綾戸智恵、67歳なりに活動中「脳梗塞で倒れた母を見送って。介護は17年続いたけれど母が喜ぶと嬉しいからやっただけ。親の介護は義務じゃない」

2025年4月17日(木)12時30分 婦人公論.jp


「人生って、わからんもんやなと思います。音楽の授業で先生から、〈ガラガラ声やから休んどいて〉と言われてた私が歌手になるんですから」(撮影:洞澤佐智子)

「老いは財産や」と語る綾戸智恵さん。母親を介護した日々では、精神的に追いつめられたこともあったと言います。老いていく母に学んだ、綾戸さんの生きるうえでの指針とは(構成:丸山あかね 撮影:洞澤佐智子)

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ガラガラ声こそ私の特徴になった


綾戸さんはいつも元気いっぱいですね、と言われるんですけど、そんなことありませんよ。若い頃とは違うからペースを整え、67歳なりにやってます。コンサート活動のほか、2022年はアルバムも発表しました。

私は音楽が好きで、それを支えてくれてるのはお客さんだと感謝してます。好きなことを仕事にできるのは幸せなことですし、音楽に出合わせてくれた母には感謝しかありません。

父が早くに亡くなってから、母は私のことを第一に考えて大切に育ててくれました。そんな母が私を通わせる先に選んだのが、カトリック系の幼稚園。英語や芸術の授業があった影響で、私はその頃にクラシックピアノを始め、小学校に上がるとテレビや映画で見たシーンを真似して歌うようになったんです。

人生って、わからんもんやなと思います。音楽の授業で先生から、「ガラガラ声やから休んどいて」と言われてた私が歌手になるんですから。

「自分はガラガラ声なんや」と受け止めるだけで卑屈にならなかったのは、母が「欠点も年を重ねると自分の特徴になる」と言ってくれたから。

母はいつも先生に「私もこの子にどんな可能性があるのかわかりません。だからこそ何でもやらせてやりたいので、個性を潰すようなことだけはしないでほしい」と直談判してくれました。

小学校で国語の先生と折り合いが悪いと打ち明けた時も、「その先生には国語だけは習っといで」と言ってましたね。「助言にふりまわされたらアカンで。それはその人の価値観やからね」というのが母の教えでした。

そんな母のもと、私は自分の個性を活かして中学生の頃からジャズバーで演奏をするようになります。高校時代に渡米したいと言った時も、「お母ちゃんは、アンタが困った時はしっかり守ったる。恐れず何でもやりなさい」と背中を押してくれました。

「ただし寿命というもんがあるから、私はいつかいなくなる。そうなった時に一人で生きていけるように、しっかりいろんなことを経験してきなさいよ」と続きます。

傍から見れば、母は生きる哲学を持っている人。親戚に言わせると、戦時中でも「私は大学へ行く」と言い張って福岡から名古屋へ行くほどのわがままな人でした。意志が強いというのはわがままと表裏一体なのかもしれませんね。

でも私は母が大好きだったし、尊敬していました。母から命じられたわけでもないのに、物心ついた頃には敬語で接していたんです。4年前に母が96歳でこの世を去るまでほとんど言葉を崩したことはありません。

子育てに介護、落ち込んでいる暇はない


母の介護を17年しました。こう言うと、介護の話をしてほしい、コツを教えてほしいと頼まれます。でも、はっきり言って人の介護話なんか参考になりません。みんなが同じ道を辿るわけやないから。

逆に親の介護をし終わった人の話は、これから介護をする人たちのプレッシャーになるのではと思います。どんだけ大変か聞かされた挙句、みんなやってるのだから自分も頑張らなければ、と思うでしょ。

でも親の介護は子の義務やないんですよ。気が進まへんのやったら、せんでもええねん。私は自分のために母の介護をしました。母が喜ぶと嬉しいからやりたかっただけです。

それに一人でやったわけではありませんよ。周りの人にどれほど助けてもらったか。ただ、17年も続くとは思ってなかった。(笑)

アメリカで結婚した私が離婚し、生後6ヵ月だった息子のイサを抱えて帰国したのは33歳の時でした。

そこから母との3人暮らしが始まったんですけど、落ち込んでる暇はなかった。とにかく息子を食べさせなくてはと、近所の子たちに英語やピアノを教えたり、ジャズバーで演奏したりと何でもやりました。

やがて私はジャズバーでスカウトされて、40歳でデビュー。翌年、「テネシー・ワルツ」や「アメイジング・グレイス」などを収録したアルバムがおかげさまで大ヒット。あれよあれよという間に忙しくなりました。

母から、「どないでも好きにしたらええけど、お母さん業をやめたら歌えなくなるよ。人間失格やからな」と言われた私は、毎朝、息子のお弁当を作って仕事に出かけてました。

親としてしっかり働かないといけないという責任感と、お客さんの前で歌う喜びに支えられて、年間250公演ものコンサートをしていたんです。

おかげで家も建てられて(笑)、よかったなぁと思っていたんですけど、デビューから7年後のある朝、母が脳梗塞で倒れて……。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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