漫才ブームを担った「B&B」島田洋八75歳が語る、運と芸人、相方のこと。頂点を極めた男が噛みしめる成功のカギ
2025年4月17日(木)12時30分 婦人公論.jp
(撮影:中西正男)
1980年代初頭の漫才ブームで中軸を担った「B&B」の島田洋八さん(75)。漫才師として芸能界の頂点に駆け上がり、映画『鮫肌男と桃尻女』(1998年)など役者としてもキャリアを重ねてきました。65歳で大腸がんに罹患。2023年には妻の真紀さんが57歳で逝去するなど、人生の悲哀も噛みしめてきました。今痛感する成功のために最も大切なもの。そして、相方・島田洋七さんへの思いとは。(取材・文・撮影:中西正男)
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前回「浪曲師として初の人間国宝・京山幸枝若「義理人情、親孝行が普遍的に詰まった芸。ゴールではなくスタートやと」」はこちら
この世界は運が大事
去年、兵庫県高砂市で6年ぶりに洋七と漫才をしました。今年に入ってからも2人で舞台に立ったんですけど、どんなネタをやるとか事前の打ち合わせは一切なしです。相方がしゃべりだしたら、サッと合わせる。そんな感じです。
イヤ、別にカッコつけてるわけじゃないんですけど(笑)、相方がね、ネタを教えてくれないんですよ。「お前には教えない!新鮮味がなくなるから」と。だからね、舞台上での「なんでやねん!」はセリフではなく全部心からの「なんでやねん!」です。リアルな会話の上でのツッコミですから。
昔に比べるとかなりネタのテンポはゆっくりになりましたけど、それはそれでお客さんにとっても聞きやすいみたいですし、今の僕らにも合っている。
もう2人とも70代半ばになって、僕も大きな病気を経験しました。漫才はどっちかがいなくなったら終わりです。周りでもどちらかが先にあっちの世界に行ってしまったという仲間がたくさんいます。幸い、ウチは2人とも生きている。これも、ただただありがたいことですけど、つくづくこの世界は運が大事。そう思います。
「人間の面白さ」
洋七が声をかけてくれて漫才を久々にやりだしたのもそうですし、去年からサンミュージックと業務提携をしていて、事務所にはたくさん芸人もいるので若い人のネタを見る機会も出てきました。
今のお笑いは本当にすごい。正直、もう、僕らはついていけないですよ(笑)。すごいことを今の人はやってるからね。ただ、僕らが若手の頃と一番違うのは「人間の面白さ」というところなんかなと思います。
同年代のぼんちおさむでも、西川のりおでも、そして洋七でも、まず人間として面白い。生き方が普段から規格外。舞台以外のムチャクチャさも舞台上でニオイとして出てくる。それがネタの破壊力につながっていったところはあったと思います。
イメージ(写真提供:Photo AC)
もちろん、時代が違う。芸人に求めるものが違う。昔と今とではあれもこれも違うんですけど、ネタ以外の雑味が面白さでもあると思うんですけどね。それはどんどんどんどん削ぎ落とされてますよね。それが今なのかもしれないけど。
漫才は全然知らなかった
もともと僕は役者志望で岡山から大阪に出てきました。吉本興業の劇場で雑事をする進行という仕事をしながら勉強するような日々でした。吉本興業にいるものの、基本的には役者がやりたかったので、漫才は全然知らなかったんです。
そこで洋七から「漫才をやらないか」と誘われたのが全ての始まりでした。それまで洋七は2回相方を変えていて、新しい相方を探す中で、桂三枝さん、今の桂文枝さんから「これからは漫才師もルックスが大事」という話を聞いて、自分で言うのもアレですけど(笑)、見てくれが悪くなかった僕に声をかけてくれたみたいです。
そこから、おかげさまで数年間は横になって寝る時間もないような日々を過ごさせてもらいました。平日はフジテレビ『笑ってる場合ですよ!』という帯番組があって、週末は各地で営業がある。その合間に他の番組にも出る。睡眠は移動の電車くらい。夜中まで収録をやって明け方から朝まで飲む。そんな生活でした。
イメージ(写真提供:Photo AC)
ムチャクチャでもありましたけど、そんな生活になるくらいお仕事をいただき、岡山の親にも仕事ぶりが見せられるくらい、たくさんテレビにも出してもらいました。親孝行もさせてもらいました。
稽古だけは誰よりもやってきた
今になっていろいろと振り返るたびに、本当に運の力を噛みしめています。僕の前に洋七と組んでいた今の「西川のりお・上方よしお」のよしおさんは大阪の出身なので、東京に行こうという洋七と意見が合わず解散になったと聞きます。ただ、僕は岡山から出てきた人間なので、大阪でも東京でもどちらでも同じという感覚があったので、洋七の申し出をすぐに受け入れました。そして、世の中がちょうど漫才ブームに向かって走っていた。
こんな流れは自分ではどうしようもないですから。ただ、これも自分で言うのはおこがましいですけど、運を引き込むもの。それがあるとするならば、稽古だと思います。
これも運なんでしょうけど、僕がお笑いの素人だったがゆえに、稽古だけは若い頃から誰よりもやってきました。周りから「お前ら、おかしいんちゃうか」と言われるくらいやってきました。だからこそ、流れが来た時にチャンスをつかめたのかもしれませんし、世に出てからもしばらく走り続けられたのかもしれません。
若い頃に比べたら、猛烈な稽古を今はやっているわけではないんですけど、それでも稽古をして舞台に立つ。この時の緊張感。これが一番楽しいんですよね。だからこそ、今でも続けているんだと思います。
…え、若い人たちへのアドバイスですか?それはね、逆にオレが教えてもらいたいわ(笑)。それがしっかり分かっていたら、もう少し売れてたかもしれんね。
■島田洋八(しまだ・ようはち)
1950年2月13日生まれ。岡山県出身。75年、島田洋七の3人目の相方としてお笑いコンビ「B&B」を結成。80年にスタートしたフジテレビ『笑ってる場合ですよ!』の司会を務めるなど、漫才ブームの中核を担う。81年に始まったフジテレビ『オレたちひょうきん族』ではビートきよし、松本竜介と「うなずきトリオ」を結成し人気を博す。83年にコンビ解散。その後、藤井洋八の名前で俳優としても活動し、映画『鮫肌男と桃尻女』などに出演。96年にコンビを再結成。
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