガティブな反応を示す人たちは相手にしないんだって。すべてを取り込もうとしないその戦略、もうどんだけ賢いんだよっていう。


おぐら その方はいずれ地元に戻って議員にでもなりそうですね。


マキタ まさにいまUターン組として地元でボランティアやってるって。すでに選挙の前哨戦がはじまってる。



東京ではじめた「ゴールデンボンバーに近いこと」


おぐら マキタさんは上京したあと、芸人とバンド、どっちからはじめたんですか?


マキタ 形式としてはバンドを組んだけど、バンドをやってるおもしろい人になったほうがいいって思ってた。


おぐら だいぶ戦略的じゃないですか。バンドでコミカルなこともやる感じ?


マキタ あえて例えるなら、いまでいうゴールデンボンバーに近いことをやろうとしてたんだと思う。固定で3人のコアメンバーがいて、そこにサポート的なメンバーを入れたりするような形態。でも自分以外の2人もあんまり俺がやろうとしてることを理解できなくて、当時は人のせいにしていたけど、いま思えば単純に俺のプレゼンが下手だったんだよね。何をどうしたいのか、うまく伝えられなかった。


おぐら コミックバンドとは言わないまでも、コメディ要素を取り入れたバンドは当時もいましたよね。



マキタ 米米CLUBとかね。でも米米は大所帯だし、俺はもっとコンパクトにやろうと思ってた。俺がギターボーカルで、もうひとりギターがいて、もうひとりはベース。で、それぞれ3人のMCが漫才になっていたり、ちょっと趣向を凝らしたフォーメーション的なボケをやったり。あとは、お客さんの中に仕込みのサクラを入れておいて、ステージに上げてコントをやったり、スケッチブックを使ったネタみたいなこともやってた。


おぐら 初めて聞きました、その話。


マキタ 3人で練習するんだけど、メンバーの2人はお笑いへの関心が低かったんだよね。もともと音楽の素養を見込んでバンドを組んだわけだし。それで俺がダメ出しをしたりすると、だんだんスタジオに来なくなって、活動期間は実質1年もやってない。


おぐら じゃあ自然とピン芸になっていったと。


マキタ その前に、懲りずにまた同志を募ろうと思って『ぴあ』の募集告知に載っていた小さなお笑い劇団に応募したの。そこに潜り込んでメンバーを探そうと思って。


おぐら 当時の『ぴあ』は存在感あったんですね。松尾スズキさんも1987年に『ぴあ』の投稿コーナーで劇団員を募集して「大人計画」を旗揚げしています。


マキタ 90年代まではみんな『ぴあ』読んでたよ。結局、その劇団で気が合いそうなやつとコンビを組んで吉本の劇場とかのオーディションに行ったの。


おぐら それも初耳です。その時期のことって、ほかで話してます?


マキタ あんまり話してないね。



相方はダウンタウンに“悪い感化”のされ方をしてた


おぐら ネタは楽器を持ってやってたんですか?


マキタ 楽器は持ってた。2人で音楽ネタをやっていたんだけど、そのときの相方は劇団の座長だったので、気質がお山の大将だったし、当時のダウンタウンに悪い感化のされ方をしてたんだよ。


おぐら お笑いは偉いんだ、だから媚びねえぞ、みたいな。


マキタ そうそう、妙に偉そうなの。


おぐら 吉本の劇場でオーディションを受けていたときの同期って誰ですか?


マキタ 俺が受けてたのは渋谷公園通り劇場だったから、そこだとガレッジセールとか。1995年か96年くらいかな。


おぐら 『今田耕司のシブヤ系うらりんご』が渋谷公園通り劇場から生放送してた時期ですね。


マキタ 銀座七丁目劇場だとダイノジも同じ時期かな。それで吉本ならとりあえず人が多いし、それだけ可能性もあるから入ってもいいと思ってたんだけど、新人は劇場のチラシ配りとかをさせられるのを、その座長だった相方が「そんなの俺はやらない」って。


おぐら 悪い感化のされ方が(笑)。


マキタ オーディションには何回も受かったのに、結局そいつが来なくなって吉本への道は閉ざされたんだよね。


( #2 に続く)

写真=文藝春秋/釜谷洋史




(おぐらりゅうじ)

文春オンライン

「マキタスポーツ」をもっと詳しく

「マキタスポーツ」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ