大和田美帆さんが大和田獏さんと『徹子の部屋』に登場。岡江久美子さんの思い出を語る「母・岡江久美子はみんなを照らす《太陽》でした。父とともに喪失感を乗り越えて」
2025年4月14日(月)11時0分 婦人公論.jp
「うれしかったのは、配信後に父がすごくほめてくれたこと。ああ、本当にやってよかった。私は喪失感を抱えたままの父にも《節目》を迎えさせたかったんだ、と気づきました」
2025年4月14日の『徹子の部屋』に大和田獏さん&大和田美帆さん親子が出演。岡江久美子さんが亡くなってから5年。4年前から始めた獏さんと美帆さんの二世帯同居について語ります。そこで、母・岡江さんの一周忌を終えた後の気持ちを語った『婦人公論』2021年6月8日号の独占告白記事を再配信します。
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女優・タレントの岡江久美子さんが新型コロナウイルスによる肺炎で逝去したのは、2020年4月23日のことでした(享年63)。一周忌を終えた娘の大和田美帆さんのいまの思いは(構成=平林理恵 撮影=宮崎貢司)
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母が亡くなったことに心が追いついていかない
岡江久美子さんの没後1年となるその日に、夫の大和田獏さんと娘の美帆さんは、音楽葬「スマイル! 岡江フェスティバル〜音楽とともに〜」をオンラインで動画配信した。ピアノの生演奏が流れ、岡江さんの友人たちが楽しい思い出話で故人を偲ぶなど、心あたたまる雰囲気の会となった。
そのなかで、これまで取材を受けてこなかった獏さんは涙をこらえつつ、初めて妻の最期を語った。この生配信を企画し、撮影も手がけた美帆さんは、「ようやく私のなかで何かが完結しました」と振り返る。
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今日は母のワンピースを着てきました。服のサイズはぴったりなんです。
2020年の4月に母と私たち家族に起きたことをお話ししたいと思いますが、いまでも実感がありません。父と私は入院した母を見舞うことも、看取ることも、お葬式をすることもできませんでした。
それ以降、心の置き所がないままに月日は流れ、母が亡くなったことはわかっているのに、心が追いついていかないという状態が続いています。いまも、日常のふとした瞬間に突然涙があふれてきます。
昨年から、一周忌にどのような会を行うかについて、事務所の方から私たちに相談をいただいていました。でも今年になってもコロナ禍が収まらない状況で、やはり人をお招きする形でのお別れ会を開くのは難しいということに。
私自身は、何もしないままその日を迎えることは考えられず、何か別の形で母を偲び、みなさんに感謝をお伝えしたいと思いました。
「私のときも、音楽葬にしてね」
お葬式ができていないことから、そうだ、ネット配信の音楽葬にしよう、とひらめいて。自分の両親を音楽葬で見送っていた母は、無類の音楽好き。「私のときも、音楽葬にしてね。曲はロッド・スチュワートの『スマイル』で」と言っていたことを思い出したのです。
母がコロナウイルスにより突然命を奪われたことは、みなさんからかわいそうだと言われる出来事だったと思います。ですが、父と私は、母の死に方ではなく、太陽みたいに明るく周りを照らしてきた母の「生き方」をみなさんに覚えていていただきたいという思いがありました。音楽葬がそのきっかけになればと思ったのです。
大好きだったジャズやミュージカル音楽を流しながら、いつも笑顔だった母をにぎやかに明るく偲ぶ日にできたら……。そうテーマが決まったとたん、何かに突き動かされているかのような勢いで実現へ向けて動き出していました。
3日間限定の配信でしたが、たくさんの方に見ていただき、「岡江さんを偲ぶことができて、気持ちの節目になりました」などという温かい感想も頂戴して、私は達成感でいっぱいになりました。
「悩んでいる時間がもったいない」と、どんどん実行していく力、元気な体、前向きさ——考えてみたら、これらはすべて母が私に与えてくれたものでした。きっと、母も喜んでくれたと思います。
うれしかったのは、配信後に父がすごくほめてくれたこと。「ありがとう、よくやったね」と、何度も何度もうれしそうに。ああ、本当にやってよかった。私は喪失感を抱えたままの父にも「節目」を迎えさせたかったんだ、と気づきました。
おしゃべりな仲良し親子3人。左から大和田獏さん、美帆さん、岡江久美子さん(写真提供:大和田美帆さん)
父に譲った最後の面会
岡江さんは20年4月3日に発熱、4、5日様子を見るよう言われ自宅で療養に努めるも、容体が悪化し、即入院。ICUで人工呼吸器をつける直前、獏さんとメールで交わした「美帆に、大丈夫だから心配しないでと伝えて」が最後のやりとりになったという。
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母の入院後の経過は、父からの電話で聞いていました。父は濃厚接触者であると自分で判断し、母の入院後も誰にも会わずに自宅で一人、自主隔離の生活。私は食べ物や生活に必要なものを買って持っていき、父には会わず玄関先へ置いてくる。
いつ病院から連絡が入るかわからないので、父は、家のなかでも携帯電話を肌身離さず持ち歩いていたそうです。それがどんな時間だったのかと思うと、いま考えただけでも胸が痛くなります。
入院が長引くにつれて、ICUにいる母を励ましたいという気持ちが強くなっていきました。「メールで音声だけでも届けたい」「防護服を買ってでも会いに行こうよ」、そう父に頼んだけれど、父は、いま病院は大変な状態にある、さらに混乱させるようなことはするべきじゃない、と。私自身の当時の記憶はほとんど飛んでいて。悲しみよりも、こんなことが実際に起こるのかと、自分たちに降りかかったことを遠くから観察しているような状態でした。
母が息を引き取ったのは、4月23日の早朝。父と二人で病院へかけつけたかったけれど、感染予防のため、院内に入れるのは一人だけ。「パパはママの顔を見たい」。こう言われたら、娘としては「どうぞ」と言うしかありませんでしたね。
病院で、防護服を身につけた父は、全身を包まれて顔だけが見えるようになっていた母に対面し、触れることもできず、慟哭。10分ほどただ寄り添っていたそうです。
私にとっての母は、生前の元気な笑顔のまま
そのとき、母の顔を見つめながら、「おまえ、死んでもきれいだな」と思ったということを、私は先日の配信イベントで初めて父の口から聞きました。それを聞いた私は、「ああ、やっぱり、父は母のことを大好きだったんだな」と妙に納得しました。もちろん母も父を愛していたけれど、父は惚れ込んでいましたね。
母はいつも鳥のように大空を飛んでいて、その姿をずうっと見ていたのが父。彼女を自由に羽ばたかせないと死んじゃうのがわかっていたから、父は文句ひとつ言わず見守り、母はのびのびと生きることができた。
それにしても、こんな形で私たちの前から姿を消すなんて、こわいくらい「母らしいな」と思わざるをえません。生前のイメージのまま、弱った姿を誰にも見せず、「じゃあね、またね!」と言うかのように、さっと旅立ちました。
母は自分が苦しんだり、弱ったりしているところを絶対に人に見せない。体調がよくないときは「部屋に入ってこないで」と家族に言い渡す人でした。19年末に乳がんの手術を受けることも、しばらく私たちに隠していたくらいです。
悔やまれるのは、発熱後の自宅療養の数日間のこと。母に容体を聞くと「大丈夫」と。でも、もともと「平気、平気」と強がる人なのだから、もっと気をつければよかった。がまん強い母が、最後のほうは「しんどい。食欲がない」と言っていました。とてもつらそうなのを父が察知して、かかりつけ医に見てもらい、その後入院となりました。
感染予防の観点から遺族が火葬に立ち会うことも認められず、私がようやく母に会えたのは、遺骨になってから。だから、私にとっての母は、生前の元気な笑顔のまま。母はそのことを悪くは思っていない気がします。
自宅で自主隔離を続けていた父と再び対面で話せるようになったのは、5月頭でした。この間ずっと、父は亡くなった母との思い出あふれる家で、たった一人で過ごしていました。そんな父の救いになったのは、孫の存在だったようです。しょっちゅうテレビ電話をかけて、私の娘とおしゃべりをさせました。「ばくちゃん」と娘に呼ばれると、父に笑顔が戻った。父に孫がいてよかった、と心底思いました。
「一度だけ両親に対して、『なんで私を産んだの』と本気で怒りをぶつけたことがあります。芸能人の子どもということで嫌な思いをいっぱいした小学生の頃。」
ポジティブな母の性格を受け継いで
『婦人公論』に登場するたびに、家族の近況を楽しく披露してくださった岡江さん。美帆さんにとって、どんな母親だったのだろう。
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母は前向きで、発想の転換がとにかく上手でした。たとえば道に迷っても、迷った先で素敵なお店が見つかったらラッキーと考えることができる。そんな母の影響で、私はポジティブな性格に育ててもらいました。
家でじっとしている姿は見たことがありません。仕事はすごく忙しかったはずですが、家事育児はほぼ自分でこなしていました。朝からフル回転で家事をしてから仕事に行き、さらに自分が楽しむために、友人との食事や旅行などの時間もちゃんと捻出。あれでは休んでいるヒマはありませんよ。母を知る人たちからは、「止まったら死んじゃう回遊魚だね」と言われていました。
父と母は、性格的には正反対でしたね。母はいつも前向きでポジティブ、刺激を求めてどんどん行動するタイプ。一方、父は慎重で先々のことを考えて予測し準備してから動くタイプ。私の性格は母譲りの部分が大きい気がします。
教育方針も二人は全然違いました。父は厳しくて、有無を言わさずダメなものはダメ。母は教育については何も言いませんでした。両親から勉強しろと言われたことはなく、習い事はなんでもやらせてくれました。
怒りをぶつけたら、母は後ろを向いて泣き出した
一度だけ両親に対して、「なんで私を産んだの」と本気で怒りをぶつけたことがあります。芸能人の子どもということで嫌な思いをいっぱいした小学生の頃。知らない人の視線にさらされている恐ろしさ。一人っ子だったので私の気持ちをわかってくれる人はいない。
その怒りを二人にぶつけたら、母は後ろを向いて泣き出してしまいました。父は「僕たちは誇りを持ってちゃんとした仕事をしている。後ろめたく思う必要はないんだよ」と。そして、「そんなふうに思わせてごめんね」と、しっかり受け止めてくれました。
母は、たぶん私に「ごめんね」と言ってしまったら、仕事に生きてきた自分を否定することになると考えたのではないかなと思います。私を残して仕事に出かけるとき、「ごめんね」という言葉をのみ込んで、明るく「行ってきまーす」と言うのが母でした。
でも、あの頃の私は自分の気持ちに気づいてほしくて、母のやさしい「ごめんね」がほしかった。私自身が働く母親になったいまなら、母の気持ちはよくわかります。
いま、私の娘は5歳。先日、私が茶碗を洗っていたときに、突然母のことを思い出してぽろっと涙をこぼしてしまったんです。そしたら娘が私をぎゅっと抱きしめて、「私がいるじゃない」と。子どもの頃の自分の姿と重なって見え、「ああ、この子を無理にがんばらせちゃいけない」と反省しました。
私の舞台を楽しみにしてくれていた母
多忙な両親のもとで育ったおかげというのか、私は寂しさを紛らわすためにイマジネーションの世界に逃げ込みました。留守番の間はいつも一人で、鏡の前で歌ったり踊ったり演技をしたり。長じて、俳優という職業につくことができたのは幸いでした。
このことを誰よりも喜んでいたのは、お芝居が好きで、ミュージカルファン、宝塚オタクだった母。私には一言も言ってくれなかったのですが、私の舞台を観に行くことを何よりも楽しみにしていたようです。
観に来ても、母の感想は「あそこの芝居が気になった」とか厳しくて。それでいて、自分の友達には「美帆がすっごくよかったから、観に行ってくれる?」と宣伝して回っていたようです。直接言ってくれたらどんなにうれしかったか!
私が以前出した『ワガコ』というエッセイ集では、自分が母になってようやくわかったことや、母への感謝の気持ちを書きました。母のことをちゃんと書き残すのは私の役目だろうと考えて。だから母が読んだらどれだけ感動するだろう、と思っていたのですが、感想はゼロ。
ところが、『徹子の部屋』では泣きながら本の話をして、「がんばって育ててきてよかった」なんて話していて。どうしてこの人はこうなんだろう。じつはとても恥ずかしがり屋なの? と不思議で仕方ありませんでした。
そんな母が明らかに変わったのは、19年末に乳がんの手術を受けたあと。私がブログにアップしたお弁当の画像に「色味が微妙」とか「かわいくない」などと厳しかった母が、「がんばったね」「おいしそうよ」とほめてくれるように。また、先約をことわってでも、私の娘の面倒を見てくれるようになりました。
彼女のなかで何かが大きく変わったのは確かで、いつかゆっくり話を聞いてみたいなあ、と思っていた矢先だったのです、母のコロナ感染は……。
コロナ禍はまだ続いています。いま現在も症状に苦しむ方やご家族、奮闘している医療関係者がおられる。わが家のような悲しみを増やさないためにも、みなさんにはぜひ気をつけていただきたいと思っています。
父と二人、人のためにできることを
20年11月、美帆さんは、獏さんとともに小児がんで闘病中の子どもたちに向けたオンラインコンサートに出演。また今回の「岡江フェスティバル」の収益は、小児がんや難病の子どもたちを支援するNPOなどに全額寄付した。
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私は以前から、病気と闘う子どもたちのためのチャリティ活動をしてきたのですが、母をコロナで失ったあと、父も「これからは人のために生きたい」と口にするようになりました。
ホスピタルクラウン(病院内で心のケアをする道化師)になって子どもたちを笑わせたり、紙芝居や朗読をしたりする「お話オジサン」になりたい、って。タイミングが合ったので子どもたちのためのコンサートに父を巻き込み、「ばくちゃん」というキャラクターで出演してもらうことにしました。
母を亡くして、あらためて感じたのは、人生で大切なのは、蓄えてきたものではなくて、与えてきたものである、ということ。母は周囲の人々みんなを明るく照らし、さまざまなものを残してくれました。それと同じように、入院中の子どもたちに楽しいひとときを届ける活動は、これからも父といっしょにしっかり取り組んでいけたらと考えています。
現在YouTubeで公開中の宮本亞門さん演出のリーディング演劇『スマコ』では、主役を務めさせていただいています。世界で大流行したスペイン風で愛する人を失っても、舞台に立ち続けようとした女優・松井須磨子の役。声をかけていただいたとき、「この役を演じられるのは私しかいない」、そんな思いでお引き受けしました。無料で観劇できますので、一人でも多くの方にご覧いただけたらと思います。
私がこの世界に入るきっかけを作ってくれた母に、もう舞台を観てもらえないことが残念でたまりません。でも、いつも前向きにがんばってきた母への一番の供養は、私も前向きにがんばることだと思うのです。ですので、仕事も子育ても全力でがんばります。いつか「さすが私の子!」と母にほめてもらえる日まで、母が与えてくれた前向きさで生きていきます。
※『日本一わきまえない女優「スマコ」〜それでも彼女は舞台に立つ〜』(総合演出:宮本亞門)は2021年12月31日までYouTubeにて無料公開中