映画『Love Letter』岩井俊二監督インタビュー:小樽の雪がもたらした“奇跡”と果たせなかった中山美穂さんとの約束
2025年4月17日(木)8時30分 オリコン
公開30周年記念『Love Letter 4Kリマスター』について取材に応じた岩井俊二監督 (C)ORICON NewS inc.
——長編デビュー作『Love Letter』の公開から30周年を迎え、4Kリマスター版の上映が始まりました。今の心境はいかがでしょうか?
【岩井】そうですね…。やっぱり中山美穂さんが亡くなってしまったことがあるので、とても複雑な思いです。今年は『Love Letter』が30周年で、僕自身の長編映画監督デビュー30周年でもあり、美穂ちゃんはデビュー40周年という「メモリアルイヤー」なんです。去年の11月ごろ、美穂ちゃんと「来年(2025年)はいろいろ一緒にやれたらいいね」なんて話をしていたんです。まさか、彼女が亡くなってしまうとは予想もしていなかったことです。4Kリマスターを一緒に観たかった。それが今、一番思うところです。
——改めて『Love Letter』を観ると、この映画、まったく色あせていないと感じました。
【岩井】そう感じてもらえたのはうれしいです。今回の4Kリマスターでは、大きく手を加えたわけではないんです。撮影監督の篠田(昇)さんも亡くなってしまったんですが、彼と一緒に最終的に仕上げた“色”というのがあって、それをなるべく尊重するかたちで整えました。
でも、やっぱり美穂ちゃんが亡くなってすぐこの作品と向き合うのは本当にきつかったです。正直、直視できないような感覚で、あまり感情に引っ張られないように、「技術チェック、技術チェック」と自分に言い聞かせながら作業していました。
僕が美穂ちゃんにしてあげられることは、『Love Letter』にまつわることしかない。彼女は、本当に唯一無二のアイコンでした。僕自身もできる限りのことをして、少しでも彼女の爪痕を残す一助になれば…そんなモチベーションでこの作業に臨んでいました。
■会ってみてわかった。中山美穂さんの“素”の魅力
——当時の中山さんの魅力をどれくらいフィルムに収められたと感じていますか?
【岩井】僕なりに余すことなくフィルムに収められたと思っています。キャスティングの段階では、少し迷いがあったんです。当時の彼女は、どちらかというとコミカルな明るい役が多かったので、渡辺博子のように、彼氏を亡くして傷心の女の子を演じられるのか、という不安がありました。でも実際にお会いして話をしてみたら、その印象がガラッと変わったんです。テレビで見る“演技”とは違って、実際の彼女はすごくトーンの落ち着いた、内面を感じさせる人でした。会ってすぐ、渡辺博子も藤井樹も「両方できるな」と思いました。
ご本人はその逆で、「自分は藤井樹に近いけど、渡辺博子はどう演じていいかわからない」と現場で話していました。僕から見ると、「いや、むしろそのままで博子になれるんだけどな」と思っていたんですが、それをどう伝えるか、すごく気を遣いました。最終的には両方を見事に演じ分けてくれました。撮影現場で僕たちが見ていた“素の彼女”──世の中にはまだ知られていなかった彼女の側面も、ちゃんとフィルムに刻めたんじゃないかなと思っています。本当の“素顔”はわからないですけど、少なくとも現場で見ていた彼女の魅力の一端は、映画の中に確実に残っていると感じています。
——これ以上ない長編映画監督デビューを果たされた。
【岩井】「デビュー」と言っても、学生時代から映画を作っていましたし、プロとしてすでにドラマを何本か手がけていたんです。だから『Love Letter』が自分の中で“初めて”という感覚はあまりなかったですね。スタッフも初めての人たちはほとんどいなくて、映画を撮る時はこのチームでやろうと準備していたんです。現場では、まさに信頼する仲間たちと一緒に、和気あいあいとした空気で挑んでいました。ただ一つ、「これを失敗したら、映画の仕事はもう来ないだろうな」というプレッシャーはありました。
■まるで映画の神様がいたかのような撮影の日々
——しっかりとした“助走”があってのジャンプだったんですね。
【岩井】そうですね。それでも失敗の可能性はありました。実は撮影現場は、過去一で大変だったんです。神戸と小樽が舞台の話ですが、撮影はすべて北海道で行っていました。途中からインフルエンザが流行って、スタッフがほとんどホテルの部屋から出て来られなくなってしまって。人手が足りず、撮影の合間にロケハンに行き、役者さんを呼びに行き、あっちこっち走り回って…監督業以外のことも本当にいろいろやっていました。
でも、こういう静かで美しい映画を目指していたからこそ、現場の混乱が作品に影響するようなことは絶対にしたくないという緊張感の中で、自分を奮い立たせていた記憶があります。
——『Love Letter』の舞台・小樽。あの場所じゃなければ成立しなかったのではと、今も思います。
【岩井】それは本当にそう思います。撮影は10月下旬から12月初旬までだったんですが、10月、11月は小樽にはあまり雪が降らないんですよ。でも「この日だけは雪が必要」という時に限って降ってくれる。そして次の日には雪がすっかりなくなってる。本当に不思議でした。
——“映画の神様”がいたんですね。
【岩井】まさに、そんな感覚でした。美穂ちゃん以外のキャストは撮影日だけ現場に入るというスケジュールだったので、もし雪が降らなかったら…もう成立しない場面ばかりになる恐れがあった。雪を降らせる装備も用意していましたが限界はある。でもほとんど使わずに済んだんです。本番の時だけ降ってくれたんですよ(笑)。『Love Letter』の現場はある種の奇跡の連続でした。例えば、酒井美紀さんが雪の上を滑るシーン。前日まで雪なんて全くなかったのに、「明日はここで撮影する」と信じていました。でもアスファルトに多少の雪が積もっただけでは滑れない。どうしようかと悩んでいたら、前日の夜に除雪車が通ったあと、表面に薄い氷の膜のような層ができていて、それがちょうど“滑れる”状態を作ってくれたんです。僕自身もそこで転んで、「あ、ここ滑る!」って。すぐに運転手さんに頼んで「明日この場所へ来て、同じようにしてもらえますか?」とお願いして、来てもらいました。本当に、前日の夜まで何も用意してなかったのに。ミラクルですよね。
あの時はまだフィルムだったので、雪の美しさがちゃんと撮れたのも大きかったです。秋の雪って、すごく綺麗なんですよ。しかも常に“新雪”。汚れていない。映像としての美しさも、あの環境がなければ成立していなかったと思います。
——日本公開後、20以上の国と地域で公開。1999年に韓国で初公開された際には140万人を超える動員を記録。今年1月には9回目のリバイバル上映が話題となりました。アジアでの人気は絶大で、小樽へ聖地巡礼に訪れるファンも後を絶ちません。
【岩井】そうなんです。韓国ではこの映画、本当に支持されていて。日本で公開(1995年3月25日)された当時は、最悪のタイミングでした。地下鉄サリン事件の直後で、「映画館に行くのが怖い」という空気がありましたから。当初はミニシアター中心の展開でしたし、特に大ヒットという感じでもなかったんです。
——それが、なぜかアジアで“爆発”した。
【岩井】最初は海賊版のビデオで広まったらしいんです。日本映画がまだ上映解禁されていない時代だったので。それが正式に上映できるようになった後、すでに観ていたファンが「今度はきれいな映像で観たい」と劇場に足を運んでくれて、大きなヒットになりました。僕が初めて韓国の映画祭に呼ばれたときも、アイドルのようにファンの方に追いかけられて…意味がわからなかったです(笑)。
——『Love Letter』のような映画を作りたい、と思っても奇跡までは真似できないですよね。
【岩井】僕たちも全力でやったのは間違いないですけれど、雪が降らなかったら全然違う作品になっていたと思います。その後、『チィファの手紙』(2018年)を中国・大連で撮ったとき、「雪がないってこういうことなんだな」って。『Love Letter』の奇跡を実感しました。
■“『Love Letter』っぽい”って言われると、うれしい
——『Love Letter』を彷彿とさせる作品もまた、数多く生まれていますよね。そういうのを観てどう思われますか?
【岩井】うれしいですよ。僕自身も、先達の作品を少しずつ“パクって”ここまでやってきたので(笑)。それは一種のバトンリレーだと思っています。むしろ、完全にスルーされる方が寂しいですから。少しでも足跡を残せたらうれしいですよね。
——天国の中山さんに伝えたいことは?
【岩井】美穂ちゃんとは、「また一緒にやろうね」とずっと話してたんです。でもそれが叶えられなかった。本当に、それだけが心残りです。自分の未熟さでもあるし、不甲斐なさでもあります。でも彼女の才能が残してくれたものは、4Kリマスターによって美しくよみがえって、今もたくさんの人に届いている。この作品に関われたこと、それ自体が、かけがえのない奇跡でした。