追悼・近藤昭仁さん 一瞬の歓喜と混沌 1995年のベイスターズ

4月17日(水)11時0分 文春オンライン

 信じられないという表情でベースを一周した鈴木尚典が、ホームベース上でもみくちゃにされている。うずくまったその背中は震えている。佐伯が抱き上げる。大魔神佐々木もブルペンから走ってきてハグしている。放心状態のタカノリは「今年はみんな優勝目指して一丸になっているんで!」とお立ち台ではっきり口にした。


 その日の巨人戦は6点ビハインドから点差を詰めるも、5−7で迎えた9回裏はあっさり2アウト。万事休すと思いきや、石井琢と波留が連打。そして3番タカノリがセンター左に逆転サヨナラ弾を叩き込んだ。連日のサヨナラ勝ちで巨人を3タテ。これで38勝30敗の貯金8。3位ながらも首位ヤクルトに4.5ゲーム差まで迫った。——まるで98年あたりの「もののけ」的な試合展開だが、これは1995年7月16日の話。近藤昭仁監督率いるベイスターズはこの年夏場に首位戦線に残り、俄かに注目を集めていた。



1995年の近藤昭仁(左)と初勝利をあげたバークベック


久々の夏場の首位争いにファンは燃えた


 タカノリはまだ高校生っぽい雰囲気が残る23歳。7月に入ってホームランを連発し、3番に定着していた。ローズ、ブラッグス、駒田に頼っていた打線に琢朗、波留、タカノリの1〜3番が機能し始め、マシンガン打線が少しずつ形作られていった時期である。投手陣はヒゲ魔人こと五十嵐と三浦番長が先発ローテに入り、島田直が中継ぎ、盛田と佐々木のリレーで締める勝ちパターンも完成しつつあった。


 それにしても、夏場の首位争いは78年、79年以来の異常事態だ。さらにはオールスター戦でもベイスターズが話題となる。5年ぶりの地元開催、6年連続ファン投票選出ゼロということでTVKテレビや月刊ベイスターズが呼び掛けた結果、好調なチーム状況も相まって佐々木、駒田、ローズ、ブラッグス、佐伯、畠山の6選手がファン投票で選ばれたのだ。監督推薦の盛田、石井琢を加えると計8人。あまりのベイスターズ・ジャックぶりに組織票との批判が相次ぎ、打撃不振にも関わらず選出された佐伯は思わず「日本国中を敵に回してしまいました」と迷コメントを残す。でもそれだけファンは燃え、本気になっていた。


 当時21歳の僕は、しばしばスタジアムに通う傍ら元町裏通りのニンニク料理店《ガーリックジョーズ》でアルバイトをしていた。土日は3時間待ちになるような店だったが、客の少ないある日、店の前で呼び込みをしていると向こうからガタイの大きな黒人のカップルが歩いてくる。まさかと思っていたらそのまさか。怪力ブラッグスと人気R&Bヴォーカルグループ、アン・ヴォーグのメンバーであるシンディ・ヘロン夫人が「今日はすぐ入れる?」とやってきたのだ。


 スタジアムで見るブラッグスもデカいが、間近だと思わず見上げる背の高さ。ヘロン夫人は細身だけどまあ食べる食べる。2人でニンニクたっぷりのステーキ、サラダ、ガーリックライス、ピザを数人前平らげて満足そうに出ていった。握手して貰ったブラッグスの手はまるでファーストミット。「この人に150kmの球を当てて謝らずにぶん殴られた与田って根性あるよなあ」と妙なところで感心してしまった。


 チームは貯金10を目前に5連敗を喫し、優勝争いから脱落する。それでも何とかAクラス入り、そして16年ぶりのシーズン勝ち越しを。終盤になってもチームのモチベーションは高かった。須藤監督が去った後、チームを立て直した江尻監督を切ってまで新球団を任された近藤監督。結果が出ない間は批判にまみれ、スタンドの僕らも文句ばかり言っていた。「あそこまでして駒田を獲った意味あるのかよ」「近藤は絶対谷繁のこと嫌いだよなあ」「バントばっかでつまんねえ」「ベイスターズって名前、どうにかならないのかよ」。でもこの年、チームは明らかに変わりつつあった。「あれ、近藤って実はいい監督かもよ」「来年はもしかしたらもしかするんじゃね?」。手のひら返しもいいとこだ。



あっけない形で終焉を迎えた近藤ベイスターズ


 9月のある日、目を疑うような見出しがスポーツ紙に躍る。「横浜近藤監督 社長批判」「退団覚悟」「素人が引っかき回すからダメなんだ」「白紙の来季に怒り とまどう大堀社長」(9月22日付報知新聞より)。3年契約の最終年、ここまで若手を育て、戦えるチームにしたのになぜ来季の打診がないのか。しかも水面下では次期監督の擁立の動きがある。俺を馬鹿にしているのか——。近藤監督怒りの爆弾発言だった。「もうおれのハラは決まっている。こんな思いでやってられないというのもある。しかし最後まで戦い抜いてチームの目標だった65勝という数字を突き付けてやりたい」。時を置かずして退団が決定、近藤ベイスターズはあっけなく終焉を迎えた。


 近藤さんは最後まで手を抜かなかった。辞任発表後の9月27日巨人戦、同点の7回一死三塁で波留がスクイズを2度敢行し、いずれも失敗したものの相手の暴投を誘い、これが決勝点となる。みずしな孝之先生が命名した「ノーアウトかワンアウトでランナーが三塁にいるときスクイズしないと死んじゃう病」をとことん貫き通したのである。怒り、意地、執念。色々と合わない部分はあれど、今までチームになかったものを植え付けてくれた。それでも志半ばでチームを去ることに忸怩たる思いがあったのだろう。最終戦後の記者会見では「欲を言えば、もう一度勝負してみたかった」(10月18日付神奈川新聞より)と悔しさを覗かせた。野球の上辺ばかり見ていたハタチそこそこの若造は、この会見をスポーツニュースで観て近藤さんの思いに触れたのだ。



 98年10月9日早朝、僕は開いたばかりの駅の売店ですべてのスポーツ紙と一般紙を買い求め、部屋でじっくりと優勝の余韻にひたっていた。この日はどのスポーツ紙も3面、4面まで横浜、横浜だ。そこでふと目にしたのが「古巣・横浜Vの日に ロッテ近藤監督退団」の記事。教え子たちが甲子園で38年ぶりの歓喜の中にあったまさにその日、近藤さんはまたしても不本意な形で監督の座を辞していたのだ。僕は前日の死んでもいいくらいの最高の瞬間を噛みしめながらも、同時に近藤さんのことを思わずにはいられなかった。


 近藤昭仁さん、安らかにお眠りください。


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(黒田 創)

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